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それは座高ではないか?

私が小学生の頃は学校の身体測定で座高を測っていたものですが、今は取り止めになっているそうですね。

あの悪名高い「座高計測」
永きにわたり子供たちを辱め続けてきた「座高測定」

なぜ廃止されたのかというと、測りに測り溜めに溜めた子供たちの座高のデータは、実際にはほとんど活用されていなかったからだということで。

え?

あんだけ日本全国津々浦々何十年も当たり前のようにやり続けていたことが、実際はなんの役にも立っていなかったとな?
それでは座高高い民は子々孫々に渡り無駄に羞恥心を煽られていただけだというのか。

何を隠そう私は比類なき座高高い民である。

低学年の頃は自分が周りの子に比べ座高が高いことを、それが何を意味するかを知らず内心誇りに思っていたことすらあった。

「たいたいさん、◯センチ!」
当時は配慮も遠慮もプライバシーもないもんだから、教師が高らかと私の座高を読み上げる。
ふふふん。私大きいでしょうとばかりに胸を反らす幼き私。

歳を重ね、座高が高いということは必然的に胴が長い、つまりは短足であるということを理解し、それからは毎年この座高測定に苦しめられることとなった。

なぜ私の座高はかように高いのか。
冷静にひも解くと、その一因は私の首がすっきりと長いことにも多少関係している。
しかしどう頑張ってもそれは「多少因果関係が認められる」程度の影響力でしかなく、結局は単に胴体が長めで生まれてきたということに尽きた。
ナチュラルボーン案件ばかりはどうしようもない。

首があと1センチ短ければ座高が1センチ小さくなるのに。
卵型の輪郭が丸型であればさらに0.5㎝ないしは1センチ程度の効果が見込まれる。
合計2センチも短くなれば、私は平均値の群衆になんとか身を隠して生きていくことが出来そうだ。

今ではお気に入りの(肩こりには悩まされるが)スッキリした首と卵型の輪郭を差し出してもなお座高を縮めたかった幼き日の私。

え?今?
もちろん人より座高が数センチ程度高かろうが一切気にしていない。
何なら映画や観劇の際は高い座高をもってして群衆よりも広い視界で優位的に楽しめるので大変重宝している。
貴族の視野である。

人がプラスアルファの金銭を差し出すことで得る広い視界を、私は私の高い座高をもってして手に入れることが出来るというわけだ。

高い座高は自由と快適を約束する。
座高高い民は選ばれし特別な民だったのだ。

本題だが、この座高測定の例のように、この世にはしなければならないと思い込んでいるだけで、本当はしなくても何の問題もない、ということがおそらくたくさんあるのではないだろうか。

嫌だけど、やりたくないけど、時間もお金も労力もかかるけど。
それでもこれはやらなければならないことなんだ、という思い込みでやり続けている苦行が、きっと人にはそれぞれある。

これは何のためにやっていて、何の役に立ってるのか、どんな効果を生んでいるのか、そういうことを今一度、自分の「やりたくないけどやってること」を中心に振り返ってみるといいかもしれない。

もしかしてその「当たり前にやるべきことだと思っていたやりたくないこと」は、「座高測定」と同じものかもしれない。

仕事なんか特にそうだが、やるべきこと、やらなければならないことは日々無限に増えていくのに、やめること、しなくてよくなったことはちっとも減らない。
やめるという決断には、意外と勇気が必要だ。

時々立ち止まって考えてみよう。
今やってるそれって座高じゃない?って。


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