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なぜ欧米の啓蒙思想は不道徳なのか(4)

米国は1776年に独立し、今年で248年です。老中田沼意次やエレキテルを完成した平賀源内の時代ですね。

米国の思想の根底

英国国教会の堕落と弾圧を逃れ、聖書に基づいた純粋なキリスト教を信仰する新しい共同体をつくりたいという清教徒(ピューリタン)の強い信念が1600年代から彼らが米国に入植した理由で、当初は清浄に生活する清教徒的な風潮が米国社会の主流でした。
しかし、そのうちにプロテスタンティズムに基づく勤勉を重視することで生活が豊かになったのは良いのですが、成功という徳こそが神の選択という世俗主義的な傾向が見られ始めます。そして、貧困者、怠惰な人間、無能な者は神の裁きで排除されなければならないという意識が産まれてきます。

米国が独立した当時は英国の啓蒙主義哲学者ジェレミ・ベンサムの功利主義が登場した頃です。これは「快楽や幸福をもたらす行為が善である」という考え方です。正しい行為や政策とは「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)をもたらすもので、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味です。一見良さそうにも思えるこの考え方も、「拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる」という致命的な欠点があります。

このように、当時流行した啓蒙思想の影響で、キリスト教よりも合理主義への選好が強まっていき、その流れで奴隷制反対も争点となりました。そして1861年には南北戦争が起こります。幕末の桜田門外の変の翌年です。

貧困者・怠惰な人間・無能な者は神によって裁きを受け、奴隷の不幸よりも奴隷を使役する人々の幸福のほうが大きければ道徳的だと考える思想は、現在のように「パレスチナ人や中東の人々が何百万人死のうとも欧米の人々が幸福ならば道徳的だ」と考えてしまう過ちに通じたものがあります

失敗した啓蒙主義から脱却できない米国と西欧

米国は啓蒙主義の時代にその影響下で建国された国、西欧は絶対王政から啓蒙主義に移行してフランス革命などを通して共和制国家に移行した国々です。啓蒙主義に至る前は絶対王政だったわけですが、1600年代の17世紀の西欧は多くの危機が重なり崩壊につながります。
小氷期の到来による寒冷化・異常気象による農作物の不作・魔女狩りなどの社会不安・商工業の不振などが重なりました。さらには、1568年からのオランダ独立戦争、1605年からのロシア・ポーランド戦争、1618年からドイツを中心に欧州全土を巻き込んだ三十年戦争などです。戦争はこれ以外にも頻発しました。
このような中で、「人間の理性に絶対的な信頼を置き、こうした危機を克服しようとする考え」が生じ、啓蒙主義思想は隆盛へと向かいます。人権思想、市民権思想が発達し、そして絶対王政の論拠である王権神授説に厳しい批判が加えられるようになりました。

ジョン・ロックやモンテスキューのような権力の分立や三権分立などの政治の在り方から始まります。
しかし、1755年に起きたマグニチュード8.5-9.0の超巨大なリスボン地震はポルトガルだけではなく西ヨーロッパ地域やフィンランド、北アフリカまでも揺らし各地で甚大な被害を引き起こすと、キリスト教への信奉を捨て、無神論・合理主義の啓蒙思想が加速していきます。中核を成したのはヴォルテールの無神論的な理性主義・合理主義ベンサムのような功利主義が中心となっていきました。

ユダヤ商人のロスチャイルド家を勃興させたマイアー・ロートシルトも1760年代からで、このような時期に金貸しと傭兵ビジネスで財を為し、発言力を強めていきます。

ヴォルテールの頃にはルソー、ベンサムの頃にはカントのように「極端な合理主義を批判し、道徳の重要性を説く思想家」もいましたが、主流にはなりませんでした

しかし、このような啓蒙思想も1914年に勃発してヨーロッパ中に多数の戦死者を出した悲劇的な第一次世界大戦の発生を止めることができなかったことで、「知性があれば何でも解決できると期待した啓蒙思想も失敗だった」という評価が多く起こりました。

