『和歌史』1

『和歌史』なぜ千年を越えて続いたか 渡部泰明 角川選書出版
 
 東京大学大学院人文社会系教授の渡部泰明は、本書の中で和歌をこう定義している。
「和歌は、現在の自分の理想への思いを表現するものだ。だから、現状に対して否定的なまなざしを注ぎ、基本的に衰亡や未完の状態を詠むことになる、と考えた。もし、この考えが正しいとすると、作者は現実でもなく理想でもない、ずいぶん中途半端な状態に立たざるを得ないことになる。あるいは、理想を抱えて現実を生きる、理想でもあり現実でもあるどっちつかずの時空にたゆたうといってもよい。ここに和歌の作者の居場所が、原理的に定められる。境界的な時空である。歌人は、境界に立っている」
 
 少し前に西行について様々なことを考えていたとき、西澤美仁上智大学文学部教授というよき導きをえた。そのとき、西行は自由闊達に境界を出入りする人だと理解したので、この一文は私の心を強く捉えた。
 境界は理想と現実にだけ限定されるものではない。水辺、橋、山の端、道、海、島、川、この世とあの世、生と死、今と昔など様々な形である。そして、渡部教授は本書で「境界型」の歌人に注目する。   
具体的には額田王、在原業平、紀貫之、小野小町、曾禰好忠、和泉式部、源俊頼、西行、京極為兼、香川景樹、などを列挙した。私は、これらの歌人の業績については一部のことしか知らない。和歌は好きだけれど、研究家でもなければ、和歌の勉強を続けてきたわけではない。私は、渡部の導きに従って、境界型歌人の業績を知ろうと思う。
 
 残念ながら、渡部教授が最初に取り上げた「成り代わって演じる」役割を果たしたという額田王については、私はあまり興味が湧かないが、私が好きな額田王の歌の一つが、三輪山に関するものなので、そこだけは書いておきたい。
 もちろん、天智天皇と天武天皇の間での額田王を巡る話は知っているが、あまり心が動かない話なので、私には関心が薄い人でしかない。
 
 境界と祈り
 額田王、近江の国に下る時に作る歌
 味酒うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際まに い隠るまで 道の隈くま い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放さけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや (万1-17)
 
 三輪の山は、奈良の山々の山間に隠れるまでも、道の曲り目が幾重にも重なるまでも、つくづくとよく見ながら行きたいのに。何度も眺めやりたい山なのに、無情にも、雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか。
 
 反歌
 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
(万葉集・巻一・一八)
 三輪山を、まあそんなふうに隠すものか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいだろうか。
 
 実は、この長歌と反歌を分解して解釈する渡辺教授の視点での解説があるのだが、長くなるし、私がわざわざ渡辺教授が書いたことを、丁寧になぞっても仕方がなく、意味もないことなので省略する。
 
 さて、この長歌と反歌には注が書いてある。
 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三和の山を御覧(みそこなは)す御歌なり」といふ。日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といふ。
 
 額田王がこの歌を詠んだのは近江遷都の時らしい。旧都との別れを演じ、人々の嘆きを表した。奈良の都から近江の地へ。懐かしむべき土地との境界から、新しい土地との境界にすっと入るための和歌だったのかも知れない。
『日本書紀』にはこの長歌と反歌は、天智天皇の作と記載してあるという。そして、これらは近江遷都の際に詠まれた。それらの矛盾点を考察して、額田王は天智天皇の立場で代作したということになろうか。『万葉集』は、実質的作者の額田王の作品として取り上げたのだろうという解釈が成立する。
奈良の都から遠く離れた滋賀の大津京への遷都は、大移動であり、数多の人々の不満もあったのだろうか。それを慰撫するために額田王は、これらの歌を天智天皇作として詠んだ。境界・祈り・演技という視点から、額田王の歌を解釈する渡辺教授の解釈は、無理がないすんなりとした解釈であろう。

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