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【NGOミニマム寄稿エッセイ③】「怠け者」になる哲学〜カレン族の村から〜

タイ北部チェンライにて「難民・孤児・貧困の子供たち」への支援をおこなっているNGOミニマムのご支援のもと、4本のエッセイを執筆中。エッセイを通して、タイの山岳少数民族から見るタイ社会の一端を紹介。

「いかに生きるのか」

「いかに生きるのか。これこそが宗教の根本にある問いであり、教えなのです」

 私は中高6年間をキリスト教系の学校で過ごした。中学生の頃から「キリスト教」という授業があり、学校の中にある教会の牧師さんが教鞭をとっていた。
 宗教では必ず見かける〈聖〉という言葉。この言葉は「ヒジリ」と発音するが、元々は〈日知り〉から来ているのだという。〈日〉、つまり「太陽」の動きを〈知る〉ということは、時間の流れを把握すること。時間の流れを把握するということは、自分たちの命が有限であると意識すること。命の限界、つまり〈死〉を意識することで、私たちは自らの〈生〉の意味について考えることができる。朧げながらも、牧師さんはこのようなことを言っていたことをよく覚えている。
  次のような台詞で使われる「哲学」という言葉にも、私は同じような意味合いを感じる。

「すべての人間には教育を受ける権利がある。それが私の哲学です」

 この場合、この「哲学」という言葉は、特定の学問分野としての「哲学」を指している訳ではない。この言葉を発した人には、「すべての人間には教育を受ける権利がある」という軸となる主義・主張があり、それに従った判断や行動が行われているのだろうと考える方が自然だ。つまり、この「哲学」という言葉にも、言葉を発した人にとっての「いかに生きるか」という問いへの答えが埋め込まれているように感じる。「哲学」という言葉だけではない。「倫理」「道徳」という言葉にも、似たような問いの設定がなされているように感じる。
 自分自身は特別何かの宗教を信仰している訳ではない。残念ながら、宗教や哲学について、特段深い知識を持っている訳でもない。ただ、中学生の頃のその日から、僕が選択の主体としての個人や、その集合体である集団や社会を見るときの大きな物差しは、「いかに生きるか(いかに生きているのか、の方が正しいだろうか?)」という問いだった。
 しかし、人と関わる上で、その人の「いかに生きるのか」という哲学を見つける/見出すのは、なかなか容易なことではない。一定の時間を共有し、じっくり話をすることが欠かせない。そんなやり取りの中で、少し垣間見ることができれば御の字だ。

 一方で、どこかで聞いたことのあるようなカチカチに硬い言葉で武装して、自分の「哲学」をペラペラと語り出す人もいる。
 大学生になり、留学をし、同じように留学を志す同年代の人と接する機会が増えている。そんな知り合いの中には、こんなことを語る人もいる。

「国際社会における日本のプレゼンスは年々低下しています。だからこそ、私は『海外』という場での経験を持った人間がグローバル人材となり、日本社会を牽引していくことが大切だと思うんです!(だから私は留学するんです)」

 すごく壮大で、熱い。思わずうっとりしてしまう。言っていることも、決して間違っていることではないのだと思う。でも、どこかでこっそり聞いてみたい。それが本当にあなたの「いかに生きるのか」なのか。
 自分もそういうタイプだったのかもしれないとよく思う。ただ、実際はそんなに簡単なことではない。グローバル人材になるのが簡単なことではない、と言いたいのではない。「いかに生きるのか」という問いの自分なりの答えを見つけることが、簡単なことではない、と言いたい。チェンマイのアパートの一室で、そんなことをダラダラと考えていることそのものが、若者の自意識過剰なのではないかと最近は思っている。

 そう、今自分はタイにいる。タイにいて、日本社会から来た人間としてタイ社会を見つめ、タイ社会に身を置く人間として、日本社会を振り返る。ここにいると、比較の視点が働いてしまう。それぞれの社会にいる人々が、「いかに生きるのか」という問いに対して、どのような答えを持って生きているのか、自ずと考えてしまう。そんな問いかけに対して、カレン族の村にいた際に、一つの示唆を得ることができた。

