わたしたちは、無意識に世界に線を引きながら生きている | 「偏見や差別はなぜ起こるのか」について考える #1

「偏見や差別はなくならないのか?そもそもなくすことはできるのか?」
というテーマに正面から向き合った本を見つけた。
情報密度が濃く、丁寧に読みたいなと思える本だったので、自己理解の為にもいくつかの記事に渡ってまとめていこうと思います。

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憎悪犯罪や憎悪表現は、露骨に表出される差別の中でも極端でなものである。その一方で、多くの人が身近に経験しているにも関わらず、偏見や差別であることを捉えにくい(見えにくい)微かな偏見や差別がある、という。

普通に生活しているだけでも、あるいは偏見なく平等であろうとする人ですら、無意識に偏見を持ち差別してしまうのはなぜなのだろうか?

これには複合的な原因があるが、カテゴリー化とそれに伴って形成されるステレオタイプは、その原因として社会心理学において古くから検討されてきた。

人は頭の中にイメージを描きながら生活しており、あるカテゴリーに含まれるもの(例えば犬)と、そうではないもの(例えば猫)を瞬時に区別している。

例えば、人間の中でも男性と女性を、子供と大人を、自分の属する集団とそうでない集団の人を区別するなど、人は外見、動き、声、所属、言語などの様々な特徴を手がかりにして乳幼児から頻繁にカテゴリー化を行なっている。
カテゴリー化を行うことによって、一つのカテゴリーに含まれるもの同士の類似性が強調され、同時にそのカテゴリーに含まれるものと、別のカテゴリーに含まれるものとの差異が強調される。

これらの効果によって、カテゴリーの境界線は明瞭になり、人間はより人間らしく、子供はより子供らしく、アジア人はよりアジア人らしく見えるようになる。

私たちは、このように出来るだけ単純なイメージを描くことで思考を円滑にし、時間をかけずに容易に判断し行動することができるようになる。

カテゴリーを用いた情報処理を繰り返した結果、様々な社会集団に対するイメージ、つまりステレオタイプが形成される。

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今回出てきたカテゴリー化について調べてみると以下のような記述があった。

カテゴリー化
人間の認知資源には限りがあり、カテゴリー化を行うことで、
最小の認知的努力で最大の情報を得ようとする。
カテゴリー化は下記のプロセスが一般的となっている。

・目にした対象のパターン認知
・認知した情報を長期記憶内から検索
・対象と最も類似した記憶を選択
・対象の持つ性質を推論              ー科学事典より参照

「人間の認知資源には限りがあり、カテゴリー化を行うことで、
最小の認知的努力で最大の情報を得ようとする。」とあるように、カテゴリー化しないと人間は情報を脳内に保存することが難しい。

そして、例えば人を例にとるとするならば、出身や経験や所属でカテゴライズすることによってその人をその人たらしめるものが形成されている側面も一定ある。
親密性を生みやすい「共通項」もまた、カテゴリー化から生まれるものだろう。

「カテゴリー化の線をどこに引くのか」は個人の価値観や、時代、そしてみる視点によって移り変わっていくものだと思う。
イギリスに住んでいる人から見れば、もしかしたら中国人も日本人も同じ「アジア人」というカテゴリーの中に入るかもしれないが、
中国人と日本人はお互いを言語や文化によって違うカテゴリーに入れようとするだろう。
でも、イギリス人も中国人も日本人も「人間」というカテゴリーの中では同一のものとなる。

境界線は強いようで、淡い。

次回はそんなカテゴリー化から派生する、ステレオタイプに関して書いていこうと思います。

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