見出し画像

おじさんと日本人

お肉を求めて、往復20キロの旅に出ました。

というのも、私の家の近くの市場で買えるお肉はこんな感じで、分厚い皮と油がついたまま、骨ごと鉈で断ち切ったものがほとんど。

お客さんはみんな、素手でこのお肉を掴んで重さやお肉の質を確認します。ハエももちろんぶんぶん飛んでます。それはあまり気にならないんですが、この村近辺もコンスタントに感染が報告されているので、あんまり不特定多数が触ったあとのお肉というのはさすがにちょっと心配で。

赴任時にJICAカーの中からチェックしていたのですが、ポンミー村には、CPというタイ資本のお肉屋さんができていました。郡内で一番大きな市場があるその村は、私の住んでいる家からぴったり10キロ。間はなだらかな丘というか山というか、勾配だらけで、コロナ自粛ともともとの運動不足で心拍数がどうにかなってしまいそうな、そんな場所です。

往復20キロという距離を前に、なかなか思い切りがつかず、家を出たのは14時ごろでした。

CPがあるその村と家の丁度あいだぐらいに、私の配属先があります。もしかしたら、道すがらちょっとした聞き取り調査をするかもしれないと、その斜め前にある文房具屋さんでペンと小さな領収書を買いました。なんで聞き取り調査に領収書なんだと思われたかもしれませんが、ちょっとした見積もりを取らないといけない用事があって、小さい領収書のフォームがちょうど欲しかったのです。そして、1冊買っても任期中に全部は使い切らないだろうと思い、何かメモすることがあったら裏紙を使えばいいや、という雑な発想です。

店のおじさんは私を見て「日本人なの?」と聞いてきました。一応ここは、県都ではあるものの、行政機関がいくつかあるだけで街の規模としては周辺の郡に勝てません。そして、定住していそうな外国人はほぼ見たことがありません。よって、この質問は、新しく訪ねる場所ならだいたい聞かれることです。

さて、「そう、日本人ですよ」と私が言うと、おじさんはなんだか「あぁ~~待ってました!!なんていうかもう、めっちゃ待ってました!!!」みたいなちょっとうっとりするような微笑みをこちらに向けて、「ເຈົ້າເຄີຍເປັນນັກສະແດງບໍ?(直訳すると俳優/女優やったことある?ですが、≒演技できる??みたいな感じでしょうか)」と聞いてきました。

いやいや無いよ、当たり前だけど無いよ。合唱団やコーラスアンサンブルに所属してた10代のころ、オペラに出させてもらう機会もあったけど、安易にそれを「ある!」とか言えない、どう展開するかわからんし、怖いし。

「なんで?」と聞くと、おじさんは「話を書いているんだ。」と。

「君は広島に原爆が落ちたことを知っているかい?」

真っ黒の車体に蛍光緑で「メルセデスベンツ」ってスペルミスたっぷりで書かれた自転車にから降りて、こんな自転車日和の涼しい日に汗だくでマスクを吸い込んだり膨らましたりしながら、前回赴任時から値札シールを貼りっぱなしの真っ白のいかしたヘルメットをかぶったまま入店し、「トンカツと唐揚げが食べたい」という男子高校生のような食欲を引っ提げて、往復20キロかけていざお肉を調達しにいかんとする中、ボールペン1本と領収書の代金60円をのせたカウンターごしに始まる話が、まさか「広島に原爆が落ちたこと」だなんて、誰が思ったでしょうか。



私がおじさんの話をすぐ理解できたのは、前回赴任時に先輩のイベントのヘルプをさせてもらって、原爆・戦争関連の単語が頭の片隅に残っていたからなのですが、私はおじさんのあまりに唐突な質問にしばらく固まってしまいました。

「もちろん知ってますよ。でもなぜ、広島のことと演技できるかどうかが関係あるの」と聞くと、おじさんは続けました。

実はね、話を書いているんだ。日本人にも見てもらいし、日本人にも参加してもらいたいと思っていてね。——よかったら奥でゆっくり話を聞いてくれないかい。

今日絶対お肉買いに行きたいんで手短におねしゃす、とは言わず、「もちろんです、お邪魔します」と店の奥に移動しました。

話を要約すると、おじさんは、ラオスと日本が戦後築いてきた絆をひとつの物語にしたいようでした。タイトルには「終戦」「愛」「燃え広がる」という言葉が入っているのですが、ちょっと単語の並びがよくわからない部分があって、訳すセンスがなさすぎて恥ずかしいのでそっとしておくことにします。