 今回も長くなりそうだ。

カレン族の村へ

 チェンマイ市街地から2時間半。暑季最後の日差しが容赦なく差し込むロッデーン(注1)に揺られながら、私たちはあるカレン族の村に向かっていた。今にも崩れそうな林道を越え、尾根よりも標高が一段下がった土地に構えた村だ。ただ、村というには栄えていて、街というには寂れていた。ここでは仮にNと呼ぶ。

 留学している大学で、私は「山岳地域のダイナミズム」という講義を履修している。植民地時代から戦前・戦後にかけての、山岳少数民族を取り巻く社会の変遷が主題で、担当教員は長年山地コミュニティを渡り歩いてきた文化人類学者。この大学ならではのマニアックな講義だ。この授業にはフィールドワークが付いている。そのフィールドワークの一環として、僕はN村に足を運んだ。学部や専攻、出身地域などが本当に多様なタイ人学生たちと一緒に。

竹細工のコップ。子どもたちが作ったという。

 待ち合わせ場所は、村長の息子が経営するカフェだった。カフェと言っても、高床式の家屋を拡張して改修し、壁に村の写真を幾枚か貼っただけの、非常にシンプルな集会所だった。ふっくらとした頬の男の子が満面の笑顔で向かい入れてくれた。村長の孫だという。カフェの中には、おそらく80歳近い村長と、その息子、そしてその子どもがいた。彼らを仮にSと呼ぼう。

 私たちは尊重であるひとり目のS(村長)から村の歴史について簡単な講義を受けた。学生の中に2人ほど日本人が混じっていることに、ひとり目のSは興味を示した。

「私の昔の名前は “ジャパン” だったんだ」

 太平洋戦争中、英領マラヤ・ビルマへの進軍をはかり、日本軍はタイに進駐した。ちょうどひとり目のSが生まれたとき、N村は通過する日本軍と接触したのだった。それがきっかけで、彼は「ジャパン」と名付けられたそうだ。ただ、タイ政府当局の人間があまり好まなかったため、結局は違う名前になったという。

 N村が経験した歴史的モメンタムはそれだけではない。N村は「土地の収奪」を経験していた。戦後、タイ国内で共産化の懸念が強まる中、「共産主義者の温床」として、政府による山岳地域が本格化する。その過程で山岳少数民族たちが生活し、生活の糧としていた土地の国有化を進められた。国有化した土地を政府は高い利子をつけて現地の住民に貸し付ける。今まで頼っていた土地の権利を剥奪され、かつ高値での貸し付けが行われる。一時期村は飢餓状態に陥り、都市部への住民の流出が発生したという。

 残念なことに、ひとり目のSのタイ語は、自分にとって非常に聞き取りづらかった。カレン訛りが強かったのだ。適宜、ふたり目のS(村長の息子)が標準的なタイ語へ訳してくれた。

 ふたり目のS。まだ若い。おそらく30代くらいだろうか。彼もまた、N村の歴史について、非常に熱心にかつ丁寧に説明してくれた。

「政府は自分たちの土地に介入し続けてきた訳なんだけれども、政府と自分たちでは、土地の利用に対する考え方が根本的に違っているんだ。自分たちは、広い土地があっても、全部をいっぺんに使おうとしない。7つに分けて、そのうちの一つから農業を始めるんだ。1年が経って使い終わった土地は、火を入れてまた種を蒔いて放っておく。そして、次の土地で栽培をする。そして、同じように1年で火を入れて、種を蒔き、放っておく。そうやって毎年毎年土地を変えて、7年後に元の土地に戻ってきたときには、土地が豊かになっている。こうやって土地を回しながら使うことで、化学肥料を使わなくても農業ができたんだ。この考えを、政府はなかなかわかってくれない」

