1話【僕と彼女とオレンジの香】

※人間に恋をすると死んでしまう吸血鬼と、香水職人の女の子のお話し。


今宵は満月だった。


大きな大きな坂をオレンジの香りが登っていく。ふわふわと後ろ髪を靡かせながら。

僕はそれとは反対に、その坂をまさに転がり落ちようとしていた。何人かの夜警が僕を追って、それに抗うように、そしてどこか楽しげに、僕は逃げていたのだから。

長い長い下り坂の途中で、くるくるとした長い髪がふわっと浮いて、僕は思いっきり何かとぶつかった。鼻腔をオレンジの香りが掠める。

「っ!」

華奢な女とぶつかって、女は尻餅をついた。月赤りに照らされた、赤茶色の髪に、僕の指は絡めとられた。ぶつかった衝撃で女の手から紙袋が離れ、中身のオレンジが、坂をコロコロと転がっていく。

二十歳そこそこの顔立ち綺麗な美しい人間の女だった。

「きゃ、きゃああああ!!!」

「?!」

「な、なかみっ!オレンジ!!拾って〜!!!」

夜空につん裂く大きな声で、女がいきなり叫んだ。僕は、訳も分からずに女を見つめたあとに、慌てて一つ、二つとオレンジを拾いにかけた。

あんまり必死で、叫ぶので。

自分がぶつかって尻餅をついたことよりも、坂道を転がっていくオレンジのほうが大事ならしい、妙な人間の女だった。

「はい」

拾い上げたオレンジを手渡すと…

「あ、ありがとう」

さぞかし大事そうにまた、オレンジを一つずつ抱き抱えた。

安堵の表情を浮かべたオレンジ女の背後、坂のてっぺんの方から、数人の夜警の気配がした。

『どこいったぁ〜!!!』

「ちっ、まったくしつこい」

くるりと、坂を下るため反転した僕の冷たい手を、温かい女の手が掴んだ。

「なっ…」

女の手からオレンジの袋が離れ、5.6個のオレンジがまた重力に従い坂を転がり落ちていったかと思うと、それよりも早いスピードで

女は僕の手をとって走り出した。

「なっ、え、はっ?」

「いいからきて!」

『まて〜」


遠くで聞こえる夜警のオヤジたちの声が、どんどん遠くなっていく。

さっきまで大事に抱えていたオレンジを放り投げ、僕を強引に引っ張っていった女は、自宅らしき部屋のドアをガチャガチャと粗雑に開け、僕を中に押し込んだ。

「なんなの…っ」

「はぁっ、はあっ」

状況がよく掴めないままに、この僕が知りもしない人間の女の部屋に押し込まれたかと思うと、実に奇妙なことだった。

ぜぇはぁと、ドアノブにもたれるように息を整えた女は、しばらく押し黙っていたが、「これで大丈夫」と小さく呟いた。

「…」

「…」

「…」

暫くの静寂が流れる。外の気配を伺っているのか、と考えた矢先、女を見下ろすと、コックリとドアノブにもたれ、今にも眠りに落ちそうだった。

これは、たまげた、この僕の前で、安堵したように眠ろうなんて。

「おいっ」

揺すってみたが、一向に扉から動かない。

「ネムイ…」

「おい、寝るな、襲うぞ」

「う…、ん、むにゃむにゃ」


こいつはきっと起きたらマイペースで、自己中で、さぞかし自分勝手な女に違いない。

そんな問いは、部屋の片隅の小さな電球をつけると、月明かりに照らされて赤茶色のはずの髪が、燃えるような赤毛に変色したことで、驚いてどこかへ消えてしまった。

まったく不思議な女だった。


「ここは…?」

部屋一面が、研究室のような空間だった。

あたりに散らばる、古い本や、何かの果物の皮、試験官やフラスコ、テーブル一面を陣取る蒸留機、そしてなにより強い香水の匂いが部屋一面に漂っていた。

「この女、香水師か…」

時は、1930年、フランス。

巷に「匂い」の絶好流行り、高貴なものにさぞ気に入られたし。


ひどく疲れていたのか、完全に寝入ってしまった女を抱き抱え、寝室らしき部屋を見つけると、ふわりとベッドへ横たわらせた。

ふわふわと、甘美な香りが髪から漂い、たまらずに、首筋に口付けた。このまま、噛み付いてしまいたい衝動を抑えて。


己よりも、大事なオレンジよりも、僕を庇ったこの女の首筋に、今宵は最後まで、歯を立てる事ができずにいた。



それよりも、久方ぶりに襲ってきた眠気に、まったりと目を閉じた。


目を開けたら、こいつを襲ってやろう。

僕を助けたことを後悔させてやるんだ。


そんなことを考えながら、抱きしめるようにして、僕も眠りについた。


第1話 完


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