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多文化社会の歩き方

戦後のドイツは、いろんな人とともに生きるのだ、と旗を掲げている。
私ももちろんその恩恵に預かってドイツで勉強したり、仕事をしたりしているわけだが、マルチカルチャーというのはなかなか複雑な社会だ。
私は少し特殊な専門職のサラリーマンなのだが、雇用にあたって、言語力よりも専門分野の実力、経験、知識などが重要なので、ある意味技能職の外国人にとっては有利だ。おかげで、職場は一般よりかなり多国籍だ。
しかし、実際多文化社会で暮らすとなるとコミュニケーションはとても重要だ。なぜならば、他人は自分と違うからだ。日本には、当然みんなこうするに決まっている、という常識の高く厚い壁が無言で横たわっているが、多文化社会は、その常識の共有はないと思わねばならない。普通がそれぞれ違うことを許容する必要があるし、それをいちいちコミュニケーションをとって確認する必要がある。
これは日本人には、なかなかストレスがかかる部分だとおもっている。
私は日本人としては決しておとなしい方ではないが、それをもってしても放っておくと謎の人になりかねないので、やみくもに寿司ばらまいて駄話をしまくったし、聞きまくった。飲みにケーションもしまくった。コミュ力低いとか笑ってられない。サバイバルにかかわるので。こういう泥臭いやり方がすべてだとは思わないし、もっとさらっとうまくいく人もいると思うが、少なくても私の場合は、他人に無関心である、という自分の短所をどうにかして変えざるを得ないくらい、何度も社会からはぐれそうになった。人と違う事より、無関心のほうが、この社会では迷子になりやすい。
政治的には多くの人が組織で意見を通す方法を知っているように見える。多文化だからこそ、内側で意見を取りまとめる必要もあり、地位の利用の仕方も知っている。必要とあらば自分の権限も利用するする。最近、日本人が世界的に発言権を強められない理由がなんとなくわかってきた。日本はディスカッションに乗ることはあっても、自分が問題を提起したり、自分の意見に人を感化しようという意識がない。はっきり言えばリーダーシップ音痴だ。もっと議論をリードして自分のほうに引き寄せる話術があればいいのに、と思うこともしばしばだ。どの人間も世界を自分中心に回そうとしているのだ。自分の田んぼに水引っ張ってくるのはおこがましい、とためらっていると、となりのやつが臆面もなくやりはじめるのが生き馬の目を抜くマルチカルチャー社会。
必要な武器は、まず、コミュニケーション能力、次に我田引水を恥じない心。いや、違う、リーダシップと言いたかった。


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