「そもそもタイ北部の森の伐採は、植民地時代に始まったんだ。タイ・ビルマ山岳部の豊かな森林地帯に目をつけたイギリスが、植民地時代に伐採し始めたのがきっかけなんだ。その後はタイの政府が同じようなことをしている。ピン川の水位もそれで下がったんだ。よく山地民が焼畑でタイの森を壊したっていうし、学校でもそう答えないとマルが来ない。でも長い目で見ると、山地民が壊した森林っていうのはほとんどないんだよ」

「自分たちの伝統的な方法で農業ができなくなってからは、政府に合わせていろいろと作物を変えてきた。野菜、果物、とうもろこし、お米。今はコーヒーもやっている。こうやってブランド化してコーヒーを売っているけれども、これもいつまで続けられるかはわからない」

 ふたり目のSは、N村や山岳地域のコミュニティのあり方について常に考えてきたのだろう。自分たちが経験したことを、共時的な事件としてではなく、歴史の中に通時的に位置付けていた。集会場の壁には、カレンの伝統衣装を身につけた彼のポスターが貼ってある。

真面目になれたかな

 私たちの学生グループには、自分を含めて2人の日本人がいた。学部生として交換留学に来ている自分と、研究留学をしている修士課程の方だ。ふたり目のSは、日本から来た自分たちに親しみを持って歓迎してくれた。

「僕も日本に行ったことがあるんだ。栃木、知っているかい?」

 どうやらふたり目のSは、日本に農業研修のため1年間滞在していたことがあるという。

「คนญี่ปุ่นขยันมาก(コン・イープン・カヤン・マーク、日本人が本当に真面目な人々だよ)」

 日本から買ってきたという湯呑みにコーヒーを注ぎながら、ふたり目のSは日本での思い出を語り出した。日本人が時間に厳しすぎて、遅刻しそうになるといつもヒヤヒヤした。遅刻しても、ドオってことないんだけどね。栃木で出会った人々のことを他のタイ人学生に熱心に、そして面白おかしく語っていた。話を聞いてみれば、タイの人間が抱いている「日本人」像と対して変わらない。それでもなぜだろうか。彼の口から語られる「日本人」は、他のタイ人から聞く印象とは全く違って聞こえる。「やたらと時間に厳しい」「怒るときは直接言わないけれども、言葉そのものが丁寧になる」「先輩か後輩か、すごく明確だ」どれもこれもありきたりな話だった。そのどれもが、一切「皮肉」には聞こえない。的を射つつも、最後は誰も敵にまわしていない(自分とは大違いだ)。

「あんなに真面目な人と一緒にいれば自分も真面目になれると思ったけれども、真面目になれたかなぁ…」

 一通り語り尽くした後、彼は独りごちた。山の合間に広がる広大な田んぼに目を向けながら。山があり、田んぼがあり。そんな風景を、どこか懐かしがっているようにも見えた。いや、それは日本人である自分の勝手な想像かもしれないが。

「スゴー・カレンの言葉ではね、〈世界〉という言葉は〈ホー・コー〉っていうんだ。そのまま訳すと、〈泣く場所〉という意味なんだ」

「へぇ。なんでなく場所なんですか?」

 僕は彼に尋ねた。単純な好奇心だった。
 彼は答えた。

「だって、人間はこの世界に生まれてきてから、泣くことの方が多いだろう?」

「え?」

「悲しいときも泣く。怒ったときも泣く。笑っているときも泣く。そうだろう?」

「怠け者」庭園

 フィールドワークの終盤、ひとり目のSとふたり目のSは、「怠け者」庭園(ส่วนขี้เกียจ)というところに自分たちを連れて行った。村の入り口近くにある、いわゆる雑木林だった。そこには、オレンジ、ジャックフルーツ、龍眼、梨、柿など、さまざまな果物の木が生えていた。植わっている場所もまばらで、特に手入れもされていないようだった。次々に手渡される、その場で取った果実を頬張りながら、自分たちはその雑木林を進んでいった。
 途中で、自分は何をしているのかわからなくなっていった。どこまでも続く雑木林、暮れかかる日差し、増えていく蚊、そして、段々とわからなくなっていく、樹木と信仰の説明。そして何より、なぜ「怠け者」なのか?

