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映画再解釈|「最強のふたり(原題:Intouchables)」で最強だったコト。

こんにちわ、ねこぐらしです。本日はAI二回行動です。

ということで、ドン。


前回の記事で触れた「最強のふたり(原題:Intouchables)」のレビューをしてみましょう。





さて、まずはどんな映画か説明を。AI君。

はい、わかりました。2012年に公開されたフランス映画「最強のふたり(原題:Intouchables)」についてご説明いたします。
この映画は、身体障害者の富豪フィリップと、その介護人として雇われた黒人青年ドリスの友情を描いた感動的なコメディドラマです。
この映画の制作経緯ですが、もともと2001年に出版された同名の仏国のベストセラー小説が原作です。制作・主演を務めたエリック・トレダノとフランソワ・クルーゾーは、この小説に感銘を受け、10年近く映画化に向けて熱心に交渉を重ねました。
主要キャストには当時無名の俳優を起用しましたが、自然な演技と人種を超えた友情ドラマが国内外から高く評価され、世界的な大ヒットとなりました。
日本でも2013年に公開され、興行収入83億円の大ヒット。社会派とコメディの調和が日本の観客にも響いたのでしょう。多くの映画賞を受賞するなど、フランスを代表する感動映画となりました。

Claude2

ありがとう。
AIにも人権が認めらそうな時代なので、ちゃんと感謝の気持ちも伝えてみてます。
あんまり実感はないけど。


さて、まずですがジャンルについて、ひとつだけ。

コメディ・ドラマで片付けるのはあまりに勿体ない作品です。Watch Out!


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原題:Intouchables。


私達の聞き馴染んだ言葉で訳すなら「アンタッチャブル」
触れられない、関わりの無い、といった意味合い。

生粋のフランス人であるフィリップと、セネガル系移民であるドリス。
本来アンタッチャブルな関係である二人の心の交流が描かれる作品です。

互いの文化圏、貧困層と富裕層、音楽(クラシックとR&B)、絵画とタバコ、健常者と障害者、年齢、人種、なにもかも関わり合いがない。

まるでねじれの位置の両者。

ですが、セネガル系移民のドリスは、こういったねじれを認識していません。

最初から無知のヴェールに包まれている。

人を肩書で見ない。経験や背景からは考えない。同じ血と肉を持ったブラザーとして接する。

フィリップはほぼ全身麻痺のいわゆる障害者。

ドリスは彼のことを”障害者”として扱いません。
うっかり普通の人にするよう接してしまう。(手が使えないのに、電話を手渡そうとしたり、とんでもないブラックジョークをかましたり。


そんなドリスの家庭は複雑そのもの。
どこか一夫多妻制感のあるビッグダディ的な家庭。
大勢の子供と義兄弟、そして複数の母親の存在を感じさせる。

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不思議な印象を受けるのですが、映画で書かれるアフリカ系の家族って、なんというかファミリー感ないんですよね。

だいの大人が子供にマジギレしたり、子供も全力で逆らったり、夫婦間でも歯に衣きせぬ言い合い。

すみません、完全に偏見です。
ですがそういった描かれ方が多いこと多いこと。

これは、対等/同志の精神が彼らに内在しているからな気がします。

試しにこの精神を

ブラザースピリッツ(仮)


とでも名付けてみましょうか。


まずは歴史から考えてみましょう。

1863年奴隷解放宣言が公表されて以降、アフリカ系国家の独立が認められたのは1950年代。

1世紀近く、戦後統治下、植民地生活の苦難を強いられてきました。
この時代が長かったからこそ、民族全体を”同志”と捉え団結してきた。
家と家、その境目を限りなく薄く薄く。互いの生活様式がだんだんと融合していき、助け合いの文化が生まれた。
これこそがブラザースピリット。誰も彼もを共同体の一員として扱う。
一夫多妻制なども、この歴史と深く関わっています。

作中のドリスは、誰に対してもありのままで振る舞う。
一見すれば乱暴で粗雑でデリカシーがないけれど、それはフランス文化圏で過ごす人のリテラシーと一致しないだけで、彼には彼なりのリテラシーで行動を起こしている。

この映画には、そういった民族間のギャップが演出として扱われている。
無自覚のイデオロギーを自覚させられるのです。

結果、その食い違いで「笑い」が発生するのですが、ここに恐ろしいほど様々なメッセージ性の込められている。そう認識してみるとこの映画をより一層楽しめる。

よく観察すれば「コメディの皮をかぶった現代へのアンチテーゼ」が随所に散りばめられている。しかし、ハッキリ問題定義せずとも、世界共通の笑いに昇華してしまっているのが、いかにトンデモナイ偉業か…。監督は天才ですね。

私は4回ほど試聴しましたが、数を重ねるほど、笑うより思考する時間のほうが相対的に増えていきました。
この空気感はどういうことだろう?とか。
この時なんでBGMクラシックなんだろう?とか。

このあたり文化のギャップについては、文化人類学者の小川さやか先生が話していた内容につながるものがあると感じました。
実際にアフリカ圏で長く生活をされ『ローカルな文化人類学』を研究されている方です。
朗らかな人でついついお話にのめり込んでしまいます。参考までに。


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フランスはアルジェリア系やセネガル系難民受入について、深刻な社会問題を抱えています。社会経済格差やイスラム文化への配慮や整備について、対応を迫られているのです。

映画で題材になっていたドリス(セネガル系難民)は2000年頃からの移民。本人だけでなく、その2世3世の扱いも非常に難しい。ルッキズムによる就職格差という、それこそフランスのアンタッチャブルな問題に、まさにドリスは直面しているのです。

