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配属ガチャ、親ガチャ、自分で決定できない宿命を受け入れられない若者たち

○○○ガチャ、こんな言葉が跋扈するようになったのは、スマホでゲームをやるようになってからでしょうか
親ガチャ、配属ガチャなどという言葉があるくらいでこの○○○ガチャというのは要は運で決まることの総称であります。
なに、いつものようにこの言葉は〜などと噛み付くわけではありません。
むしろ、こういう言葉はその時世を表している言葉ですから特段、なにか思うところがあるわけではありません。
この手の言葉はまた違うものに置き換えられたり、廃れていくものでしょうからね

『僕』が思うところはこのガチャの結果について嘆き、受け入れることのできない若者というものが一部いるという点であります。
最近のニュースでは自分の希望した配属先ではなかったから1日で会社を辞めたなんて方々もいるようで……

○○○ガチャという言葉はその意味以上に人々の使い方、使う状況や心持ちに負の側面を持っていると『僕』は感じています。
その負の側面というものは自分たちの分相応のものを望み、それが叶えられなかった結果としての表現やいい訳の一文としての○○○ガチャという言葉を持ち出しているように思えるのです。
人は生きているうえでの変えられないものがあります。
また、取り替えのきかないものもあります。
傷つきたくない、自分の嫌なものを回避するという、いわゆる「ストレスフリー」と言われる生き方はあまり歓迎される人生観ではないようにも思えるのです。
受苦というパトスの放棄は自己の成長の機会すら時には奪ってしまうのですから……


自分が生まれた環境を「ガチャ」や「運」と表現することは、それが自分の意志とは無関係に決定されたものであることを示していますね。確かに、この変えられない事実をどう受け止めて生きるかは、人生を左右する重要な問題だと思います。

まず大切なのは、自分の置かれた環境を受け入れることです。生まれた国や家庭を嘆いても仕方がありません。むしろ、与えられた条件の中で自分にできることを見つめ、可能性を最大限に引き出していくことが重要です。
恵まれない環境であっても、そこから学び、成長する機会はあるはずです。

また、自分の環境が「運」だったとしても、その後の人生は自分の選択と努力で切り開いていくことができます。生まれた時点では平等ではないかもしれませんが、どう生きるかは自分次第だと思います。どんな状況からでも、意義のある人生を歩むことは可能なのです。
これを宗教では試練などというわけであります。
楽な道というのはその瞬間の楽なものであり、人生の楽を得るものではありません。
不思議なものですね
人生というのは怠惰を求めて勤勉にいきつく
そんな理不尽さを受け入れるのもこれまた人生でしょう。

さらに、恵まれた環境に生まれた人は、そのことに感謝し、恩返しをする姿勢を持つことが大切だと思います。
自分が享受している恩恵を当たり前だと思わず、社会に貢献していく責任を自覚するのです。
親ガチャなどと自分の境遇を何かのせいにしなくてはやってられないことだってあるでしょう。
すべてを自分の責任と考えるというのはこの決定できない事という限り、それは自分のコントロールの手を離れているということですからそれもあなたのせいだというつもりは毛頭ありません。
しかし、その受け止め方というのは何かできるのではないかと思うのです。
人より何かをしなくてはいけない苦難はあるでしょうが……
つまりは不利な条件を背負って生まれた人がいることを、社会全体で認識し、支援していくことも必要です。個人の努力だけでは解決できない問題があることを理解し、機会の平等を目指していく必要があります。

人はみな、与えられた環境の中で、自分なりの意味や目的を見出し、精一杯生きるしかありません。

その過程で、自分も社会も、少しずつ良い方向に変えていくことができるはずです。「ガチャ」という言葉に象徴される不公平さを嘆くのではなく、自分にできることを一歩一歩積み重ねていく。

それが、私たちに求められる生き方なのかもしれません。

「人生において、1日のうち3回自分の嫌なことをすることは魂にいい」

そんな、サマセット・モームの言葉のように

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