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和泉さんの告白

 和泉さんの話があまりに衝撃的で悲劇的で、こんなに泣いたのは、コロナ禍の真っ最中にシンガポールにいる牧が高熱を出した時以来だ。
 「遠く離れているだけでも辛いのに、牧にもしものことがあったらもう生きていけねえ!今から海を泳いでそっち行く〜!」
 俺がそう叫んで大泣きしたら、パソコンの画面に映る牧から「大丈夫ですよ。春田さん一人残して死ねないですから」と逆に慰められてしまった。
 もしあのまま牧が天国に行っていたら…と思うと、秋斗さんも和泉さんも可哀想で可哀想で涙が止まらなくて、脱水症状一歩手前くらいになった。
 「再出発できると思ったのに、人生というものは残酷だ」
 和泉さんは血を吐くように言って滂沱(ぼうだ)と涙を流し、急ピッチで酒をあおった末に、いきなり電池が切れたみたいにカウンターテーブルに頭をのせて眠ってしまった。
 秋斗さんは、本当に和泉さんを愛してたんだなあ。和泉さんをかばってピストルで撃たれて死んじゃったんだもんなあ。ドラマみたいじゃん。同じ状況になったら、絶対俺も牧をかばって銃弾を浴びたいけど、そういう状況になった場合、木偶の坊(でくのぼう)将軍の俺は一瞬で牧に組み伏せられて、結果牧は死んで俺はおめおめと命が助かってしまうだろう。想像しただけで自分を極寒の川に流したい。
 秋斗さんと俺は、似てるのは顔だけで、俺とはぜんっっっっぜん違うかっこいい人だ。小悪魔の上に頭良くて、勇気があって、いざという時には愛する人の身代わりになって死ぬなんて、もう尊過(とうとす)ぎて拝むしかない。
 だけど和泉さん、辛いだろうなあ……。そこで時が止まってるもんなあ。和泉さんの時計は一生動かないんだろうか。秒針が少しでも先に進むことはないんだろうか。
 秋斗さんを忘れることは無理でも、せめて少しくらい忘れている時間があればいいのに…。秋斗さんが死んだ瞬間から、和泉さんの人生には「心から笑った幸せな日」なんかなかったんだろうと思う。めちゃくちゃかわいそうじゃん。
 和泉さんが心から愛し合える人と出会えたらいいのにと思うけど、自分の身代わりになって死んだ恋人には絶対にかなわない。むずかしいよなあ…。
 ようやく目を覚ました和泉さんに肩を貸して、一緒にタクシーに乗り込んだ。隣同士というのはこういう時、超便利だ。
「和泉さん、家につきましたよ」
 タクシーが家の前について声をかけたその時、玄関から菊之助さんが飛び出してきた。
「春田さん、すみません」
 菊之助さんは俺に一礼して和泉さんの脇に手を入れ、軽々と抱き上げた。四十キロくらいの華奢な女の子をお姫様抱っこしたみたいに、顔色ひとつ変えない。 
 俺は思わず「かっけえ」とつぶやいた。
 和泉さんはまだ酔いが覚めていなくて、その上車の中で爆睡していたので夢うつつという感じだ。
「ああ、お前か」
 そう言って菊之助さんの頭をクシャクシャとなでた。
「可愛い弟よ、兄さんは飲み過ぎたよ」
 二人が玄関の中に入っていくその時、菊之助さんがため息まじりに小さくつぶやいた。
「弟なんかじゃねえよ……」
 思わず「え?」と聞き返すと、菊之助さんは「お世話になりました。おやすみなさい」と笑顔で言って、そそくさと家の中に入ってしまった。
 俺はなんとなく、その言葉が小さく心の隅に引っかかった。

 北海道の出張から帰って来た牧との三日ぶりの再会は、踊り出したいくらい嬉しかった。
「なんか、幸せ過ぎて誰かに謝りてえわ」
 牧のお土産をつまみにして酒を飲みながら、しみじみとつぶやいた。
「え?なんですかそれ」
 牧が頬をほんのり桜色に染めて笑った。
「世界で一番好きな人と〜、おそろのルームウエアを着て〜、極上炙(あぶ)りイカ軟骨を食べながら〜酒を飲む。幸せがパーフェクト過ぎ。俺たちってさ、ピラミッドの上の方っていうか、地球上で最高に幸せな人間だよな」
「まあ、そうですね」
「愛する人を永久に失っちゃった和泉さんとか、恥も外聞もかなぐり捨てて人間の尊厳ギリギリのところでオムツパートナーを探してる武川さんとか、元婚約者の家で電球替えようとして足をひねっちゃった黒澤部長とか、結婚した相手がゴキブリのウンコ以下だったちずとか…。なんか、申し訳ないなあって……。っつうか、炙(あぶ)り焼きチータラうめえ!」
ぴょんぴょん跳ねる俺を生温かい目で見ていた牧が、ふっと視線を宙に彷徨(さまよ)わせた。
「さっき春田さんが言ってたオムツ同盟、いいかもしれないですね。俺の親父も黒澤部長も武川さんも、みんなで家族になって、みんなで笑って……」
「だろ!?いいよなあ家族って。俺さあ、お義父さんのお尻拭かせてもらって、やっと家族にしてもらえた気がしたんだよなあ。マジで嬉しかった」
「ほんっとに、春田さんって尊過(とうとす)ぎて引くわ〜」
「引くなよ」
「世界中の人がみんな春田さんみたいだったら戦争なんて起きないですよね。まあ文明の進歩も望めないですけどね。多分今でも馬車と蝋燭(ろうそく)で、地球が丸いことも知らないだろうな」
「うるせえわ」
 酒が回って大きな目がトロンとしている牧の横顔を見ながら、俺はピラミッドの頂点部分にいる幸せを噛み締めていた。
「ありがとな」
 牧がキョトンとして首を傾げた。
「え?何がですか?炙り焼きチータラ?」
「それもあるけど、何もかも全部。あとで一緒に風呂入ろうな〜。背中流してやるからさ〜」
「片付けがあるんで先に一人で入って下さい」
「やだよ〜。三日も一人でいたんだから、もう一分も離れたくねえよ〜」
 牧のルームウエアの袖を引っ張りながら駄々をこねまくる俺を、いつものようにクールにあしらいながら、牧の目の奥が笑っていた。
こんな風に笑い合いながら、年を取ってオムツパートナーになっていく未来を、俺は胸が痛いくらい幸せだと思った。


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