酒を勧める社会ー玄鎭健(ヒョン・ジンゴン)

著者死後50年以上経っているパブリックドメインの作品でしたので、翻訳してみました。
原文:https://ko.wikisource.org/wiki/%EC%88%A0_%EA%B6%8C%ED%95%98%EB%8A%94_%EC%82%AC%ED%9A%8C

「あちゃ」、一人で縫い物をしていた妻は顔をちょっとしかめて細く鋭い音で叫んだ。針先が左手親指の爪の下を刺したからだ。その指は軽く震え、白い爪の下にさくらんぼ色の血が透けて見えた。
それを見る間もなく妻はすぐ針を取り、違う手の親指でそっとその傷を押していた。そうしながらやっていた縫い物を肘で大切に押して遠ざけた。やがて押していた手を話して見た。その辺りはもう血が通ることもないように血色がないように見えたが、その白い蓋の下から再び花の汁が少し、少しと押し寄せてくる。
見え隠れするその傷から粟の粒みたいな血の雫がほとばしってくる。また押さないといけない。ここまで押したらその傷穴が塞がったかと手を離すとまた間もなく血が出てくる。
もう布のハギレで結んでおくしかない。その傷を押したまま彼女は裁縫箱に目をやった。そこに使えそうなハギレは糸巻の下にある。その糸巻を押し出してハギレを両小指で挟んで出そうとしばらく奮闘した。そのハギレはまるで糊付けされたかのように箱の下にくっついて取れそうにもない。二本の指は虚しくそのハギレの上を掻いているだけだった。
「なぜ取れない!」
彼女はやがて泣いているかのように声をあげた。そしてそれを取ってくれる人はいないかと部屋の中を見渡した。部屋はガラリと空いていた。誰もいない。深閑とした虚影のみ彼女を囲んでいた。外からも何の音も聞こえてこない。
時々ポンポンと落ちる水道の雫の音だけが寂しく聞こえてくるのみ。ふと電気の光が光彩を加えてくるようだった。壁にかかった掛け時計の鏡がキラリとしており、新たな点を示そうとする短針が脅すかのように彼女の目を刺してくる。彼女の旦那はその時間までも戻ってこなかった。
ーーーー
妻になり旦那になってからはもうしばらく経ったことだ。既に7~8年も経った頃だろう。しかし一緒に過ごした日を数えようとすると、1年になるか否かのようだ。彼女の旦那がソウルで中学校を卒業したての頃に彼女と結婚し、すぐ東京へ留学したためだ。
そこで大学まで卒業した。この長い年月の間妻はどれほど苦しく寂しかっただろう!春なら春、冬なら冬、花の笑みをため息で迎え、氷のようなまくらを熱い涙で温めていた。体が痛む時、心が寂しい時、どれほど彼が恋しかっただろう!
しかし妻はすべての苦労を歯を食いしばって乗り切った。乗り切っただけではなく、甘んじて受け入れた。それは旦那が帰って来たら!という考えが彼女を慰め、勇気を与えた体。旦那が東京で何をやっているのだろう?勉強をしている。勉強とは何か?よくわからない。わかる必要性もない。
とにかくこの世の中で一番良いもので、貴重な何かのようだ。まるで昔話に出てくる打ち出の小槌のようなものかと思っている。服を望めば服が、食べ物を望めば食べ物が、お金を望めばお金が出て来て…自分が求める何かを願うとなんでも叶えてくれる何かを、東京から得て帰ってくるだろうと思っていた。
たまに遊びに来る親戚がシルクの服を着ていることや黄金の指輪をしていることを見るとその場すぐは羨ましがってもいたが、後からは『旦那が帰って来たら…』とそれを軽蔑する視線を投げた。
ーーーー
旦那が帰って着た。一ヶ月も、二ヶ月も過ぎていく。旦那がやっている行動が自分の期待していたものとは少し背馳しているように感じた。勉強をしていない人と比べ、何一つ違うところがなかった。いや、違うと言えば一つだけあった。他の人は金を稼ぐのに、旦那は家の金を使っている。そうしながら忙しく出回る。家に帰ると夢中で本を読んだり、夜中まで何かを書いたりしていた。
『ああするのが本当に小槌を作ることみたい』
妻はこう解釈する。
また二ヶ月が過ぎていた。旦那がやっていることはいつも同じだった。もう一つ加わったのは、時々深いため息を付くことだった。そして何か憂いでもあるかのように顔が晴れる日がない。体は日々衰えていく。
