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蔡省三さんを悼む 最後の国民党戦犯

 「最後の国民党戦犯」と呼ばれた元国民党幹部、蔡省三氏が今月6日、香港で亡くなった。103歳(数え年104歳)だった。第2次世界大戦後に再開された共産党との内戦に敗れ、「戦犯」として中国大陸で25年もの抑留生活を経験。1975年の特赦で英領だった香港の地を踏んだ後は、著述家・評論家として余生を過ごした。

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 筆者が蔡氏と初めてお会いしたのは、ちょうど9年前の2013年1月。新界地区・天水囲の公営団地にあるご自宅だった。既に90歳を超えていたが、才気煥発(さいきかんぱつ)な印象。品があり、落ち着いた雰囲気をまとう一方で、博覧強記で、中国・世界情勢について論じ出すと止まらず、奥さんが止めに入るほど。初対面だったが、2時間ほど話したと思う。

 その日を境に3~4カ月に1度、ご自宅を訪問し、蔡氏からご経験とともに、さまざまな事象に対する見解を伺う日々が始まった。午前中に訪れると、たいてい窓際近くの黒皮の高座椅子に腰をかけ、新聞を読んでいた姿が目に焼き付いている。筆者に気が付くと新聞から少し目を離し、「来たのか」と言ってほほ笑んでくれた。

 軽く雑談した後、「きょうは何が聞きたいんだ?」と筆者の顔を見ながらもう本題に入っていいぞ、とばかりに蔡氏が切り出すのが、いつしかお決まりのやり取りとなった。話しているうち、筆者が中国語をあまり聞き取れていないと判断したり、分からないと伝えたりすると、嫌な顔ひとつせず、毎回、ノートや紙に丁寧に文字を書いてくれた。

筆者のノートに文字を書いて説明してくれる蔡さん=新界・天水囲、2019年5月

 ギョーザや野菜のかき揚げなどを食べることを特に好んだ。中国東北部の撫順戦犯管理所(遼寧省撫順市)で20年暮らしたことが、嗜好(しこう)にも影響を与えていたという。蔡氏の奥さんもそれを意識し、毎回ご一緒した昼食では何かしら蔡氏の好物が含まれていたのが思い出される。

 ところで、同所では娯楽の時間が設けてあり、蔡氏は京劇の俳優として出演したり、舞台劇の脚本を手掛けたりもしたという。若き蔡氏の心の師となる、のちの台湾元総統である蒋経国氏と初めて話をした際、「得意なことは何か」と聞かれ、「歌うこと、演劇、文章を書くことです」と即答。経国氏の心をつかみ、その場で「宣伝大隊長」に任命されたことは逸話となっている。

 蔡氏は、共産党下で戦犯として過ごした自身の人生を早々に受け入れ、達観していたようだ。かつて戦った日本や、長期にわたり自分たちを抑留した共産党、蔡氏ら元幹部を「捨てた」台湾・国民党への恨みごとなどを、筆者は聞いたことがない。

 31年に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きると、10代前半ながら抗日救国の宣伝活動に奔走。国民党政府が青年幹部の養成組織を創設した際は自ら加入を望み、内戦再開後は大陸にとどまり共産党と戦い続けることを志願し、蒋経国氏を驚かせた。全てにおいて明確な意思と覚悟があった。

 蔡氏の際立った行動力は、抗日だけではなく、幼少期から抱き続けた反ソ連への思いも源泉となっている。91年のソ連崩壊が生涯で最も衝撃的だったと明かしている。

 中華民国、中華人民共和国、英領香港、中国香港で過ごし、激動の時代と寄り添うように生きた人。執行猶予付きとはいえ死刑判決が下されても理知的な態度を保ち、戦犯となっても品性を失わず、信念と愛を貫いた人だった。同郷の南宋末の忠臣、文天祥(ぶんてんしょう)(※)の古詩を好んだが、文氏と自分の生涯を重ねていたためだろう。

 著述家、時事評論家であるだけではなく、思想家、哲学者でもあったと筆者は認識している。中台間の政治的駆け引きに巻き込まれ、翻弄(ほんろう)された面もあったが、個人として是々非々の姿勢を保ち、中台の平和的統一を願う気持ちはずっと揺らがなかった。

 孫ぐらい年の離れた日本人の筆者に対して、友人として接してくれ、さまざまなことをご教示いただいたこと、晩年の数年、同じ時間を過ごせたことに心から感謝している。


見出しに付けた写真は、蔡氏が筆者との出会いを記念して、したためてくれたもの。「中日友好 共促大同」と書かれている。

(※)南宋末の宰相。宋が滅亡に向かう中、兵を率いて元に抗戦した。宋が滅びた後、元に捕らえられ、元に仕えるよう何度も変節を求められたが、頑なに拒否し、刑死した。獄中で詠んだ「正気の歌(せいきのうた)」が有名。



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