キャベツをのこしてやった|短編小説
父が死んだ。
4日前、仕事から帰ると自宅で昏睡状態となっている父を発見した。急いで救急隊を呼んだ。
「大丈夫ですか!分かりますか!」と必死の呼びかけも虚しくピクリともしない父を見て、ああ、手遅れだと悟った。
近くには、5リットルもある大容量の「大五郎」が空になって横たわっていた。
搬送中の救急車の中で父についてあれこれ伝えると、急性アルコール中毒という結論に達した。寝台に寝かされる父の顔色は、土気色。そこに黄色が混ざりあったような見慣れた色をしている。
しかし、初めて父の顔を目にする若い男性の隊員はぎょっとして、それからどこか腑に落ちたリアクションを取っていた。とっくの昔に父の肝機能は停止していたらしかった。私はずっと死人の顔をした父と過ごしていた。
裏手から入った総合病院の緊急治療室で、医師が臨終を言い渡す。52歳という若さだった。
務めていた鉄道会社をふいに退社した父は、昼間から酒に浸る日々を過ごしていた。つい1年前に母がなくなり自暴自棄になった父を、私は咎めることができなかった。
職場から「倉橋さん、ゆっくり休んでね」と長めの忌引をもらって、葬儀の準備に取り掛かった。おばの朋子さんだけが真珠の数珠をもってやってきてくれた。
父と私の関係者は朋子さんくらいで、ほかは誰もやってこなかった。酒浸りの父にも、辛気臭い顔をする私にも、進んで近づくものもいなかった。葬儀場の待機室がやけに広く感じる。テーブル中央の茶菓子に手をつける人もいないので、次にこの部屋で待機する喪主さんがそのまま利用できそうな具合だった。
天涯孤独の身となった私を憐れんでか、しきりにお坊さんが「希望を捨ててはいけない」とか話を聴かせてくれて、朋子おばさんも私の肩に手を添えながら、うんうんと、私の心を代弁するように頷いてくれていた。
だが、実際にはお坊さんの話も、朋子おばさんの代弁も、ぜんぜん的外れで私の左の耳に入っては右に抜けていった。
父とは、実家の平屋で二人暮らしだった。むりやり増築した不格好な間取りになっていて、父と二人暮らしの期間は特に持て余した。将来は、家族三世帯で暮らすんだと父は息巻いていたが、私にそういった縁談はなかったから、きっと父は私を憎んでいたのだろう。
厳格な父だった。米粒のひとつでも残したら、叩かれた。背中をしゃんと伸ばせ。世間は弱者に甘くないぞ。
もともとアルコールに溺れる前から、作法には厳しかった。私が叩かれるたび、母はおろおろとしていた。そんな母を心配させまいと、父の言うことを骨の髄まで染み込ませるように守った。亭主関白を絵に書いたような家庭だったと思う。父が「嫁ぐまでは実家にいなさい」と言い、私は当然「はい」と答えた。
葬儀を終え、自宅で布団に入る。気持ちがざわざわして寝付けなかった。しかし、体は疲れていたのか寝入った記憶がないまま、差し込む朝日を目にした。父がいなくなって、更に広くなった平屋は、部屋の奥や廊下にまで日の光が届かない造りをしている。私の気持ちを察したみたいに、暗がりがどこまでもその陰を伸ばしていた。
いつもは「メシは女が作れ」と父の教えに従ってに朝食を作っていたが、自分で作る気がまったく起きずにいた。心労と体の怠さがひどい。なにげなく外に出た。朝食を食べずに家を出たのは初めてのことで、なんだか体に力が入らずふらふらした。
近くの吉野家が目につき、吸い込まれるように入店してから、券売機の前でやや慌てた。見慣れない「朝メニュー」をタッチして、朝牛定食を選ぶ。券売機から「03番」と印字されたチケットと、お釣りがジャラジャラと無造作に放られる。店内の時計は5時45分をさしている。私の他に客はいなかった。
すぐに注文番号がよばれて、朝牛定食を受け取りにいった。
千切りのキャベツときゅうりのサラダ、小鉢によそられた牛肉と飴色の玉ねぎ、納豆と、ホカホカのご飯。お味噌汁。
少食の私には量が多くて食べきるのに苦心した。でも、食べ切らなければ、父に叩かれると思い、少しづつ、背筋を伸ばしながら平静を装って食べた。
それから、父が5日前に亡くなっていることに気付いてハッとした。
箸をとめて手につけている定食を見やる。
キャベツが二口分くらい残っていた。ほかは空だった。
しばらく、そのキャベツを見つめてから、箸を置いた。
そのまま厨房の返却口に置いて、「ごちそうさまでした」と一声かける。
定員の返答も聞かないまま飛び出すような勢いで店をでて、帰路についた。建付けの悪い玄関を勢いよく開けて、靴を脱ぎ捨てて揃えることなく、それから大声で笑いながら廊下を駆けた。
キャベツをのこしてやった。あはは、キャベツをのこしてやった!
狂ったように笑った。ドタドタと踊りながら笑った。キャベツを残したが、叩かれなかった。怒鳴られなかった。平屋は私を黙ったまま見つめていた。「大五郎」を買ってこいと命令する父もいない、グズが、と罵る父もいない。母との思い出話と、そのたびに比べられる私も、もう居ない。
天涯孤独となった私を、平屋は静寂をもって包んでくれた。不気味な暗がりもなかった。居間に居座る父もいなかった。
それから、ピタッと立ち止まって、泣いた。
うずくまって、まるまって、泣いた。
父がいなくなってしまった。
ああ、あの厳格だった父が、もう私にあれこれ道を示してくれることもなくなった。途端に自分がもう何も出来ない生き物になってしまった。これまで躾けられてきた体は、父という頭脳にも等しい命令機関がなければてんで動きやしないのだ。
物心ついた頃から刷り込まれた掟をたった二口のキャベツで破ってしまった自分の不誠実さが、突然恐ろしいものに感じた。さっきまでゲタゲタと笑っていた自分が何者なのか、もしかしたら今もそいつは、この平屋の暗がりに潜んでいるのではないか。そう思うと父より恐ろしかった。
しばらく、胎児のような格好で床に寝転がり、冷静を待った。先程の笑い狂っていた女が自分だと分かり、極度の開放感と、その後に訪れた反動に身悶えした。
二口のキャベツは、ただの始まりにすぎない。これから、私はたくさんの「教え」を破り、そのたびに父の存在を頭の端から消していくのだろう。いかんせん強すぎる反動だ。この先何度も襲ってくると想像しただけで、心がきつく絞られる。吐きそうになる。
キャベツなどというささやかな抵抗しかできない自分に呆れてしまう。もっと、海に行くとか、都会にでて買い物三昧とか、ドラマで見るような開放感に満たされるのかと想像をしていた。しかし実際は、父の教えを背いてしまったことに戸惑うばかりだった。父が、まだ私の体のどこかにいると確信する。とても根気のいる作業だと思った。
でも、私はきっと変わる。私は父から離れる。父は死んだけど、私の体に刻まれた父もいずれ死ぬ時がくる。そしたら、私は心から笑えるのだろうか。
キャベツをのこしてやった。
キャベツをのこしてやった。
そう自分に言い聞かせながら、今日も私は平屋で生きている。
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