ことわざ「苦あれば楽あり」のもうひとつの意味:不幸せと幸せの自己認識

今日、私は日々の暮らしを通して、とある諺のもうひとつの意味に気がついた。

とある道の駅で昼食をとったのだが、そこの味噌汁が具沢山で、とても美味しかったことに感動した。
ここでは「具沢山味噌汁」とする。

では、なぜこんなに美味しいのかというと、それは普段は学生食堂のワカメとモヤシしか入っていない味噌汁を飲んでいるからだと気づいた。
ここでは「薄い味噌汁」とする。

私が道の駅の「具沢山味噌汁」という幸せを認識するためには、学生食堂の「薄い味噌汁」を飲み続けるという体験が下地になっている。
なぜなら、普段から学生食堂で「具沢山味噌汁」を飲んでいたのであれば、道の駅の「具沢山味噌汁」は「いつもと変わらない味噌汁」であって、幸せではないからである。

さらに、私が道の駅の「具沢山味噌汁」という幸せを認識したことによって、学生食堂の「薄い味噌汁」は不幸せ、少なくとも幸せではないものになってしまった。
これは驚くべき認識の変化である。これまでの私は、学生食堂の「薄い味噌汁」は幸せでも不幸せでもないものであり、ただそこにある「普通の味噌汁」であった。

今日の体験を一言でいえば「幸せを認識したことで、不幸せを認識した」のである。
「楽あれば苦あり」である。
今日の体験を一言でいえば「(認識できない)不幸せの体験があったからこそ、幸せを認識できた」のである。あるいは、私ではない誰か、普段から学生食堂の「薄い味噌汁」をまずいと思っている人にとっては、やはり道の駅の「具沢山味噌汁」は幸せなのである。
「苦あれば楽あり」である。

一般的にこの諺は「苦労することがあれば、その後は楽をすることがある。また、苦労は必ず安楽となって報われる」という意味である(「苦あれば楽あり」『故事俗信ことわざ大辞典』小学館)。
つまり、人生の悲喜こもごもを、時の流れのなかで捉えることで、苦楽のとどまることのない無常さを持ち出し、対象者を励ましたり、戒めたりする。

しかし、今日の経験からいえば、この一般論は絶対ではない。
この諺は「苦を認識すれば、認識した時点で楽を想定できる。また、楽を認識すれば、認識した時点で苦を想定できる」という意味であろう。

つまり、苦楽(不幸せ・幸せ)とは、表裏一体で、恣意的で、相対的であるということである。それは苦楽(不幸せ・幸せ)とは、どこまでも自己認識の産物であるということである。
認識以前から認識時点までの、自分の持っていた苦楽(不幸せ・幸せ)に対する捉え方を自覚的に知ること、そして、自分の置かれている状況を自覚的に知ることである。

自分にとって何が不幸せで、何が幸せなのか。
それを内省できる瞬間とは「今、私は不幸せだ」「今、私は幸せだ」と感じた瞬間である。

当然のことを述べているようにも思えるが、苦楽とその認識に対して自覚的であれば、未来の言動をよりよい方向に変えていけるのではないだろうか。

まずは知ることである。よりよく生きることは、知ることのあとにある。

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