『何か心配事でもあるのかな』
妻はそれに連れて心配をするようになった。そしてその痩せた者を補おうと努力した。できる限り彼の食卓に美味しいおかずを乗せ、そして煮込みのようなものも作った。その甲斐もなく、旦那は食欲がないといいそれらをよく食べもしなかった。
また数ヶ月が過ぎていった。もう出入りを絶えてずっと家に居座っている。訳もなくよく怒り出す。口癖でムカつく、ムカつくと言っていた。
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ある日の夜明け、妻がうっすら目を開け、旦那の寝床を手で探って見た。手が触るものは布団だけだった。寝起きなのにも、少し落ち込みを感じざるを得なかった。なくしたものを探そうとでもするようにするりと目を開けた。
机の上に頭を倒し、それを握りしめている旦那が見えた。うっすらしていた意識が戻るに連れ、旦那の肩が揺れていることにも気づいた。ぐずぐずと泣いている音が耳を鳴らす。妻ははっと目が覚めた。ふと体を起こした。そして妻の手は軽く旦那の背中を揺らし、喉から詰まった声で
「なんでこうしておりますか」
と聞いて見た。
「…」
旦那は何も答えてくれなかった。妻は手で旦那の顔を上げようとしていたところ、それがあったかい涙に濡れていることに気づいた。
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また一、二ヶ月が過ぎた。初めの頃のように出入りが頻繁になった。吐き気がしそうな酒の匂いが夜遅く帰って来る旦那の口からするようになった。それは最近のことだ。今夜は今までも帰ってきていない。
夕方から妻はあらゆる想像をしながら旦那の帰りを待っていた。退屈な時間を早く送ってみようと退かしていた縫い物をまた出した。それすら思いのままにならなかった。時々針が気のままに動かなかった。やがてそれに刺されてしまった。
「どこに行ってまだ帰ってこない!」
妻はもう痛かったことすら忘れ、腹を立てた。しばらく彼女から離れていた空想と幻影が再び彼女の頭の中に浮かんできた。おかしな花の刺繍があしらわれている白い布の上に美味しそうな料理が乗っている皿が輝く。様々な友人と酒を進めたり飲んだりしてる光景が見えて来る。彼女の旦那は狂ったように音を出して笑う。
やがては黒いカーテンがすっと遮って来るようにその全てが消えて行き、狼藉とした食卓だけが見えたり、徳利だけが白く輝いたり、さっきの娼婦が片腕を床については笑って騒ぐ姿が見えたりした。また旦那が道端に倒れ泣き出す姿も見えた。
「開けろ!」
ふと外の門が揺れる音と、酔った声で呼ばれる音がした。
「はい」
自分も気づかないうちに返事をし、急いで部屋から出た。間違いて履いてしまった、足に合わない靴を引きづりながら門まで走った。中門はまだ閉めておらず、下女の部屋に人がいなくもないが、いつも通りぐっすり眠っているとばかり思って走り出した。細い手が闇の中白くかんぬきを握りなんとか開けようとする。門が開いた。
夜風が冷たく顔に当たる。外には誰もいなかった!路地に人の影はなかった。青黒い夜の光が白い道の上にうっすら染みているだけだった。
妻は何かにびっくりしたような姿で長らくぼーっと突っ立っていた。ふと急いで門を占める。まるでそれの隙間から悪魔でも入って来るかのように。
「だったら、風の音だったのか」
と冷たい頬を撫でながプスっと笑って足元を戻した。
「いや、私が確かに聞いたのに…もし私の見間違いなのか?路地にバタッと倒れていたら見当たらなかったかも…」
中門まで至るとふとこんな考えが頭をよぎり、足を止める。
「門をまた開けてみるか?いや、私の聞き間違いた。いや、でももしかして…いや、私の聞き間違い…」
迷いながらも夢でも見ている顔でふと気づいたら縁側まで上がってきた。とても奇妙な考えがふと彼女の頭をよぎった。
『私が大門を開けた時、ひっそり私の知らぬ間に入ってきたのでは…?』
そういえば、部屋の中から何か音がしている気がした。確かに人の気配があった。大人に怒られに行く子供のように注意を払いながら部屋の前まで行った。そして門に手をつけながら笑い始めた。それは自分の間違った行動を許してほしい子供のような笑みだった。ちょっとずつ門を開けた。なんか布団が動いているような気がした。
