夫の恋人

「好きな人ができた……」
 夫から告げられた時、来栖(くるす)はさほど驚かなかった。
ああ、やっぱりか……。この数ヶ月、理人(りひと)の様子がおかしかったのは、このためだったのだ。
 帰りも遅く、一緒にいてもぼんやりと上の空で、何かを思い悩んでいるのが手に取るようにわかった。しかし、どんなに問い詰めても「何でもない。仕事で疲れているだけ」の一点張りだった。夜遅く帰って来ることが多かったが、きっと彼女と一緒にいたに違いない。夜食を作って待っていた自分がひどく間抜けに思えた。
 来栖は身の内にあるプライドと理性をかき集め、決して取り乱すまいと静かに息を吸ってゆっくり吐いた。
「その人…私より綺麗?」
 理人は答えず、ただ黙ってうつむいた。
「幾つ?」
「……三十七」
 自分より七歳年上と聞いて、一瞬優越感が頭をよぎった。そして次の瞬間、そんな自分が嫌いになった。
 二人の間にあるテーブルに置かれたお揃いのマグカップから柔らかな湯気が立ち上っている。日曜日にはいつも遅く起きて、二人でコーヒーを飲みながら一週間の出来事をゆっくり話すのがいつの間にか習慣になり、来栖はいつもそれを楽しみにしていた。まさか、こんな話をされるとは夢にも思わなかった。
「その人、私よりあなたを愛してる?」
 自分の言葉に傷つくとわかっていた。まるでそれは痛みを痛みで消そうとするようなもので、なんの救いにもならないということも。
 理人は何も答えなかった。それは「イエス」の意味なのだろうか。その無言が悲しかった。
「これから、どうするつもり?」
「ごめん……」
「だからどうしたいのよ。理人、ちゃんと答えてよ」
「別れて……欲しい。本当にごめん。来栖は少しも悪くない。すべて俺の責任だ」
「私と別れて彼女と結婚するわけね。もしかして……妊娠してる?」
「違うよ! 一緒には暮らすけど結婚はしない。生涯、妻と呼べる人は君一人だ」
「嘘ばっかり! そんなこと信じるほどバカじゃない」
 理人はひどく青ざめて、下瞼にくっきりと濃いクマが浮いていた。おそらく夕べは一睡もしていないのだろう。
「あなたの両親とうちの両親にも言わなきゃね」
「うちの親には昨日伝えた。本気で勘当されたよ。もう息子じゃないって。来栖さんに申し訳ないって泣いてた。君が会ってくれるなら直接会って謝りたいって」
「もちろん会うよ。この先もこの絆を切りたくない。お誕生日とか母の日父の日にはプレゼントだって贈りたいし。失うのはあなただけでいい」
「ありがとう。うちの両親が、これからは来栖さんだけが我が子だって言ってたから喜ぶよ」
「親不孝者」
「わかってる。一生許してもらえないと思う」
 孫が生まれたらすぐに許してくれるに決まっている。心の中でそう思ったが、来栖は口には出さなかった。
 訊きたいことも言いたいこともたくさんあるはずなのに、何一つ思い浮かばない。理人に好きな人ができて離婚したがっている。それがすべてだ。今さら何を訊いたところで、それがどんな意味を持つというのだ。
「離婚届けとか、このマンションのこととか、決めなくちゃいけないことがたくさんあるけど、私、今は無理……日を置いて、ちゃんと話し合いましょう」
「離婚届けは郵送する。マンションも家具も何もかも、全部君のものだ。俺の貯金も全部」
「ユメは?もともとはあなたの猫だったけど、お願いだからユメだけは私にちょうだい」
「ユメは、置いて行く……」
「……あんなに溺愛してたのに、そんなにあっさりとさよならできるんだね」
「相方が猫アレルギーだから……。だけどこれからもずっとユメを愛し続けるよ。俺はもう一生猫と暮らすことはないから、ユメが俺にとって最後の愛猫だ」
 二人の間に落ちた沈黙の影を破るかのように、ソファーで寝ていたユメがあくびをしながら立ち上がった。全身真っ白のユメは白いソファーと一体化して、ここにいることに気づかなかった。
 理人はしばらくユメを見ていたが、ため息とともにゆっくり立ち上がった。
「俺……行くね」
「もしかして……迎えに来てるの?」
 理人は小さくうなずいた。
 いつの間に用意していたのか、玄関にはもうボストンバッグが置いてある。
「じゃ……」
 くるりとドアの方を向いた彼の背中に、来栖は声をかけた。
「ねえ理人……私を……愛してた?」
 思わず口をついて出た言葉を、あとで思い返してきっと後悔するだろうとわかっていた。それでも訊かずにはいられなかった。
 来栖と向き合った理人は濁りのない澄んだ瞳でまっすぐに目を合わせた。
「もちろんだよ。今も愛してる。来栖が望む形ではないけど愛してる。それは一生変わらない。君の代わりに死ぬことだってできる。死ぬまで愛し続けるよ」
 なんで別れの時にそんなことを言うのだと、来栖は腹が立った。今このマンションの下には、彼が世界で一番愛している女が待っているとわかっていても、彼に取りすがって泣きじゃくりながら「行かないで!」と叫びたかった。
 理人は車に乗り込んた時、開口一番彼女になんて言うのだろう。「ちゃんと終止符を打ってきたよ」なのか「長く待たせてごめんね」なのか。それとも何も言わずにそっと彼女の手を握るだけなのだろうか。そのシーンを想像すると、怒りと嫉妬がこみ上げて、熱くて不透明な泡(あぶく)をふつふつと吹き上げた。
