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台湾人になりたかった(3)祖母の葬儀

こんにちは、Mikiです。
前回までの記事はこちらから!
台湾人になりたかった(0)自己紹介
台湾人になりたかった(1)母に中文で話してと頼む
台湾人になりたかった(2)台湾短期留学


  台湾人の母に頼んで中文を学び始め、台湾への留学で学ぶのが楽しくなった中文。
しかし中文が私の至上命題になってしまった出来事があります。
  
祖母の葬儀です。

※今回の記事は、あえて感情のまま書いている箇所があります。
もし読んでいて辛くなったり苦しくなったりしたら、途中でも読むのをやめて休んでください。

特別な帰省、最後の帰省

  台湾への帰省は一年に一度。決して頻繁とは言えないけれど、祖父母や伯父たち、従兄弟たちが毎年あたたかく迎えてくれました。
  親元を離れてからは、父、母、弟とタイミングが合わないので1人で、あるいは友人たちを連れて遊びに行くこともありました。
  祖母は日本語ができるので私の友人たちともお話して、「お腹空いてない?」とか「果物食べる?」とか「寒いから外套(ガイトウ)着ていきなさい」とかたくさん気にかけてくれて、友人たちも泊まってよかったと言っていました。

  実は祖母が亡くなる数週間前、私は母と2人で台湾に帰っていました。5月初旬のことです。
  当時、こんなことをメモに残しています(中文訳をするためわざとこんな文体にしていました)。

ほぼ1年に1度は行く台湾は、私にとって故郷のようなところです。

幼い頃から日本で暮らしていた私は当然日本人だけど、時々複雑な思いを感じました。

自分が日本人だとしたら、台湾人の母はどうなるのか分からず、だけど台湾人だとするほど台湾についての知識は無いし、ハーフ(混血)という言葉は私にとって「両国をよく知らなければならない」というプレッシャーでした。

でも今回台湾に帰った時、母と時間を過ごし、祖母と伯父とみんなで食事して、私の心はだんだん楽になりました。

なぜなら、台湾の生活は私にとって少しも特別ではないと感じたからです。親戚と話すこともできるし、食べ物も全然新鮮ではなく、ただ懐かしいのです。

したがって、私という人間は「母が台湾人、父が日本人」ただそれだけだと、単純に自分を理解しました。行く時にはパスポートが必要だけど、法的には私の国籍ではないけど、私にとって台湾は決して外国ではないのです。

原文ママ※2022年のMikiが一部太字にしました

この帰省は、
”台湾の文化や場所そのものが自分にとっては一つも特別じゃない。ただ懐かしい。確かに私には台湾人の部分がある。”

そう思えた、特別な帰省でした。そして、
大好きな祖母に会えた最後の帰省になりました。

祖母と一緒にご飯を食べました。
お話もしました。
写真も撮りました。
ハグもしました。

「外婆,明年見!(おばあちゃん、また来年ね!)」

私は、いつものように言いました。

そのたった数週間後、祖母は亡くなりました。
5月末のことでした。


祖母の葬儀

  6月初旬にはお葬式がありました。
  葬儀の日程は母が伝えてくれました。私が日本に帰った後も、祖母の様子を看るために台湾に滞在していたのです。父、弟、私は台湾へ行くことになりました。

"今一番つらいのは母や伯父さんたちだ。せめて迷惑をかけないようにしよう。中文もこれだけ喋れるようになったし、自分のことは自分でしよう。"

私は意気込んでいました。

  当日、葬儀は着々と進んでいき、ついに最期の見送りです。
係の方が中文で説明しています。

"最期の挨拶です。故人様を思い、お花を棺に入れてください。まずはご子息様からこちらへどうぞ。"

  そんな内容でした。伯父たちがお花を棺に入れ手を合わせます。伯父の奥さん、いとこたち、と順番に祖母を見送っていきます。
   私たちの番が来たその時です。

「最期だからね、おばあちゃんに…お花…あげて…さよならして」

  母が泣くのを必死でこらえながら、日本語で言いました。
  私はあまりの衝撃に言葉を失いました。でも祖母とのお別れはちゃんとしたくて、必死で平静を装い、最期の挨拶をしました。
  父と弟に、そして自分自身に、猛烈に腹が立っていたのです。はらわたが煮えくりかえりそうでした。


"こういう時のために(中文を)勉強するんじゃないのかよ…!!"

"結婚して何年だよ!!なんでいつまで経っても喋れねえんだよ!!"

"なんで(母に)通訳させてんだよ…!!"

"なんで(自分らは)通訳が必要だと思われてるんだよ…!!"

"(私は)何言ってるか聞き取れたよ!!(父も弟も)聞き取れてなくても前の人の動き見れば次何するか分かるよ!!"

"私の中文(の実力)はまだ足りないのかよ…!!"

"あんなに勉強したのに…!!"


  驚き怒り動揺で、私の心の中はぐちゃぐちゃでした。
  母は父と弟に向けてだけ言ったのかもしれません。
  今までのように”いつもの習慣で”日本語にしただけなのかもしれません。
  でも自分の母親が亡くなって身も心もしんどいはずの母は、
”普通(≒両家親戚の使用言語が同じ)”ならしなくていいことを、
私たちが中文を分かればしなくていいことを、したのです。

 いや、中文ができない私たちが、母にそうさせたのです。

悔しくて悔しくて仕方なかった。

この出来事を機に、

中文を話せることは当たり前
だと

自分で自分に言い聞かせ、
できない自分を責め、
まだ足りない、まだ足りないと躍起になっていくのでした。

台湾人になりたかった(4)鏡映しとの出会いに続く

※父と弟の名誉のために言っておくと、父は日本語母語話者であり教育機関で中文を学んだことはありません。年齢的にも、幼少期から中文に触れていた私や弟とは習得スピードが違って当然です。また、弟は第二外国語で中国語を選択していて、この頃から母とよく中文で話すようになっていました。

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