「私を騙そうと布団をかぶったな」
と、心中でつぶやいた。そっと座り込む。
その姿がこれに触れたらいけません、というかのようだった。布団を持ち上げた。何もない敷布団が目に入る。やっと誰も入ってこなかったことに気づいたように、
「帰ってないね、帰ってないね!」
と泣きそうに叫んだ。
ーーーー
旦那が帰ったのは新たにもう2点が過ぎた頃だった。何かがバタッとした音が聞こえて、すぐ
「お嬢さん、お嬢さん!」
と呼ぶ声が耳を殴った時、やっと妻は座っていたはずの自分が布団の上に倒れていたことに気づいた。確かに、耳の遠いばばあが門を開けたぐらい、妻は深い眠りについていた。なのに彼女は夢の境で彷徨っていた精神をすぐ取り戻した。2回ぐらい顔を撫でてはふと外に出た。
旦那は片足を縁側に引っ掛け、片腕を頭の下において寝ていた。寝息が聞こえてきた。
靴を脱がして立ち上がり、ばばあは赤い顔をしかめながら
「早く起きて部屋に入れてください」
と言う。
「うん。起きる」
旦那はなんとか舌を動かし鼻と口で返事をした。それでも体はビクともしない。むしろその焦点の合わない目を寝ようとするかのように瞑ってしまう。妻は目をこすり突っ立っていた。
「早く起きてください。部屋に入ってくださいってば」
今回は返事もしない。その代わりに何かを掴もうとするように手を振り回しては
「水、水、冷水をくれ」
とつぶやいた。
ばばあはすぐ水を汲み酔っ払いの鼻のもとにおいたが、その間もう先の頼みは忘れたかのように酔っ払いは飲もうともしない。
「なぜ水を飲まれませんか」
側でばばあが急かした。
「うん、飲むよ、飲む」
と、やっと主人は片腕で支えて起き上がる。一気に器いっぱいの水を飲み干す。そしてまた倒れこんでしまう。
「はあ、また寝てらっしゃる」
と、ばばあは井戸に入ろうとする子供を抱きかかえようとするように両腕を差し出す。
「ばばあはもう寝てて」
主人は面倒臭そうに言う。
これをどうすればいいかわからず突っ立った妻も、ばばあにはもう帰ってほしいと思った。旦那を掴み起こそうとする気持ちは切実だったが、ばばあが見ているうちにそうするわけにはいかないと思った。結婚して7〜8年も立っているのに、そんなことに恥を感じる間ではなくなっているが、一緒にいた日だけを数えてみると、彼女はまだ結婚したての新嫁だった。
「ばばあは帰って寝てて」
と言う言葉が喉まで詰まってきたけど、唇で消えてしまった。心いっぱい、ばばあが帰えることを待つだけだった。
「ちょっと起こしてあげないと」
帰えるどころか、こんなことを言いながらばばあは縁側にあがって来る。その姿は、まるで旦那様がお酒酔ったら、部屋までお連れするのが私の役目です、とばかり言っているようだった。
「さあ、さあ」
ばばあはお嬢さんを見て笑みを浮かべながら、旦那様の背中に手を入れる。
「なんだ、なんだ、俺は起きれるぞ」
と、体を動かしては、主人が本当に起き上がった。縁側をドンドンと踏み鳴らしながら、すぐにでも倒れそうに歩きながら部屋に向かう。ドカンと門を開け、部屋に入る。妻もそれに連れて入る。ばばあは旦那が門を通った頃で、難度が舌を打ちながら帰った。
壁に寄りかかっている旦那は、何かを考えているかのように下を向いていた。彼の乾いたこめかみに打つ青い脈を彼女は心配げに見つめながら旦那に近づく。妻は片手では背広の襟を、もう片手では袖を掴みながら和む声で
「さあ、脱ぎましょう」
と言った。
旦那はふと滑り込むように壁に沿って座り込んだ。彼の伸ばした足先で布団があっちに滑る。
「あら、どうされましたか。服は脱がずに」
その勢いで倒れそうになった妻が泣き叫んだ。そうしながらも一緒に座る。その手はまた服を握った。
「服がしわになります。お願いだから脱いでください」
と妻は哀願しながら、服を脱がそうとする。しかし、酔っ払いの背中は千斤のように壁にくっついており、脱げるはずがない。苦心の甲斐もなく服を手放し、離れては
「まったく、誰がこんなに酒を勧めたのか」
旦那はその言葉がとても耳障りだったかのようだった。
「そうか。誰が勧めたか君が当ててみるか」