この物語の舞台は第二次世界大戦終戦後のラオス。日本人兵士が取り残されその場に潜伏した話はアジアのあちこちに残っていますが、このおじさんは、一人の日本人兵士がラオスのとある村、というかこの村に潜伏し、地元の人たちと信頼関係を深めながら過ごした生涯を描きたいんだとおっしゃっていました。そして、日本とラオスの友好を深めるための作品にするには、第二次世界大戦終戦を描くにあたって、広島という場所で起きたことについて触れないわけにはいかないんだ、と。

私は、おじさんがどういう理由でこの話を書いているのか、何がおじさんをそうさせるのか、色々聞きたいことがあったのですが、おじさんのほうから「長くなってしまったね、どこかに行く途中だったんだろう」と言って話を終わらせようとしてくれたので、「ええ、少し活動先を訪問しに・・・」とナチュラルに嘘をついて、最後にひとつだけ聞くことにしました。

「おじさんが、この話を通じて伝えたいのは、何ですか。」

おじさんはしばらく考えたあと、こう答えました。

「日本とラオスの”友好”だね。」

「それはつまり、国際的な”平和”を願っているということ?」

おじさんはまた、しばらく考えました。

私はね、平和というものが何なのかはまだ分かっていないんだよ。でも、国と国、個人と個人が協力しあって、助け合って、今より深い友好関係を築いたその先に、絶対あると思っているんだ。

私は、おじさんの言葉を忘れたくないと思って、小さな領収書の裏には書ききれない言葉を、汚い字で走り書きしました。勝手に貰った真っ白の印刷用紙に。

ちなみに、なんでこんなことを聞いたのかというと、つい最近読んだニュースが頭に残っていたからです。ラオス、バングラディシュ、ネパールの3か国が後発開発途上国を卒業し、開発途上国に仲間入りしたというニュースです。私は、こういう立場でラオスに来させてもらっていながら、恥ずかしながらこの2つの定義とか、具体的にどう違うかとか、この国連の決議が何を意味するかとか、そういうことをよく知りませんでした。

さらーっとネットで調べて、全体像のうち、あたためた牛乳の上にできる膜ぐらいを理解したあと、Facebookのニュースをもう一度見てみました。Facebook文化のラオスでは、各メディアがこれを「めでたいこと」として取り上げました。一方、コメント欄には、喜びの声とともに「まだラオスには他国からの支援が必要だ」「地方の暮らしは豊かではない」「コロナ渦で突然支援が減ったら心配だ」というような不安の声も多く書かれていました。

ラオスの社会構造上の問題や近隣国間の課題については今の立場・知識で言及するのは避けるとして、確かにラオスはまだ両手放しで喜べるほど豊かになったわけではないと思います。私の職種は、医療、教育といった国の基礎部分とは少し違う産業・経済分野の活動ですので、商工局職員(つまり公務員)や生産者グループのとりまとめ役、中小企業のトップの方との関りから活動が始まります。ですので、今日明日のご飯や寝床に困る人々に、日々の暮らしの中で出会うことはありません。教育を受けられない子ども、先進国だったら助かるはずの命・・・など、隊員の報告会で医療・教育分野の隊員の体験を聞くなかで、ようやくそれを感じられているような状態です。



一方で、任地に来るまでの首都生活についてはこちらに少しだけ書きましたが、コロナ渦で貧困に拍車がかかり、街中ですれ違うとき直感的に「怖い」と思ってしまう人は体感的に増えたように思います。

おじさんの話を聞いたあと、もう一度「ラオスの貧困」について考えてみたのですが、おじさんは、とても正しいことを言っているように感じました。綺麗事だと笑われるかもしれませんが、あのおじさんの考えが、日本とラオスだけじゃなくて、ラオス国内の、お隣さんとの話だったとしても、日本とラオスよりもっと遠い国だったとしても、きっとその先には同じところにたどり着けると思ったのです。

