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個人主義を利己主義と同一視しないこと

個人主義というのはどのようなイメージを持つかどうかはわかりませんが、多くの人は余りいいイメージというもので考えてはおらずとも、「自己責任」において自分のやりたいことを選択して生きるなどというようなものと考えているのではないでしょうか
つまりはこれを良い悪いというものでの線引きをするというのは個人によっての捉え方によって変化をするものかと思います。

しかし、このようなイメージを少し持たないでほしいというのが今回の『僕』の主張であります。
上記の意味での捉え方をしているとなれば、個人主義というのは少なからず「利己主義」と言い換えられるようにも思えるのです。
これは違うもので、個人主義と利己主義を履き違えて考えている人がどれだけいるでしょうかというのが言いたいことであります。
そして、個人主義というものは自分本位、自己本位という立場にあることで自分自身がどのように考え、思考し、思想を持ち生きるのかと振る舞いを考えなければならないのではないかというのが『僕』の考えであります。

では、この利己主義がよくないのであるからして利他主義としての捉え方をすればいいのか?ということを申されるかもしれませんがそれは違います。
人のためというものはそこまで綺麗なものではありません。
人のためというのは、人のいうがままに欲するがままにという、いわゆる卑俗の意味で畢竟ずるに他人のご機嫌を取り続ければいいのではないかというくらいに過ぎないのです。

いかに崇高なことを考えていたとしてもこの人のためという他人のご機嫌取りは往々にして様々な方法であるわけです。
自分はいい大学を出て遊ばず、いい会社に入っていくばくかの給与を手にすることで、どこか胸を撫で下ろす。
そのいくばくかの給与は人のために何かをしたお金であり、それは自分で使うことのできるお金であります。
つまりは自分のために何かをする時間とお金は同じだけ相手のために何かをする時間とお金であるということでもあるのです。

しかし、ここで不思議なのは水商売のような良い模範的な人生を送ってこなかったのにもかかわらず、「卑俗的な人のためという最大化」をすることで、学歴を収めれば何かその先にはよい人生が待っているはずだという人とは異なる見返りつまりはお金があるということの不思議さであります。
真面目といわれる人生を送ってきたので安寧の人生というわけではないのです。
少し道から外れた人が自分より幸せに見えてしまうときもあるのです。

考えてもみてください
自分は小さい頃から学業にと仕事にと常に外の他者の求めるものを満たしてきたはずなのにどこか報われず、道路の向かい側では言葉は悪いですが学のなさそうなヤンキーカップルは幸せそうだし、子供もいて絵に描いたような幸せそうがあるのです。
はたまた、いかつい見てくれのお兄ちゃんがベンツを乗り回して隣には美女がいる。

そう、極端な例ですが、何か報われていないのです。
これはなぜなのでしょうか
つまりは個人主義という自己本位において考え、自分は何がしたくてどのような人生を送りたいのか
そういうことを考えなくてはいけないのではないかと個人主義という解釈の違いを感じると思うのです。

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