とはっはと笑う。それは絶望の色を浴びた、寂しい笑だった。妻もそれにつられ笑みを浮かべては、また服を握り
「さあ、服から脱ぎましょう。話は後です。今晩よく眠られたら明日の朝教えてあげましょう」
「何を言っている。今日のことをなぜ明日に延ばす。言うことがあるんなら今しろ」
「今は酔われているので、明日酔いが覚めたらしましょう」
「何?酔っている?」
と、首を振りながら
「とんでもない。誰が酔っていると言う。俺がやりたいからこうしているんだ。気は確かだよ。ちょうど話がしたいところだ。なんでも。さあ」
「いや、飲めないお酒をなんで飲まれたのですか。体に悪い」
と、妻は旦那の額に流れる汗を拭く。
酔っ払いは首を振りながら
「違う、違う。そんなことが聞きたいわけじゃない」
と、先ほどのことを追求しているかのように、言葉を止めてはまた繋いで
「よし、誰が俺に酒を勧めたと思う?俺が飲みたいからか?」
「飲みたから飲んだわけではありません。誰があなたにお酒を勧めたのか当てて見ましょうか。あの…先ずは怒りがお酒を勧め、次は『ハイカラ』がお酒を勧めますね」
妻はそっと笑う。私が当てましたよね、と言いたいようだった。
旦那は苦笑する。
「違う。わかってない。怒りが酒を勧めたわけでも、『ハイカラ』が勧めたわけでもない。俺に勧めてくるのは別にある。あなたが、俺がある『ハイカラ』に惑わされているとか、その『ハイカラ』が俺に酒を勧めてくると心配していたなら、それは無駄だ。俺に『ハイカラ』はなんの意味も持たない。俺に意味があるのは酒なんだ。酒が腸に沁みて、あれもこれも忘れられるようにするのを俺は取るだけさ」
と言い、いきなり口調を改めて感無量に、
「嗚呼、有為有望な頭を『アルコヲル』で麻痺させないと耐えられなくするものが、なんだと言うんだ」
と、長い溜息をつく。酷い酒の匂いが部屋に伝わって行く。
妻にはその言葉があまりにも難しかった。黙々と何も言わなかった。目に見えない壁か何かが自分と旦那の間に立っているようだった。旦那の言葉が長くなるたびに妻はこのような苦い経験を味わった。一度や二度ではない。やがて旦那は呆れたように笑う。
「は、またわからないのか。聞く俺があれなんだな。あなたがそんな言葉をわかるはずもない。俺が説明しましょう。よく聞いてください。俺に酒を勧めるのは、怒りでも『ハイカラ』でもありません。この社会というものが俺に酒を勧めてくるんだ。この朝鮮社会というものが俺に酒を勧めてくるんだ。わかったか?運が良くて朝鮮に生まれたな。他の国で生まれたら酒すら奢ってもらえたか...」
社会とは何か?妻はまたわからなくなった。とにかく他の国にはなく、朝鮮にのみある料亭の名前かと思う。
「朝鮮にあっても通わなければいいのではありませんか」
旦那はまたして先のように笑う。本当に酔っ払ってないかのようにはっきりした口調で
「はは、呆れたな。それの一分子になった以上、通う通わないがなんの関係か。家にいたら勧めてこず、外に出たところで勧められるとでも思ってるのか。そんなんじゃないんだ。なんとか社会の人がいて外出した俺を引っ張って酒を勧めてくるのではない...どう言えばいいだろう...あの朝鮮人で成立したこの社会というものが、俺に酒を飲まざるを得なくするんだ。
....なぜか?また俺が説明しよう。ここにある会を一つ作るとしよう。そこに集まった人は皆が皆して、初めは民族のためだとか、社会のためだとかいうけど、自分の命に代えてもいいというやつは一人もいない。そして二日にもならないうちに...たった二日もならないところで...」
声を一層高め、指を一本一本折りながら
「なってもない名誉争い、意味のない地位の奪い合い、俺が正しくてお前は間違っているとか、俺の権利が多くてお前は少ないとか、昼夜問わず言い争っているばかり。それで何ができる。会だけではなく、会社も組合も...我々朝鮮人が組織した社会は全部あんな有様だ
こんな社会で何ができる。何かやろうとする人こそ愚か。少なくとも正気なやつは血を吐いて死ぬしかない。出なければ酒を飲むだけ。俺も前には何かやろうと頑張ってみたんだ。全てが水の泡。俺がバカだった。