 どちらかが外出する時はいつも見送ってくれるユメが理人の足に体をすりつけた。
「これからはきっとユメが来栖を守ってくれるよ」
 理人はユメを抱き上げ、まるでその青い瞳を写し撮ろうとするように、じっと見つめた。
「パパを許してくれな。ママをしっかり守るんだぞ」
 その声はくぐもって濡れていた。
「養育費というか…カリカリとかおやつは俺が定期的に送るよ。それからペット保険や医療費も俺に払わせて欲しい。離れていてもユメは俺の子供でもあるんだから」
「……わかった」
「君もユメも、体に気をつけて」
 玄関のドアを開けた理人はじっとそのまま立ち尽くし、それからいったんドアを閉めて来栖に向き直った。
「今まで本当にありがとう。そして本当にごめん。この罪を一生背負って生きていくから」
 理人は体を真半分に折った。そしてあふれ出る涙を拳で拭って、
「俺にできることがあったらなんでも言って。君とユメは一生俺の家族だから、何かあったらいつでも駆けつける」
 そう言うと、何かを振り切るように勢いよくドアを開けて出て行った。
心も体も焼け付くように疼(うず)いた。いつかこの生々しい痛みが癒される日が来るのだろうか。玄関のドアを見つめて立ち尽くした。
「こんなの耐えられない……耐えられない」
 来栖は玄関のドアに体を打ち付けるようにして外に飛び出した。
 エレベーターを待つ時間ももどかしく階段を駆け下り、エントランスホールから外を見ると、ちょうど理人が車の助手席に乗り込むところだった。
 名前を呼ぼうとしたその時、運転席から手が伸びて理人の頭をクシャクシャと乱暴に撫でた。
「えっ?」
 思わず息を飲んだ。
 髪を短く刈り上げた精悍な顔立ちの青年が、いたわるように大きくうなずき、陽に焼けた筋肉質の腕で理人の肩を抱き寄せた。その時、未完成のパズルのピースがおさまるべき所におさまって、一幅の絵が立ち現れた。時間がものすごい速さで巻き戻って行く。
 理人は高校の一年後輩で、同じテニス部だった。純粋に先輩を慕う理人の気持ちと来栖の片思いからスタートした交際は、「押しかけ女房」的な同棲から結婚まで、主導権を握っていたのはずっと来栖だった。プロポーズしたのも彼女の方からだ。
 理人は何度も「俺は君にふさわしくないから、結婚できない」と言った。
「俺は来栖が思っているような人間じゃない。いつかきっと俺に失望する日がくるよ」
 その言葉を謙遜と受け取って本気にせず、来栖はますます猛アタックの手を緩めなかった。
 理人の両親や友人を味方につけて、かなり強引に結婚まで持っていったけれど、理人は幸せそうに見えた。
 しかし理人にとって来栖との結婚は「恋の成就」ではなかったのだ。彼にとって来栖は親友であり家族だったが、恋人ではなかった。今この瞬間こそ、理人の「恋」は成就しようとしているのだ。
 来栖は膝から崩れ落ちそうになりながら、時折理人の瞳に浮かぶ昏(くら)くて深い海の色を思い浮かべた。
「誰にだって秘密はある。俺だって墓場まで持っていく秘密があるよ」
 いつだったか、理人がそう言って虚空を見つめた時、来栖はどうせ彼の秘密なんて笑い飛ばせるような可愛い秘密だろうと軽く考えていた。
 我が身の幸せに酔っていて、理人の胸の奥にある苦悩にも葛藤にも全く気づいていなかったのだ。
 心優しく繊細な理人は、今までどれほど悩み苦しんだだろうかと、胸の奥から母性にも似た愛おしさが溢れ出た。
 理人、私の片思いを受け入れてくれてありがとう。ウエディングドレスを着させてくれてありがとう。たくさん愛してくれてありがとう。幸せな五年間をありがとう。
 来栖は車に駆け寄って、運転席の窓をそっと叩いた。
 驚きと戸惑いの表情を浮かべた「夫の恋人」はエンジンを止めてドアを開け、車から降りた。理人も助手席から飛び出して、立ちすくんだ。
 理人の恋人はおそらく来栖の写真を見せられていたのだろう。深々と頭を下げた。
 来栖はそっと彼の手を取った。 
「理人をよろしくお願いします」
 両手で彼の手を包み込み、強く握りしめた。
「幸せになってください。私のことは心配しないで。今日から私は理人の姉になります」
 よほど思いがけなかったのだろう。彼はしばらく絶句したまま来栖を見つめ、それからようやく「来栖さん……」と目を潤ませた。その瞳が饒舌(じょうぜつ)に語っていた。それはそのまま来栖の胸になだれ込み、温かく優しく満たしてくれた。
 「ひとつだけお願いがあります。私たちの間にはユメという子供がいるんです。理人がユメに会いに来るのを許してやってください」
 それだけ言うと、くるりと踵を返してエントランスホールに駆け込んだ。  理人の声が追いかけてきたが一度も振り返らなかった。
 来栖の目の中に、思いがけず街でばったり出会った理人と、笑顔でハグしている自分の姿がありありと鮮やかな像を結んだ。

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