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カントにおける悟の言語説明について

悟につきましては前回、道元禅師の言葉を用いて説明を書きました

以下は前回の文書です。

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『僕』は宗教というものにあまり傾倒するわけではありませんがそれでも自分の気づきになることは多いためよく学ぶ機会を持とうとすることがあります。

悟りというものはどのようなものなのかということを道元禅師の言葉で綴る事ができるため書いてみようと思います。

悟と迷は必ず在るものです

自己をはこびて万法を修証するを迷とす
万法をすすみて自己を修証するはさとりなり

一切の在り様を自分の方から進んでこころを動かすことは迷いなのである
一切の存在が向こうからきて気づかせてくれることを悟という

自己をはこぶとは
「自分のほうから進んでというほどの意味」

万法を修証するとは
「一切のありとあらゆるものを弁別するというほどの意味」

つまりは自分の頭で考えてあれはこうである、これはこうであろうなどという思い計らいはそれを迷いというのです
それではどうしても我の計らいが這入るからであります。

そこを向こうの方からやってきて「あぁ、そうか」と気付かせてくれる「万法をすすみて自己を修証する」それがさとりなのですと教えてくれいます。

世の中の万物はわたしたちの前に常に明らかに露呈をしているのです。
しいそれ以上もなくそれ以下もないのです
万法露露

真相を露呈しているのでありますから、その露露として現じている姿をそのままに受けとるということが大事なのであります。
これが「感じる」という自己の経験を現成するために必要なことなのです。

言語では語りきれないものはこういうものに生き方のヒントがあるのではないかと考えている次第です。

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この悟りというものについてはもう少し考察をしてみようと思います
用いるのはカントの純粋理性批判における感性と悟性の関係です。
カントは悟性は自発的であるのに対して感性は受動的であるということを語っています。
悟性とは思惟能力であって感性はその悟性に思惟の材料を提供するものであります。
感性がみずからの形式に従って対象から受けとるものなのであります。
したがって、感性は成立しても悟性はなお働かないとカントは語っているわけであります。
この場合、感性とは何かというと直感であります。
直感つまりは悟りということになります
つまりは感性としての受動的にその素材を受けるという行為になるわけです。
それに対して、悟性というものは思惟能力として感性によって与えられた素材を自己の形式の範疇に従って整理するのであります。
だから直感は成立しても、なおしそれを素材としての論理的な思惟は働かない、つまりはまだ理屈は理解ができないということが成立するのであります。

さとりに開かれた釈尊の頭の中をのぞいてみたらクエッション・マークがあったという鈴木禅師の言葉はそういう意味を成しているのです。

つまりは感性(受動的な直感)により直感が与えられ素材を受ける、やがて悟性によって論理的な思惟が働きそれが公式的なものにまで確立させられるのであります。

このようにカントにおける説明においては悟というものはいかように難儀なもののように言われていますが案外と身近なものであるとも思えるのです
しかし、これを自分で気づき何をしているかということを理解することがまた難しいことなのかもしれません。

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