俺が酒を飲みたくて飲んでるんじゃない。最近はマシだけど、初めて飲んだときはあなたも知っているように、死ぬほど辛かった。その飲んだ後にくる辛さは身を以て体験しなきゃわからない。頭がズキズキと痛み、食べたものは全て戻ろうとしてーそれでも食べないよりはマシだった。体は辛くても心は辛くなかったから。ただこの社会でできることは飲兵衛しかない...」
「何をおっしゃいますか。何が足りなくて飲兵衛になるんです!とにかく...」
ーーーー
妻は自分も知らないうちに興奮し、熱気さえ帯びた目で旦那を見つめふとこんな言葉を口にした。彼女は自分の旦那こそこの世で一番偉大な人だとばかり考えていた。従って誰よりも一番よくなると信じている。朦朧としているが彼の目標が遠大で高尚なのも知っていた。
大人しかった彼が酒を飲むようになったのは、何かがうまくいかなくて腹いせにそうしているともなんとなくわかっていた。しかし酒は毎日飲むものではない。そうすると身を滅ぼしてしまう。つまり一日も早くその怒りが治ったら、また大人しくなったらという考えが彼女の頭から離れた瞬間はなかった。
そしてその日が必ずくると信じていた。今日からは、明日からは...しているが、旦那は昨日も酒によっていた。今日もああなっている。自分の期待は日々遠くなって行く。それに連れ、期待に対する自信も薄くなって行く。恨みつらみが時々彼女の胸を締めてくる。それに日々やつれて行く旦那の顔を見るたびにそんな感情はとめどなくなる。今自分も知らないうちに興奮したことも、無理もない。
「それでもわかってくれないか。は、呆れる。正気だと血を吐いて死ぬか、水に溺れ死ぬかで、一日も生き延びれそうにないんだ。胸臓が締め付けられ生きられないんだ。ああ、重苦しい!」
と旦那は叫んで、辛さに耐えられないかのように顔をしかめ狂ったように胸をかきむしる。
「お酒を飲まれないと胸臓がつまります?」
旦那の行動は見ぬふりして、妻は顔をもっと赤らめて叫んだ。
その言葉にびっくりしたのか、旦那は呆れ顔で妻の顔を見つめては、次の瞬間、言葉にできない苦悩の影が彼の目を通る。
「間違っているよ、俺が間違っている!あなたのような菽麦にこんなことを言った俺が間違っている。あなたから少しでも慰めてもらえるかと思った俺が間違った...はぁ」
と、嘆く。
「ああ、じれったい!」
ーふと、途方もなくいきなり声を上げては身を起こす。部屋から出ようとする。
なぜ私があんなことを言ったんだ?妻はすぐ後悔した。旦那の上着の裾を握りしめながら切ない声で、
「なぜどこかに行かれるんですか。こんな夜中にどこに行かれるんですか。私が間違いました。もうそんなことは言いません...明日言いましょうと言ったのに...」
「聞きたくない。離せ。離して」
と、旦那は妻を押し退けて外に向かう。ふらつく足元で縁側の端に歩いてはどっさりと座っては靴を履き始める。
「何されるんですか。もうそんなことは言いませんから...」
妻は後ろから靴を履こうとする旦那の腕を掴みながら言った。彼女の手は震えていた。彼女の目からはすぐにも涙がこぼれそうだった。
「何してるんだ。邪魔臭い」
吐き出すような言葉を口にし、振り切る。旦那の靴がコツコツと中門にたどり着いた。やがて外に消えて行く。縁側にぐんなりとしている妻は虚しく何度か、
「ばばあ!ばばあ!」
と呼んだ。静かな夜の空気を鳴らす靴音はどんどん遠くなって行く。やがて路地裏に消えてしまった。再び夜は静寂に深まって行く。
「行ってしまったよ。行ってしまった!」
その靴音を永久に失くさないかのように耳を傾けていた妻は全てを失くしたかのように叫び出した。その音が消えて行くと同時に自分の心も消え、気も消える感じだった。心身がすっからかんになったようだった。彼女の目はとめどなく黒い夜の霧をぼーっと見つめていた。その社会というやつの毒々しい姿を描いているかのように。
寂しい夜明けの風が胸にぶつかってきた。そのぶつかる勢いに眠れず疲れてしまった体が壊れそうにしみてきた。
死人からしか見ることができないやつれた顔が痙攣を起こすかのように震え、絶望した口調で呟いた。
「その頂けない社会が、なぜお酒を勧める!」

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