凪叶人、智夏に化ける

「智夏(ともか)ちゃん! 智夏ちゃん! 智夏ちゃん!」
 あっと思う間もなく、叶人が秋臣を押しのけて門の中に走り込み、寿美子を抱きとめた。
「おばあちゃん!」 
 見ると、その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。秋臣は目の前の光景にあっけにとられ、言葉を失ってしまった。
「おばあちゃん、会いたかったよー!」
「ああ、おばあちゃんもどんなに会いたかったか。毎日お祈りしてたのよ。智夏ちゃんが元気で幸せでいるようにって」
 抱き合う二人の横で、秋臣は呆然と立ち尽くした。
 寿美子はボロボロと涙を流しながら叶人の頬を両手で挟み、顔を覗き込んだ。
「よく顔を見せて。パパよりイケメンだけど、やっぱり親子ね、どこか似ている気がするわ」
 共通点など全くないのに、親子と思い込んだ目にはそう映るのかと秋臣はほっと胸をなでおろした。安堵が全身に広がっていく。
 寿美子は偽物の孫から目を離さず、しっかり手を握ったまま「さ、早くお入り」と幸せそうに微笑んだ。
 秋臣は母のこんなに嬉しそうな顔を見たことがなかった。骨が軋(きし)むような罪悪感が秋臣を搦(から)め捕(と)っていく。母亡きあとで、どんなにかこの微笑みを切なく思い出すだろうかと胸がえぐられるようだった。
 家に入るなり、叶人は「わあ!」っと歓声を上げた。
「素敵な家だね。こんな家、映画でしか見たことないよ」
 門から玄関までの苔むした飛び石、つやつやと飴色に光る廊下、柔らかな肌を持つ土壁。
 一階は庭に面した広縁付きの部屋と母の寝室、台所の横には食事をするための茶の間がある。母が時折蜜蝋(みつろう)を塗って手入れをしている階段を上がると、物置部屋と六畳間があり、そこが秋臣の部屋だ。秋臣はこの家で大学に入学するまでの十八年間を過ごした。
 並んで広縁に座って団子を食べながら満月を見上げた父の横顔、台所で梅の実のヘタを竹串で取っていた母の姿や、庭を埋め尽くす色とりどりの枯葉。四十年以上の月日に洗われた家はそこかしこに想い出を刻んで、家族の歴史を語り続けている。
「お腹空いたでしょう? 夕飯にしましょうね」
 茶の間の卓の上には隙間がないほどたくさんの料理が並んでいた。
「何が好きかわからないから色々作ったの」
  寿美子はまた叶人の手を握った。手を離せば孫が消えてしまうと恐れているようだった。
「母さん、智夏はどこにも行かないよ」
  息子に言われて寿美子はしぶしぶ孫の手を放した。
「さあ、智夏君食べて。好きなものだけでいいわよ。残しても構わないからね。明日はなんでも好きなものを作ってあげる。何が好き?」
「ここにあるもの、みーんな好き。美味しそうだなあ! おばあちゃんありがとう。いっただきまーす! お父さんも食べようよ」
 すらりと出た「お父さん」の自然さに秋臣はどきりとした。
 寿美子を喜ばせるためなのか、それとも本当に腹が減っているのか、彼方は片っ端から料理に手をつけ、飢えた人間が久しぶりに食べ物にありついたかのように平らげていく。その豪快な食べっぷりに、寿美子は心底嬉しそうな笑顔になった。
「美味しい?」
「うん! おばあちゃん、こんな美味しいご飯初めて食べた」
「あらあら、ママに叱られるわよ。ママはお料理上手でしょ?」
「まあね。だけどおばあちゃんには負ける!」
 とろけそうな笑顔で叶人を見ている母の姿に、秋臣はここ数日喉元をふさいでいた塊をやっと飲みくだした。これでよかったんだ……。これは間違った選択ではないんだ。
