2話【僕と彼女とオレンジの香】

※人間に恋をすると死んでしまう吸血鬼と、香水職人の女の子のお話し。

「ただいまー」

「…おかえり」

時は1930年、フランス。

満月の夜に、夜警に追われる吸血鬼と出会ったのは1週間前のことだった。そして、なぜか私を襲わずに、すっかり家に入り浸っている、この吸血鬼、名前を「ルークス」というらしい。

「ルークス、邪魔しないで」

がちゃがちゃとフラスコと試験管を片付け、さて、次はどんな調合の実験をしようかと立ち上がると、ルークスが肩に手を絡ませ、自分のほうへと私を引き寄せようとしていた。

「サラ、相変わらず冷たいねぇ」

この町で、二人しかいない香水職人の一人、サラ。巷の大金持達がこぞって香水を好みはじめた昨今、急速な町の発展とともに香水は人々に求められ、男は女に、女は男にこぞって買い与えた。故にサラは毎晩寝不足で、新しい香水作りに昼夜尽力していた。


あの夜、ルークスは確かに誰かに追われていた。

私は大事なオレンジの全てをなげうって、ルークスを自宅へとかくまった。それが、すべての間違いの発端になるとは知らず。


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夜景に追われる男を助けた翌日だった。

朝起きると、見知らぬ男が隣ですやすやと寝息を立てている。

「だれ…?」

「うんん」

寝返りを打った男がパチリを目を冷まして、呆けた顔に唇から出た八重歯をのぞかせて、無意識で窓を開けようと手を伸ばす。

「この部屋、甘ったるい」

「湿気が…窓を開けちゃだめ」

ぴしゃりと、その腕を払うと、その腕の白く冷たいれのと、自分が上半身をひどくはだけさせていることに気付く。

「…なんで」

「おぼえてないの?」

「…おぼえてない…」

一瞬のち、ことの顛末を思い出したのだが、サラにとっては、何でもないことのように思えた。

やはり部屋のどこを見渡しても、今日必要だったはずのオレンジがないのである。そして時刻は10時を過ぎていた。

「きゃぁああああこんな時間!」

その後の会話はそっちのけで、5分で身支度を済ませ、サラは家を飛び出した。

「行ってきます」

誰にいうでもなく、いつもの一言を言い放って。


それから1週間、ルークスと名乗る吸血鬼はサラの家に入り浸っていた。お気に入りらしいソファに居座り、日に当たらないよう、頭に『香水調合法』と書かれた本を被り、1日をぐったり横たわって過ごしている。

最も「ただいま」をおぼえた彼が、吸血鬼だと分かったのはもっと後のことだったのだが、サラはそんなことは気にしなかった。

ガチャガチャとフラスコを震わせるたび、また新しいオレンジの香りが部屋を支配する。吸血鬼は、真剣な眼差しでビーカーを握り、何か思い詰めたようにオレンジの液体を見つめるサラの後ろ髪を見るのが好きだったのかもしれない。

この女は。

「つまんなーい」

「ルークス…またそこにいたの」

「僕の名前、覚えてくれたんだ」

真昼間の室内でカーテンを開ける。いつも通り香水を作るのに湿度管理がどうのこうのといって、決して窓を開けないので、もやもやと甘ったるい匂いが充満している。

昼間の太陽に照らされて、栗色の髪になったサラが、にこにこと笑いながら、こちらへ近づいてきた。

この女は。

僕が1000年も生きる吸血鬼だとか、この部屋に入り浸っているだとか、そういうことは気にしないらしい。

それよりも、僕よりも寝ないこととか、光の加減で髪の色が変わることが、いたく不思議で、そのことにひどく僕は惹かれていった。


珍しく上機嫌でサラがこちらへ近づいてくる。

「ルークス、これどう?」

「これって?」

鼻元に、小さな瓶を振られるが辺りに充満した匂いのせいで全く何が何だかわからなかった。

「全然わかんない、換気しよう、サラ…」

「えっ、全然違うわよ! 窓は開けない」

そう言い放ったのち、またビーカーの方へと向かうサラの後ろ髪を追って、僕は自分の恐れていた感情に徐々に支配されていくのがわかった。

「今日は、もう終わり」

「ふーん」

「ルークス、ごはんでも食べに行こう」

「動きたくない」

「何か好きな食べ物は?」

「甘いものと、人間の女の血」

「じゃあ、甘いもの!食べに行こう」

僕の言葉をすっかり無視して、誰かとご飯を食べるなんて、久しぶりというようにサラはうきうきと身支度をはじめた。

この女の部屋に充満する果物の色んな混ぜこぜになったような匂いと、この能天気な女に僕は心底敵わなかった。

そんな穏やかな日々が僕にはすごく心地よかった。



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