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彼女を鏡に男を見る

最近はもっぱら修論執筆に追われている。
休みなどという概念はもう何ヶ月もない。平日は作業、土曜も作業、日曜日はゼミ。でもこの生活もあと少し。
ちょっとしたお休みが貰えて、そしたら社会人になるんだ。

休みが全くないということは趣味の時間が全くないということ。
学校に通う往復2時間の間は本を読んだりドラマを見たり好きなことをしようと決めているが、
僕の趣味はカメラ。
いつから撮影に出かけられていないのだろう。

先日もせっかくの星空&朝日チャレンジが
作業が終わらなかったためにおじゃんになった。
だいたいどこかへ撮影に行くと、2日間という時間とバカにならない交通費が必要になる。
修論に追われている僕にはバイトをする時間もないし、ましてや2日間作業が出来ないという恐怖に勝つことは出来ない。


つまり何かというと、
最近余計なことを考えている時間が多いなという話である。

撮影に行けばどんな写真が撮れるかなとかどんな補正をしようかなとか、そんなことばかりが頭の中を巡るのだけれど、
今頭の中にあるのは「自分」という存在がどんなものなのかという考えばかりだ。
ちなみに修論のことは作業中以外は頭から消え去る。考えるのは学校だけでいい。

前はこんなに男が好きとか女が好きとか考えることはなかったと思う。
というか意識することがなかったと思う。
もっと気分で生きていた気がする。

しかし今は自分がどっちに傾いているのかを意識的に考えることが増えた。
かっこいい人を目で追いかけて、あぁ今は男が好きなのね。と自覚する。そんなことが多くなった。

意識することで余計どっちつかずになって気持ち悪くなる。


大抵人が物事を考えるきっかけとなるのは環境が要因だと思う。
思い返してみたら僕の周りには彼女がいた。

以前も男女間の友情の時にとりあげたビアンの女の子。
会う時間、会話する時間が増えて最近は気にかけている時間が多い気がする。
最近、彼女は本人なりの幸せを掴んでいて、話してくる惚気や愚痴がちょっと羨ましい。


互いにセクシャリティの話を身近にできるのは自分たちだけなので
意図せずしてそういった話が始まってしまう。


原因はこれだ。


彼女と会話をする中で自分の心を言語化することで男の好きな僕が表へ現れてくる。
彼女の話を聞くことでゲイの世界へ僕の意識は飛んでいく。
別にたわいもないどうでもいい話をしてることも多い。でもその一端に彼女と僕を繋げているものを感じ、あぁLGBT、と意識しはじめる。

もちろん彼女と話すのが嫌なわけでは全くない、むしろ現状の僕に彼女の存在は嬉しいほどありがたい。
彼女がどこか惹かれる存在ではなければそんなことはないのだろうか。


環境が変われば考えることも変わるだろう。
いつか彼女と話す機会が減ったら僕は自分というものを意識せずに生活が送れるようになるのだろうか。

別に男が好きな自分が嫌いなわけではない。どちらにも傾く自分がハッキリしない、地に足が着いていない感じがするのが嫌なだけだ。
モヤモヤが早く取れたらいいのに。

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