 雑木林の中に、突如として教会が現れた。教会といっても、崩れかけた倉庫のような建物に、十字架と七角形のシンボルが散りばめられている、地味で、ある意味では雑な代物だった。その目の前の庭で、我々は円になって話を聞く。
 僕は待ち構えていたように、この質問をした。

「なんで〈怠け者〉(ขี้เกียจ)なんですか?」

 ふたり目のSは優しく微笑んだ。

「君は日本人だから、本当に真面目な学生なんだろう。真面目であることは、世界においては大切なことだろう。ただ、真面目になったら、次はどうなる?真面目に仕事をして、何か成果を出したら、それを超えるために、また真面目にならなければならない。そうやって、いくら真面目になっても真面目になりきれない。そうだろう?」

 僕は小さく頷いた。

「ではいろんな人が真面目になって、誰かを凌ぐためにさらに真面目になる。真面目になって、いろんなものを得ようとする。利益、権利、資源。でも世界は一つしかない。地球も一つしかない。真面目になって、資源をどんどん取り合って、そうしたらこの地球はどうなる?この世界はどうなる?何より、その真面目さんはどうなる?」

 ふたり目のSはそこで一息置いた。息子である3人目のSがやってきて、彼の横にちょこんと座った。どこかで拾ってきた小枝を父親に自慢している。ふたり目のSは続けた。

「真面目になれば、さらに真面目になることを求められるだろう?だから、カレンの人々は〈怠け者〉になるんだ。〈怠け者〉といっても、仕事をしないわけじゃない。自分や家族を養うために最低限の仕事をしたら、それ以上のことはしない。じっと観察するんだ。自然を、世界を、そしてその移り変わりを、その循環を。真面目になっている人にはわからない何かを、〈怠け者〉は理解することができる」

 僕はそこで、メモ書きするペンを止めた。

***

 チェンマイの一室で、自分は今もふたり目のSを思い出す。〈怠け者〉の哲学者のことを。これがカレンの哲学なのか、それとも彼自身の「いかに生きるか」なのかは、はっきりとはわからない。そこに明確な線があるかどうかもわからない。ただ、あの日彼の語ったことは、矛盾に満ちつつも的確な解だった。何に対する解か。それは自分自身の「いかに生きるか」であり、今まで会ってきた子どもたちを理解するための問いでもある。

 ふたり目のSには息子がいる。一緒に村へいったタイ人の大学院生の一人がこんなことを言っていた。

「ひとり目のSが村やカレンについて語り継いで、ふたり目のSがそれをさらに外の人にも語り継いで、ということはこの子は3人目のSになれるのかな」

 ふたり目のSは、我が子を抱きかかえて揺すっている。3人目のSは相変わらず小枝を振り回して遊んでいる。

「どうだろうか。彼がそれを望むかどうか」

 我が子を見つめるふたり目のSは、柔らかくも険しい顔をしていた。僕はその子がカレンの言葉を話しているところを、一切見ていない。

 カレンには、信仰があり、伝統があり、哲学がある。「知」があるのだ。シカシ、カレンには、少なくともN村のカレンには、そして多くの山岳少数民族には、文字がない。その「知」は果たしてこれから受け継がれていくのだろうか。

 僕は、ABU-ALIの子どもたちに想いを馳せる。今まで関わってきた子どもたちに思いを馳せる。彼らは、(言葉を選ばずに言えば)民族の「知」たるものを、どれほど引き継いでいるのだろう。アイデンティティは多様だ。そして複層的だ。単純に「◯◯族」とは言い切れない。ただ、その系譜を持つ者として、「知」は引き継がれているのだろうか?次回、訪れた際に、自分自身で探求してみようと思う。

<脚注>
注1:チェンマイ市街を走るローカルタクシー。ピックアップトラックの2台に屋根をつけて改造し、車体全体を赤く塗っていることから「รถ(ロット、車)แดง(デーン、赤い)」と呼ばれている。

<リンク集>

・NGOミニマム
https://mawp9.wordpress.com/

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