 言い聞かせ言い聞かせしながら飲むビールは久しぶりにうまかった。

 秋臣は広縁に立ってガラス戸を開け放った。この部屋は元々父の部屋で、庭全体が見渡せる。客用座敷として使っていたが、これからは秋臣の寝室になる。網戸を通して湿気を含んだ生温い草の香りが入ってきた。ケラ、クビキリギリス、マツムシ、昼間には鳴かない虫たちの声がそこかしこから聞こえてくる。
「エアコン、つけないの?」
 いつの間にか叶人がいて、敷いたばかりの布団にあぐらをかいた。叶人は「純真な高校生」から、世間慣れして少しスレた26歳の青年に戻っている。
「あんなんでよかった?」
 叶人の変貌ぶりに秋臣は舌を巻いた。さっきとはまるで別人だ。
「期待以上だよ」
「そう。ならいいけど」
 叶人は立ち上がり二階の寝室に戻ろうとした。そこは昔秋臣が使っていた部屋だ。
「ここで一緒に飲まないか?」
 秋臣が誘うと叶人は「俺高校生だよ」とニヤッと笑った。
「今だけは叶人君に戻っていいよ」
 その言葉に、叶人は肩をすくめて縁側に座った。
「ビール取ってくるから待ってて」
 秋臣は冷蔵庫の余り物とビールを持ってきて縁側に置き、マッチを擦って蚊取り線香に火をつけた。
「夏の庭の匂いと虫の鳴き声が好きだから、寝る直前までガラス戸は開けておくんだ」
「ふうん。虫の声なんて普段聞くことないなあ」
「都会にはあまりいないからね」
 サザンカ、クチナシ、梅、夾竹桃、金木犀……四季を彩る花木が常夜灯のぼんやりした灯に照らされて時折さやさやと枝葉を鳴らしている。
「この家、いいなあ。なんか懐かしい感じがする」
 どうやら叶人は下戸のようで、グラスに二杯飲んだだけで頬が桜色に染まり、目元がとろんとしてしまった。口数が多いのは酒のせいらしい。庭を見やった彼の瞳は悲しみを宿してはいないのに、なぜか見つめている秋臣を悲しくさせた。 
「叶人君はどんな家で育ったの?」
 叶人はうす笑いを浮かべてごろりと寝転んだ。そしてしばらく無言でいたが、半身を起こしてビールに手を伸ばした。秋臣は叶人の手を押さえてビール瓶を取り上げた。
「もうそれぐらいにしたら?」
 虚しく宙をつかんだ叶人は、また仰向けに寝て手枕で天井を見た。
 「俺、施設出身なんだよ」
  柱にかかったっゼンマイ仕掛けの振り子時計がボーンボーンと鳴り始めた。十時を知らせる音が鳴り止むのを待って、叶人はまた重い口を開いた。
「臍の緒が付いたまま病院の前に捨てられてたんだってさ。叶人って書いた紙が産着の中に入ってたからその名前になって、凪は役所の人だか施設長だかの苗字をつけたらしい」
 あまりに淡々と語られた言葉に秋臣は呼吸さえ忘れて叶人を見つめた。その表情と口調には自己憐憫や寂しさなど微塵も感じられない。
「だから普通の家族ってどんなものかわかんないんだよね。おばあちゃんって、みんなそんなに孫が可愛いの? 親が死ぬのってそんなに悲しいの? 願いを叶えてやるために、こんな嘘までつくくらい息子ってそんなに母親が好きなの?」
 まるで幼子が、大人にとっては当たり前のことについて訊くような問いかけに、秋臣はかける言葉を持たなかった。肯定も否定もしたくなかった。ただ叶人が哀れでたまらなくなり、思わず手を伸ばしてその頭をそっと撫でた。
 叶人はその手を振り払うこともなく静かに庭を見つめていた。二人の耳に聞こえていたのは、夏の虫達の競い合うような鳴き声だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?