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映画を観に行く。

(メタモルフォーゼの縁側(映画)のネタバレを含みます。)


普段そんなに映画は見ないが、時々映画館に行くことがある。

地上波でやっているのを観ることはかなり少ない。今でこそ家事が進まないからという理由があるが、昔から家にいるのに異世界に飛ばされる感じが苦手だ。

映画や映画館が嫌いなわけではない。学生の頃から一人で映画館に行くのが好きだ。好みや上映時間のこともあるので何も気にせず行けるのは一人だ。終わった後の余韻は自分で過ごし方を決めたいというのもある。

番宣などで面白そうだと思えば観るくらいのノリで行く。4Dとか音響がすごいとかそういう作品にあまり食指が動かないが、おそらく映画館ならではというのはそういう作品なんだろうなと思ってはいる。でも音がぐわっときても、画面がぐぐっとなっても、においがしてきても、多分私は、良くも悪くもあまり気にならない気がする。

今回はひと月前に見たい映画があったのに見られなかった余韻と、見たい映画があったのと、妊娠中に映画をゆっくり見ておくべきと思ったのとで色々な理由で映画館へ足を運んだ。胎動も感じるようになったので、映画を見ていると胎動に変化があったりするのかという興味もあった。

上映館が少なく、以前住んでいた街まで遠出することになった。知人に会うこともあるため麦わら帽子を目深にかぶり、ひっそりこっそり駅に降りた。

女子高生と老齢の女性が友達になる、BLを通して…という話だった。随所に出てくる食事やスイーツがおいしそうで、音も心地よかった。ただ、老齢の女性イコール丁寧な暮らしをしているというのは憧れではあるしこのお話の雰囲気には自然なのだがステレオタイプだよな…とちょっと思ったりする。だらだらしてラーメンを美味しくすする面倒くさがりなおばあちゃんも可愛い。(いずれも共通点としてすなおな女性というのはある。)

カーストでいうならば主人公の女の子の立ち位置に近いところにいた。懐かしいと思う感覚もあるし、わかる、わかりすぎる、と思う感覚もあるし、今だからこそわかると思う感覚もあって、そのことに高校生で気づけた主人公はまっすぐな人なのだろう、と。主人公はBL好きなことをひた隠しにしているが、陽キャの女子生徒はBLにハマると隠すことなく友人と共有し笑顔を咲かせている。そのことに対して「ずるい」と思う彼女の気持ちが、表情がわかりすぎる。ずるいのは私の方なのに、と思う主人公にそんなことないだろうと思ってしまう私は大人げないのだろうか。

後半で「好きなものに対してまっすぐでいることって大変だね」のようなことを母親に話していて(このお母さんも素敵だった)それは大人になった今こそ、好きなものに対してまっすぐでいられなかったからこそ、さみしくもそう思ってしまった。けれどそこに年齢は関係なく自分と自分が好きだと思うものに対してひたむきであることが関係あるのだろうと思う。私にはそんな風に素敵な生き方ができる気がしない。「好きなものに対してまっすぐ」というのは耳に痛いことだった。

主人公は「漫画を描くのは楽しいか」と問われ、「大変」と言い、続けて「自分の絵と向き合わなきゃいけないし」と言っていたのもまた心にささる。「どこが情けないの」「全部」と答えた主人公の気持ちもまた痛いほどわかる。「どこが」と聞かれて「全部」と答えてしまうのが私にとって思春期らしい受け取り方と思う。具体的にどこが、と社会人になってからは求められやすいが、結局自分の向き合ってきたものすべてに対しての「情けない」と一言で表せないすべてに対しての「全部」なのだ。自分と向き合うことが、好きなものに対しての小さな誠意。私は好きな人や好きなものに対して誠実になれていただろうか。どうなりたい、何を得たい、だれにどう思われたいと思って好きなものを愛してきたのだろうか。果たしてただ楽しい気持ちでいられただろうか。

それだけでいられれば。

それだけならば、それこそがこの二人のように誠実であるのに。


こんなことをいうのはじじくさいかもしれないが。

何かを好きだと主張する人は増えたと思う。それこそ市民権を得たBLやオタ活、SNSの発達もあり何事であっても主張はしやすくなったように思う。そんな時代に私にはこれが好きで極めていると言えるものはそんなにないのだけれど。この二人のようにただ好きなものにまっすぐでいられている人は果たして多くはないのではないかと思ったりもする。目立つように着飾ってはいけない、したり顔で語ってはいけない、写真をアップしていいねを得たいと思ってはいけない…とは思わないしそうではない。結局人は、それがゼロではいられない。こういう風に見られたいと思って行動し、主張し、それが周りから見たら滑稽であったりする。

この物語のように、ただただ好きなものに対して清らかではいられない。自分に酔いしれたり虚ろな自信を持ったりすることがある。それが悪いわけではない。けれど、この物語は私にとっては「ただ好きなものに誠実な気持ち」が具現化したらこんなに瑞々しいのだろうと思えるものだった。

それだけではいられないからこそ、好きなものへのまっすぐな気持ちは自覚できる脳の位置にあってほしい。あの縁側が何かに埋もれてしまわないように。好きという気持ちはきっと人を純粋にさせる要素だから、自分などで穢したくはないのだ。



ちなみに腹の中の人は、私が泣いている時は静かにしていたし、映画が始まってすぐのわくわくしている時はぽこぽこと動いていた。(道に迷ったりしてやっと座れたからというのもある)割と空気を読みつつ動いていたように思う。

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