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グレイテストショーマンと南瓜とマヨネーズ

今日「グレーテストショーマン」と「南瓜とマヨネーズ」という全く志向の異なる映画を見ました。その対比が自分の中で物凄かったので、心の潤いが乾ききらないうちに2つともまるっとまとめて感想を残しておこうと思います。雑記です。(以下ネタバレも含みますので、まだ見てないけど見たい人は鑑賞後に読んでね)

グレイテストショーマン


本当は今日見る予定はなかったけれど、急遽見に行けることになった。
本題とは逸れるけれど、こういう幸福なハプニングは大歓迎。小さな偶然大事にしていきたい。


わたしはミュージカル映画を語れるほどの知識は何も持ち合わせていない。
けれど、そんなわたしでも映画が始まった瞬間、本当に始まったそのジャストな瞬間からお腹の内側の底からどんどん叩かれているような、そんな感覚を覚えた。

元気が出るとかそんな生易しいものじゃなくて、魂が震えるような感動。
こんな感動体験を作り出せる事以上に、人間冥利につきることは果たしてあるのだろうか。歌と映像の持つ力は計り知れない。この熱量。圧巻。全身持ってかれた、悔しい!!って感じ。

どうしてこんなに感動したのかを考えてみると、それは登場人物たちの「不完全さ」に起因しているのだと思った。
人は平坦で安定した人生を求めてしまいがちだけれど、失敗や挫折はどんな人にでも等しくあって。誰だって傷ついて生きている。
その傷は本当はあまり人に見せたくないもので、ひた隠しにしているんだろう。
でもこの映画では、その傷をむしろ美しいもの、誇りに思えるものとして見せながら「なにが悪いんだ!これがわたしだ!」と前を向いている。
それが歌やパフォーマンスの力強さに直結しているんだろう。
傷ついたもの、完全でないものほど愛おしいものはない。

全体的な感想としては、以上に尽きると思う。
(ミュージカル映画ならではの、歌いながらどんどん時が経ってて「あれー!あの少年がもうヒュー・ジャックマンになっとるー!」みたいなとんでもタイムスリップもあったけれどそこはご愛嬌)


「最も崇高な芸術は人を幸せにすることだ。」
という最後のメッセージは本当に心に残っているし、この映画自体がそれを体現できていると思った。まさにグレイテストショー、ブラボー。

わたしもロープに乗ってぐるぐる回りながら歌いたい。


南瓜とマヨネーズ


きらびやかなショータイム!!みたいな映画を見た後のこちらの一本。

邦画の中の邦画だった。

邦画の良さはなんとも言えない重々しさを感じさせてくれるところ。
綺麗なことばっかりじゃなくて、もやもやとしたところとか見たくないところまで含めて現実でしょ?ちゃんとそれごと受け止めろよ?感がすごい。

グレイテストショーマンが日常のあれこれを忘れさせてくれるようなディズニーランドのような映画だとすると、こちらは「あーこれ捨てなきゃいけなかったんだよな…でも今日疲れてるし明日出そっと…」と思いながら見つめる部屋の隅に置かれたゴミ袋のような現実感のある映画だ。(実際に劇中の部屋にはゴミ袋がいっぱい)


女は過去の恋をひきずらない、なんて嘘。
という言葉通りにハギオの登場で揺れる揺れる臼田あさ美さん。
それはもう”見た瞬間に立っていられないほどに”。

あんなにせいちゃんのこと好きって言ってたのに!!
だけどせいちゃんのことを嫌いになったわけでも、冷めたわけでもなく、別次元でハギオに対する恋心が動き始めちゃったんだろうな。

そんなあさ美ちゃんが放つ、
「わたしは、自分が何をしているのか、わからない」のインパクト。

ここだけ切り取ると「いや、なにそんな言葉でごまかしとんねんただの浮気やろ」となってしまうが、現実って、人の気持ちって、そんなに綺麗で整理されたものじゃないんだなあ…自分でもどうしてそんなことをしてるのか訳がわからないような瞬間だって、きっとあるのだ。そんなあさ美ちゃんの心情が精一杯詰まっているセリフだと思った。

そしてその後の年下お姉さんカナコの「どっちも別れた方がいいよ、結局どっちを選んだって選ばなかった方に情が残るんだから」というど正論のアドバイスと、重々分かっているんだけど離れられない臼田あさ美氏。しまいには「せいちゃんから振ってくれないかな」と言い出す。

救いようがない。救いようがないのに、なんだか分かる。分かってしまう。
なんだろうこれは。

そういう映画だった。

あと個人的に臼田あさ美ちゃんの体が凄まじく好き。

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全く違う方向から色んな感覚を刺激された一日。
感覚は形を気にせずに生モノのまま残していこう。

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