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亡くなった先生と、再会できた話

以前、『Neverland Diner――二度と行けないあの店で』という本に寄稿した。

「カリブサンドだけは、今でもほんとうのまま」という題で、かつて通っていた塾の恩師とのエピソードを書いたもの。

不良や不登校の生徒ばかりが通う一風変わった塾(と先生)で、大人になった今でも忘れられない記憶だ。



エッセイを書き終えた後、先生に会いに懐かしい事務所を訪ねると、すでにそこに塾はなく、先生が亡くなっていたことを知った。



そこからまた月日は流れ、ある日メール画面を開くと、『Neverland Diner』の版元さんから連絡が来ていた。

いわく、「『Neverland Diner』の何編かを朗読作品にしようとしており、飯田さんのエッセイも朗読してよいか」とのこと。

これまで、仕事やプライベートを含めてたくさんの文章を書いてきたけれど、それを誰かに読み上げてもらった経験はない。どんなものが出来上がるのか予想はできていなかったけれど、こうして再利用してもらえるだけありがたい、と快諾した。

そして送られてきたのが、この音声だった。



先生が生きている。そう思った。

自分が書いたはずの文章なのに、朗読してくれたアズマモカさんの声の連なりは、どこか他人のエピソードを聞いているような心地になる。それでいて、僕の中にはくっきりと先生の姿が思い浮かんでくる。

ビリビリと空気を震わせながら怒った先生。
大きな犬を容赦なく両手で撫でていた先生。
カリブサンドを満足そうに食べていた先生。

亡くなった家族を Google ストリートビューの画面で発見した時のように、「ここでは、先生は生きているんだな」と思わざるを得なかった。


思うに、僕らの記憶はレコードのように溜まっていくのだろう。それ単体では音楽を聞くことはできず、レコードプレーヤーに置くことで再生される。

「思いだそう、思いだそう」と念じてもおぼろげだった記憶が、ふとした誰かとの会話や、何気なく見回した景色から、ふっと突然湧き上がってくるように。外部からのきっかけで、僕らの記憶は再生されていく。


"誰か"の声によって、"僕の"思い出が鮮明に浮かび上がってくる。

予想だにしていなかったことだけれど、とてもありがたい体験だった。

もともとの自分の「思い出をエッセイにして書く」という行為も、少なからず記憶を呼び起こすことではあったけれど、朗読はそれ以上だった。きっと、自分の手から離れた"誰か"の力は、とても大きいものなのだろう。


きっと、僕の記憶を耳にするあなたの感想は、僕のそれとは全く異なるはず。

朗読された自分のエッセイを差し出すのは、照れくささもあるし、「僕の作品ではないから」と素直におすすめできる気持ちよさもあって、不思議な気分だ。

でも、よければぜひ、聞いてみてください。
(なんたって、ウェブで全部聞けちゃうしね)



そうそう、改めまして、元となった『『Neverland Diner――二度と行けないあの店で』もね。

下記から購入いただけたら、素敵なおまけも付いてきます。



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