日本との比較

日本では16世紀に戦国時代がありました。
一向宗と武士との戦いは宗教戦争ではなく、スポンサーだった旧足利政権に味方する本願寺派との戦でした。その後、浄土真宗とのちに改名されました。
豊臣秀吉の時代はカトリック教国のスペインとポルトガルが一体となって世界を半分に分割し植民地化を狙っていました。1587年にバテレン追放令を発布しポルトガルを排除したのも、1592年から朝鮮出兵を行ったのも、侵略ではなく、中国を狙っていたスペインを阻止するためでした。
1588年にアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊とポルトガル連合軍が英国・オランダ連合に敗退すると、今度は新教国(プロテスタント系)が勢力を伸ばし始めました。そして、徳川家康は秀吉の政策を継承して、1639年に鎖国を行いました。その後、徳川時代は西欧とは異なる独自の道徳哲学での治世を実践していきます。

日本と西洋では識字率が異なります。ロンドンやパリの成年男子の識字率は20%程度にとどまっており、サロンやカフェで議論を戦わせた哲学者や思想家たちも限られた一部の人たちのものでしかなく、一般市民とは程遠いものでした。日本では1622年に初の寺子屋が会津で、1670年には庶民の公立学校が岡山で、幕府公認の湯島聖堂が1690年にできており、江戸時代中期には全国に1万5千以上の寺子屋がつくられ、成年男子の識字率は70-80%に達していました。その上で、論語などの儒教を中心に道徳と行動原理を学んでいました。

西洋では啓蒙時代の思想家が登場しましたが、日本では徳川政権の中で自浄作用が政治に働きました。

徳川吉宗の享保の改革では人事の刷新を行い、財政再建を行い、警察と裁判機能の奉行所を強化したり、町火消しを設置したりと政治や行政・司法の改革を行いました。

老中田沼意次の時代は、賄賂政治という昔の教科書のイメージがありますが、欧州のリスボン大地震と同年代で、浅間山が天明の大噴火を起こし、天明の大飢饉が起きるなどヨーロッパ全土に及んだ危機と同じ災厄に見舞われています。田沼意次は、幕府の備蓄を使ってこれらの天災と飢饉を乗り切りました。また、商業振興政策をとったのも、幕府だけで各藩とその領民を救うのは困難と判断したからでしょう。

それに続く、老中松平定信による寛政の改革の時代には、経世済民という国民福祉の考え方が芽生えます。また、湯島聖堂を昌平坂学問所に改め、朱子学を公認し陽明学を禁止しました。

西洋が大地震と天変地異という自然災害で、キリスト教を見放し、国家間の戦争侵略が頻発し、極端な合理主義に向かって行ったのに対して日本では、藩同士の争いが起きず、幕府の備蓄で飢饉を乗り切り、その後は世を治め民をすくうという経世済民という朱子学の思想に向かいました。

そして、米国がベンサムの功利主義に染まっていき、民主党と共和党という二大政党で走り出したころに、日本では備中聖人とよばれた山田方谷が民の信用を回復するための改革を成功させ、また啓蒙思想に似た合理主義の陽明学を学ぶためには、道徳倫理の基礎である朱子学を学ぶことが必須であると指導者層を戒め、明治の多くの偉人たちに影響を与えたのです。

日本以外でも啓蒙思想が受け入れられない国々

米国シカゴ大学のミアシャイマー教授は「シカゴよりもモスクワの方が自分の波長に合っている」とコメントしています。ロシアはロシア正教を重んじる東方正教会の国で、法律を破る・道徳上許されない行為・マナーを守らないなどを罪と考え、聖俗一致、霊肉一致、政教一致を大事にします。また、カトリック教会のような権威主義ではありません。

ロシアを筆頭に東方正教会系の国々の国民は啓蒙思想を受け入れられません。キリスト教の道徳観を捨てられず、啓蒙思想が唱える道徳を道徳と認めないからです。

また、中東や中央アジアのイスラム教の国々も啓蒙思想を受け入れることはできません。中国や北朝鮮、ミャンマーなどのアジアも同様です。

このように、欧米が各国に押し付けるグローバリズムに対する反発というのは、極端な(かつ問題だらけの)啓蒙思想に対しての反発であって、伝統的価値観・道徳観の方が優れていると考えているからにほかならないのです
これらグローバルサウスの経済力は、すでに欧米のGDPを凌駕しています。


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