おじさんと過ごした数十分のなかで、私がもう一つ印象的だったのは、おじさんが広島のことを”敗戦のアイコン”ではなく”平和のシンボル”として捉えているところでした。負の遺産、たくさんの方が亡くなった場所、今も苦しんでいる方がおられる場所、でも、その分そこには、平和について考える時間が、平和への強い想いが集まっていはずだと、そんな風に考えるおじさんの気持ちが言葉のはしばしから伝わってきて、付け焼刃の語学力ですべての言葉を噛み締められないのがもどかしくなりました。

でも、おじさんのお店を出てまたメルセデスベンツに跨り、北のほうに向かって走り出したとき、私はどこまでも自転車を漕げる気がしました。このままバンビエンまで、カシの山道を超えてルアンパバーンまで行ってやろうかと思うぐらい、軽くペダルを漕ぎました。おじさんの言葉を思い出してちょっとだけ泣きそうになったのは、おじさんの壮大すぎるお話の舞台に日本を選んでくれたのと、待機中の語学レッスンのおかげでラオスの人と深い話ができるようになってたことに気づいたのと、おじさんが私をもう「友達」だと思ってくれている気がしたのと、そのいろんな嬉しさがあいまってのことでした。

そして、なんだか生産者さんが恋しくなって、お肉屋さんを通り過ぎた先にある生産者さんのお店に行ってしまいました。

夕方の突然の訪問でしたが、生産者さんはいつもみたいに、私を歓迎してくれました。

バタフライピーのお茶ができたのよお!持って帰りなさい!なんなら今から裏庭に摘みにいく?時間あるわよね?あ、そうそう、ナンバンカラスウリも食べごろなんだけど食べたことある?

ご飯と一緒に炊いたら美味しいから今から作りましょうね!その間に池のある庭まで行ってみる?コットンとっちゃう?マルベリーもいっぱい生ってるから持って帰るわよね?この大きな葉っぱをお皿にして好きなだけ摘んできなさい!パパイヤとバナナはどれがいいの好きなのもっていきなさいね!

と、お庭にあるすべてで私を歓迎してくれました。

私は、お肉をいっぱい入れるためにからっぽにしてきたリュックの中に生産者さんの歓迎の気持ちをぱんぱんに詰め込んで、入りきらない分は自転車のハンドル両方にぶらぶらと提げて、生産者さんのところを後にしました。

そのあとお肉屋さんに着いて、家まで100円でデリバリーしてくれるという神がかったサービスがあることを知り、4000円を超えるお肉、卵、牛乳を買い込んで帰路につきました。

いつもだったら18時には家の鍵を全て閉めて家に籠る私、夜道を自転車で走るのは初めてのことでした。村と村の間の人気の少ないところ、正直いうと少し怖くて、お願いだから今チェーン外れるなよおおおおと思いながら爆走したのですが、その隣を肉屋のバイクが私のお肉とともに颯爽と走り去っていくのが見えました。私はバイクのお尻を追いかけながら「お肉!!お肉!!!!!お肉が待っている!!!!」となんとかメンタルを保って家まで帰り、とんかつを作って、冷凍していたカレーのうえにドンッと盛って、もりもり食べました。

往復20キロ、うち半分は畑の宝物というウェイトハンデを背負って走って家に帰り、肉塊2㎏を処理してそれぞれ冷凍し、とんかつを作って・・・と、肉食べた過ぎる人間の執念はすごいなあと自分で感心しながら、ちょっとした小旅行を終えました。


・・・あ。そういえば、領収書とボールペン、使わなかったなあ。


翌日私は、貰った桑の実が痛まないうちにとラオカオ(ラオスの蒸留酒)を手に入れ、砂糖と一緒にことこと煮込んで桑の実のコンポートを作りました。少しだけもらってきた若い葉っぱは、天ぷらに。みんな、たくさんくれるんだもんなぁ。田舎・・っていうか、実家に居るみたいだよ、ここ実家かよ。ああ、私も何か育ててお返したいぐらいだ。

桑の実のコンポートにソーダを注いで飲みながら、この文を書きました。ラオスでの大切な1日を忘れないために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?