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生産性と人間性をめぐる回顧

相模原障害者施設殺傷事件から7年が経った。
福祉施設の入居者19名が刺殺される痛ましい事件だったけれど、「生産性」がなければ人権を認められないのだという、この事件の被告に通じる発言をする政治家も、特に変わる様子もなくたびたび失言で話題になる、繰り返しの日々だ。

クローズ派遣社員

7年前、私は虎の門にある大手商社の関連会社で派遣社員をやっていた。ミスの起こりやすい業務設計や効率の悪いシステムを、無理やりマンパワーで回していく世界に適応できず、私はよく上司に叱られていた。上司は「根性」があり仕事もできるひとだった。彼は「眠くなるから」という理由で、毎日ランチにおにぎり一つと魚肉ソーセージしか食べずに働いていた。
 
九州の支社で上司が部下を殴り飛ばして傷害事件になった、東北の支社で上司が女性の使ったコップを舐めまわした、コンプライアンス委員会の回覧には今週も目を疑うような文章が並ぶ。雑談の一つも許されない環境で、キツい仕事に黙々と取り組みながら、そんな話題に接するのが日常だった。
 
上司はよく他の社員に、「あいつは学歴だけで無能で、あいつは病気で使えなくて」と吐き散らしていたけれど、優しくて仕事のできるひとだと思われていたし、私もそう思っていたので、そういう言葉を聞くたびに自分が言われているかのように傷ついた。
そんな折、あの事件は起きた。
 
ミスをするのは後遺症の「認知機能障害」のせいだ、隠している病気のせいなんだ、私は学歴だけで役立たずなんだ、とどんどん自信を失っていき、うつ状態になった。毎昼喫茶店で大きなアイスクリームを食べ、毎晩下戸のくせに寝酒を2〜3合飲みながら、10kg痩せた。

稲尾さん

職場には稲尾さんという縁故採用の女性がいた。コピー機の紙の補充がうまくできず、私含む他の女性が教えようとしても意地になって聞かず、私のあら捜しをし、エクセルファイルを壊し、与えられた作業を「できない」とも「やりたくない」とも言わずにただやらず、必死の形相で電卓を空打ちして一日が終わるひとだった。彼女はストレス性のぜんそくのようなものがあると訴え、電卓を空打ちしながら、空咳をしていた。いつも辛そうに電卓と戦っていた。
部署内で唯一の同性だった私は、腫れ物の彼女に仕事をさせる役割を、それとなく押し付けられた(こういうことがよくある人生だ)。そしてそれは失敗に終わり、彼女は解雇されると内々に告げられた。
 
どうして私は会社に行くんだろう。生きていくのにお金が必要だから、だとしか思えなかった。だとしたら、なんのために生きているんだろう。答えは見つからなかった。
どうして稲尾さんは電卓を叩き傷つきながらここにいなければならなかったんだろう。
おそらく私と同じ理由だ。お金がないと生きられないから。
そしてここには役に立つ人間しかいてはいけないのだ。 

ひとり芝居のおじさん

毎朝通勤で虎の門交差点を通るとき、いつも「Article9」と手書きしたTシャツを着て、朗々とエモーショナルなひとり芝居をしているおじさんがいた。
憲法9条にまつわるなにかを訴えようとしている、のだと思うのだけれど、いつ聞いてもなにを言っているのかさっぱり聞き取れなかった。
スーツ姿の企業戦士や霞が関の役人の群れが、蟻の行列のように彼を触れてはいけない障害物のように避けて、交差点を通り過ぎていくのを、毎日見ていた。
 
おじさんは普段なにをしているひとなのかな。眠りにつくあたたかな場所はあるのかな。いつも不思議だった。
交わらないスーツの群れと彼を見比べて、私もおじさんの方に行った方がいいのではないかと、ぼんやり思ったりした。
 
「役に立たなければならない」
 
それはつまり、当時の私の日常にありふれたステイトメントだった。

「役に立たなければどうして存在していいかわからない」という感覚

事件の全貌が明らかになるにつれ、私はさらに「植松被告の少なくとも一部分は、私の中にもいる」と思い至り、身悶えした。
 
脳のいろいろな機能がダウンして、両親に生かされていることしかできなかった時期があった。
「今は休んでいなさい」「ぼーっとしていればいいんだよ」と両親から言われるも、私には意識がある状態でただぼんやりしている、ということが耐えられなかった。
何もできない、誰の何の役にも立っていない、治るかもわからない、生きていけない、焦りと不安。経験したことのないひとにとっては想像を絶するような、壮絶な病の生々しい記憶。意識がある間中それらに苛まれ、昼間から布団にくるまってばかりいた。
それ以外の時間は、タバコを吸っているか、縋るように編み物をしていた。目の数を声に出しつつ、間違えては戻りつつ、必死で編み物をしていた。「なにかしている自分」「なにかができる自分」を必死に求めていた。
それがなければどう存在していいかわからなかった。
 
そうやって周りに「焦るな」とブレーキをかけられながら、「ひとの役に立つこと」を探して必死に動き続けて私は回復していったのだけれど、それは「なんの役にも立たない自分」を全力で否定する力で成し遂げたことだったのかもしれないと、気づいた。
私の中の植松被告が、無力な私を殺したのかもしれない、と。

例えばそれが才能だとして

 あれから間もなく私はその会社を辞めて、転職先の企業で今は古株だ。努力はした、とは思う。けれど、自分は普通の人間ほどにはできないことがあるのだ、と、正直に伝えられるようになった。それを受け入れてくれる風土の職場を選び、それでも仕事が回る考え方を身につけた。それはできないことができるようになることより、ずっと大きな財産で、自分だけでなく大切な人をより大切にする技術でもあった。
 何かができる、それを通して人の役に立つことができる、確かにそれは才能だけれど、ここでひとつのアイデアにたどり着く。何かができない、ということも、才能なのだと。
 何かができない、だからできる形になるよう、あるいはシンプルにやらずに済むよう考える。つまりできないことは工夫やイノベーションの種で、もっと言えば、それは人類の挑戦すべき課題、なのだ。それには、できない、を、正面から見なければならない。
 
 仕事をクビになって、稲尾さんは今どうしているだろう。電卓をデタラメに叩きながら、ときどき、インターネットで公園のサイトをぼんやり見ていたのを知っている。彼女の人生の続きが晴れた日の公園のように、安らかであることを思う。
 それは個人の単位で見れば、金がないから稼がなければならない、ということかもしれない、けれど、金を産む仕事だけが人の身体や命のすることではない。究極、何もしなくてもいいのだ。ただひとつの命が幸福に食事をし排便をし眠り存在しているだけで、それは隣り合う命の幸福に繋がるのだ。公園で昼寝をしている人がいる、それだけでその人は世界に幸福を少し増やしている。
 Excelが使えなくても、ひとり芝居が聞き取れなくても、たとえ、歩けなくても、言葉が話せなくても。世界の幸福の総量を増やす種を、皆それぞれに持っている。課題は無数にある。けれど、私はそう信じている。


久々のnote更新。今年はまとまったテキストを、デジタル/フィジカルで外に出して行こうと思っている。デジタルはnoteで更新していくので、読んでいただければ幸い。

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