映画では、その問題を隠すことなく、ありのままに描いている。

ドリスに向けられる視線は、残酷なほど現実的なものばかり。


「乱暴なやつ」
「何をしでかすかわからん」
「関わるのはやめておけ」

ドリスを雇ったフィリップは、様々な人から忠告を受ける。

ドリスの底抜けの明るさが中和させてはいますが、この問題の根深さは計り知れません。これらの忠告は、ある意味でフランス保守派閥の態度そのものなのです。


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冒頭20分くらいの象徴的なシーン


ドリスがふらりと立ち寄った近所のたまり場で、「ブラザー達」シケモクやポテトをシェアするシーンがあります。ごく短いシーンで尺は1分30秒程度。

全員、直接の関係はないでしょう。たまたまそこに居合わせただけです。ですが、まるで親友と再会した時くらい笑い合っている。

おそらく、全員社会への適合がうまく行かず、評価するなら「うだつのあがらない人々」。ただ内側に眠るブラザースピリッツだけが、彼らをつなぐキズナです。

その中にひとりだけ、あきらかなフランス系の男がいるのです。
ポテトやシケモクを和気あいあいとシェアしあう中で、フランス系の男だけは遠巻きに佇み「いや、あとでいい」と否定する。

すると「おい、あとでいいらしいぞ、残しておけよ」と爆速で減っているポテトのつまみ食いが、驚異的なモラルで押し止められるのです。

フランス人の男は本当にいらなそうな顔をしていました。
いや、本当にいらなかったのでしょう。そういう言い方になっただけです。彼だけシケモクもシェアではなく、自分で用意したタバコを吸っていた気がします。

ブラザースピリッツはすべての人間が対象なのですが
作中のフランス人は誰も警戒を解いていない。


最もドリスと距離の近かったフィリップ、その屋敷の同僚であるマガリー、イヴォンヌなどは、彼のブラザースピリッツに心を開き、親友のような態度を見せています。しかし、それも多くの時間と対話が必要でした。

権威や立場が、価値につながる時代。現代でいえば経済的関心(アテンション・エコノミー)の高さがまるで、その人の資本価値に感じられる時代ではあります。

だからこそ、全てを平等に扱うブラザースピリッツを、私達も見習うべきではないか、と思わずにはいられません。

にしても、このたまり場のシーン。
未だ、ここに触れている他のレビューをみたことがありません。
めちゃくちゃいいシーンなのでぜひぜひ。

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アンタッチャブルな二人の関係は、小粋なジョークで急速に接近していきます。
しかし、そのジョークは、一方の価値観からすれば恐ろしくアンタッチャブルなジョークなのです。

一番ひどいのは「このチョコは〇〇用だ」の下り。


現代で発言しようものなら、真っ先に吊るされてしまう。燃やされてしまう。
とても文章にはおこせません…笑(気になる方は是非ご視聴ください!)

しかしドリスは最高のジョークだと、満面の笑みで発言するのです。悪意も偏見も何もない。ただ彼にとってこの事実がおもしろおかしくてしょうがなかった。
彼はユーモアの持ち主でした。それもイデオロギーに支配されない、ネイチャーなユーモアとでもいいましょうか。おかしいと思うことはおかしいと主張する、まったくもって正しい人間なのです。


アンタッチャブルの積み重ねが、やがて二人の心の核となる部分が繋がっていく。かれらはねじれの位置にありながら、心が密接に重なるのです。

物語終盤、ドリスとフィリップは、一時的に離れ離れになる。
陽気なドリスを失ったフィリップの憔悴具合は、目を覆いたくなるものです。アンタッチャブルに触れ続けたがゆえ、アンタッチャブルを侵さない世界のつまらなさや、退屈さにうんざりしてしまうのです。

果たしてこの世界に「触れてはならない事」って、本当に在るのでしょうか?

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この先はネタバレになるし、なによりもみなさんの経験的機会を奪ってしまう。
見て、聞いて、感じて、続きはぜひご自身の目で確かめてみてください。(え、どこかで聞いたような・・・????



映画を再解釈するということ。


8年ほど前でしょうか、この映画をはじめてTSUTAYAで借りて試聴した時は、ひたすら笑っていた記憶が強かった。
「心温まる作品だな~」という印象だけが、私の中に残っていました。


今あらためて見る。
するとこんなにも受け取り方が変わっている。

映画を「再解釈」すると、自身の思考の変化が垣間見れる。
これは面白い気付きでもありました。


同じ映画を2度3度見ることは「タイパが悪い」でしょうか?
おそらく首を縦に振る人は多いかもしれない。

ですが、コンテンツを次から次へと消費するのでなく、解釈の形を変え、思考の変化を観察し、再解釈していく

それこそこの生成AI時代に、人が人として生きていく為に必要な事ではないかなぁと。漠然と思うのです。


このあたりは、現代哲学者の東浩紀さんの著書「訂正する力」でも、共通する記述が多かった気がしますね。こちらの著書も最高でした。どこか別の機会に紹介記事、書きたいですね。


再解釈する、といった思考はハードルが高いように思えます。

ですが、ポピュラリティに寄った「映画」は、その入り口としてとてもよい題材である気がします。個人的に、自身の変化を実感するために最適なテーマこそ「映画」のような気がします。
映画の可能性すごい。作品は、まさに自分の心に住み着いているのです。

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ということで、駆け足でしたが、以上です。

あらためて、「最強」の映画なのでぜひぜひ。
堅苦しく書きましたが、ところどころ爆笑できるちゃんとしたコメディ映画です!

肩の力を抜いて見てみることをおすすめします!
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