3.11の原発事故により、実家が未だに帰宅困難区域な話


 書こう書こうと思って書けないまま、十年が過ぎた。

 私の実家は、今や世界的に有名な町になった。
 東日本大震災で被災し、原発の電源喪失によるメルトダウンに伴い、町民全員が避難を余儀なくされた双葉町が、私の生まれ育った場所であり、実家が置き去りにされた場所だ。
 福島第一原子力発電所から半径約3.5キロ地点にあり、今なお無人、帰宅できない放射線量を叩き出し続ける場所だ。
 現状の結論をまとめると、私の直接の血縁者は全員無事であり、残された家が年々、劣化していっている。


 震災当日の流れや前提の話を、簡単に追って書き留めておこうと思う。


 まず、震災当時、私は二十歳で都内に一人暮らしをしていた。
 母の実家が都内にあり、年に二度、盆正月に一週間ほど都内の母の実家の里帰りに同行するのが我が家の普通だった。
 そのため、私は年にひと月弱は東京での生活をしており、ド田舎特有の情報網で、私を一方的に知る大人が居たり、誰が誰を連れてどこに居た等の噂話や、すれ違った車種だけでどこの家の誰なのかすぐにわかったり、家に鍵をかけずとも一切問題なかったり……村社会ではありきたりな話だが、心底嫌気がさしていた。
 端的に言えば「田舎が嫌で東京に住みたかったから」出てきた、ということになる。釘崎野薔薇の発言は一言一句、当時の私の思いそのものだった。

 ただそれは、閉鎖的で人口の少ない町に住む人間が疎ましいだけで、山やら川やら海やらの自然に囲まれた環境は嫌いではなかった。
 しかし都会の華やかさも知る身であるため、田舎民特有の東京への憧れは人一倍強く、更に現実を見ないために、中学生くらいから、高校生になったら東京の高校に通いたい、等と、今考えれば荒唐無稽なことをも考えていた。
 一方その頃、他の同級生たちは「隣の隣町の工業高校を出て東電に入社できれば人生安泰」という生まれてからの刷り込みに従い、工業高校へ通ったり、そこそこ偏差値の高かった地元高校から大学だけ出て町に戻って東電社員になったりと、「とにかく東電に入れさえすれば、高卒後の就職で19までに自分の車を持てる」くらいの認識は、私たち世代の常識であり、それ込みでの人生計画を立てている人も沢山居た様に思う。勿論、親世代が原発に勤めている同級生も沢山居た。加えて、どこまでが冗談なのか判断がつかないが、実家に居た頃の私に、祖母は「東電社員とお見合いして結婚すれば人生困ることはないわよ」と何度も何度もそんな話をしてきていた。
 一応言っておくと、全員が全員、東電に入ることを目指しているわけではなく、フランチャイズのスーパーさえ無い小さい町の中で、医者やら時計屋やらの家業を継ぐ人も居り、東電にこだわらずどこか別のところで働いたりと、東電以外の道を選ぶ人も居た。
 私は東電に入るつもりもなかったし、実家が町工場だったり、結構甘やかされて育ったり、うつ病になって将来のことなんか考えられなくなったりと、色々あったために、同級生の中では最も無計画に生きていた気がする。今も計画なしに生きているが。

 しかしもう地元での生活は我慢ならんと単身東京に向かい、都内でアルバイトをしつつ仕事を探す生活が始まり、無事に不動産屋で働き始めて三か月弱、震災が起きた。
 シフト制で休みだった金曜日、自室で東方非想天則をひとり練習していた時、突如として激しい揺れに襲われた。
 元々東北、特に福島県沖から宮城三陸等は地震地帯で、実家に居た頃から度々震度3、4程度の地震が起きてはまあこんなものか、と流す程度にはやや地震慣れをしていたはずだった。
 けれども、東日本大震災の揺れはそんなものではなかった。
 パソコンデスクの隣に置いてある180㎝の本棚が壁から離れてグラグラと揺れ、咄嗟に開けた窓からベランダの外壁に半身乗り出し、外壁と本棚を抱えるようにして本棚の崩落を防いだ記憶がある。
 とにかく揺れた。5弱だかなんだかの速報が鳴っていたのか、「5弱の揺れじゃないだろ!!」と本棚を抱えながら叫んだことだけはしっかりと覚えている。
 やがて長い揺れがおさまり、すぐにテレビをつけた。
 震源地は東北で、そのことを確認してから、どのくらいテレビを見ていたのか記憶にない。
 が、パソコンは起動してたので、Twitterで情報を集めつつ、テレビを見、津波警報が出されて、上空から海沿いを飲み込んでいく津波の映像も見ていた気がする。
 実家にいる両親に電話はつながらず、経験のない揺れに何をしていいかわからず、母方の祖母が自転車で行ける距離に住んでいたため、急ぎ祖母の家へ向かった。
 祖母の家のテレビでも津波の映像が流れ、地震の情報は入ってくる。
 しばらくテレビを呆然と見ていた。実家付近で、映像にないところで、実家の海沿いの方が同じような被害に遭っているかもしれない、と考える余裕もなかった。
 実家は海から遠く、家の周辺に崖も無く、家さえ崩れなければ危ない場所ではないことも、何となく理解して、情報を集めようとしていたのかもしれない。
 余談だが、母方の祖母の家には叔父の奥さんも居り、丁度破水して病院へ向かう、というところで鉢合わせた。この私の従妹は3月11日に生まれているはず。
 そうして祖母の無事も確認できたため、一度部屋に戻ることにした。道中のスーパーでは水やトイレットペーパーを買いだめする人が散見された。
 その帰路の途中、母からの電話が偶然つながった。
 すぐに出て無事を確認し、状況等を聞いたように思う。
 まず、途轍もなく揺れたこと。聞かされるまでもなく、尋常じゃない揺れであることは、正しくはないかもしれないが、理解していた。
 電話口の母の声は震えていて、私はどうすることも出来ず、一度お互いに無事を確認した、とのことで電話を切ったか、或いは電話が飛び交う中で切れたのかは記憶にない。
 そしてアパートに戻ってからだろうか。
 いや、祖母の家に向かう前に、恐らく一度、原発が無事であるかの確認をしたように思う。
 そしてこの偶然つながった母との電話で、原発は大丈夫なのか、確認した気がする。
 しかしTwitterでの情報を追ってみても原発についての言及は無く、ようやく見つけたのが、津波により電源を失い、原発が冷却能力を失った、という事実で、この一連の話は、Twitterではなくmixiの記事で発見した。
 すぐに避難するように母に伝えたかったが、電話は相変わらず通じず、公衆電話は行列で、私は夜になるまでテレビをつけっぱなしにしてネット上で情報を追った。
 
 この時、実家に起きていたことは、
・家に引いていた井戸のポンプか何かが壊れて断水したのを復旧させていた。
・確か停電か何かで、テレビも見られずに原発のことは一切知らされていなかった。
・父は地元の消防団にも入っていたので、安全確認等に奔走していた。
・288号線の上を通るJRの常磐線の高架が落下したため、通行に難儀していた。
・丁度中学では卒業式の日で、部活で残った妹が中学に取り残されていた。
・卒業生だった従弟は家に戻ってきていた。
 
 こんなところだろうか。
 
 ここまでが前提の話と、地震発生から17時、18時くらいまでのことだと思う。
 次は18時以降の流れを書きつつ、この記事で書いた推測を除く事実のみを、時系列にまとめたいとは思っている。
 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?