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4/25~5/1

日曜日

これでIOC会長来日に合わせて本当に緊急事態宣言を解除をするなんてことになったら、どうしてやろう。
都内のシネコンは今日から休館、ロサは開いていたので『14歳の栞』を見に行くも満席、考えることはみな同じか、Fuzkueも初台は予約で埋まっていた。もうしばらく阿久津さんの読書日記を読めていないけど、繁盛していてほしい。
本屋すら閉まるかもしれないと噂されてすぐに買い込んだ『ことばとvol.2演劇』『「ガロ」に人生を捧げた男』『世界を物語として生きるために』がリュックにあって、それらを読みたかった。しかし週末のくぐつ草は満席、吉祥寺はいつも通りの賑わい。
駅に戻って左折、西荻窪方面へ歩く。二人とも傘をもっていなくて、予報だとそろそろ降り始める時間、本が読みたいのに散歩しながら檸檬堂を飲んでいる、方向性のない日曜。
どんぐり舎も満席、物豆奇はちょうどよく入れた。『放課後ソーダ日和』の1話、『少女邂逅』の保紫萌香とモトーラ世理奈がゲスト出演していた回に出てきた店だとすぐに気づく。

一度見た景色の記憶力には自信がある、この前霜降りANNでせいやが自分の記憶力を「とくい技」といって粗品にキモがられていたけど、とくい技って感じがしっくりくる。
初めてせいやの感覚に親近感を覚えたのは、「いいともグランドフィナーレ」一人再現ネタで、中居くんの「一回整理しよう!」くらいが会話の最大公約数としてちょうどいいと踏んでいた自分の上空をいく感じがよかった、そうそれこそがイニミニ。同世代として面白い感覚が同じお笑い芸人の登場は、自転車に乗れるようになったり、ビールを美味しいと思うようになったりしたときと同じような、気づいたときにはクリアできているご褒美みたいだ。
中田敦彦のプレゼンやDaigoの立ちトークみたいなものまで、世代の流行りにはどんどん触れていく思想なき強欲さみたいなのもむしろ気持ちいい、もしかしたら昔の若者がとんねるずに感じたものに近いのかもしれない。決して共感ではなくて、幅広いレンジに自分も含まれてる可笑しさみたいな。
午前中、つげ義春『ねじ式』をちくま文庫で読んだので、『「ガロ」に人生を捧げた男』から読んだ。

月曜日 「AUN~コンビ大喜利トーナメントライブ~」

QJとWLUCK主催「AUN~コンビ大喜利トーナメントライブ~」第2回をアーカイブ視聴。
大喜利パートは、ダイヤモンドのフラットなトーン、森本&寺田コンビの連携、カナメストーンの賑やかしが面白い。AUNならではの登場時かまし選手権は、ツートップと言っていいい真空ジェシカとAマッソのマッチメイクが今回も見られて嬉しかった。

Aマッソの下ネタを放り込む姿勢にさらば青春の光が重なる瞬間があった。東ブクロの一件以降、さらばがブッキングされていた仕事2件回ってきたという加納さんのトークも思い出す。知らないうちに楽屋で加納さんにウッチャンのお面をパクられた国崎が、ナンチャンからナンチャンにしかなれないのも面白かった。
決勝戦のママタルト対真空ジェシカはきちんと白熱して大喜利ライブの着地になっていた。好きなコンビ同士(ママタルトはまだ檜原さんを注視してしまうのだけど)の対戦は楽しい、野球だったらどっちのユニフォームを着るかすごく悩むはず。大鶴肥満の「ネスカフェ・ガンギマリ・ブレンド」がハイライト。

知らない、多分知ってる、劇団主催者のツイキャスをなんとなく見ていた。なんだかんだ月2回くらいは芝居を見に行けている遅れた実感を振り返ってると、予定していた次の二公演が立て続けに中止を発表した。
コンプソンズだって一年の延期を経た公演だった、いつか見れるとは思うけど、そういう事じゃなさすぎる。中止発表でよく「突然ですみません」や「申し訳ありません」の言葉を見るが、言わなくていいと毎回思う。だけど、発表する人の気持ちを考えると、ついつい出てきてしまうものなのかもしれない。意志決定と責任感は別口でいいと、タバコを吸いながらツイキャスを見てる程度の側からしか言えないのだけど。本気でいる人から出てくる言葉は理屈を超えるのに、それが謝罪の形になってしまう状況がウザ過ぎる。高田ぽる子のネタをたくさん見て寝た。


火曜日 「大豆田とわ子と3人の元夫」

赤坂見附にある佐藤養助の稲庭うどんがとても美味しかった。平日夜や週末は近隣の水商売に務める人たちがつける香水の匂いがすごいらしい、六本木のつるとんたんみたいなものか。
最近仕事の負荷が広がってきて、週末を目指す過ごし方になっている。こうなると時間が過ぎる感覚も早さを増して、休み明けにままならなくなるので理想的ではない。

連休はfuzkueに行って、Titleで西村ツチカの展示を見たい。買い物もしたいし、溜まった日記とアララの更新もやっておきたい。「マヂラブno寄席」から始まった今年の面白かったものも振り返りたい気持ちもある。
そんなこと考えられるのは、会社からの帰りに一駅歩く時間だけだ、露天風呂に入らなくてもこの時間があればたいていの考え事は済む。家に帰れば消費活動ルーティーンに取り込まれるから、何か形に残せるのは上司のいない午前中だけだ。
かたまりに彼女ができたらしい。放送に乗らないコミュニケーションや、関係性の先に展開された会話とはわかるのだけど、相方にちょっかい出すノリがキツかった。彼女ができたことを隠すにしては無理がある話しぶりになっているお前が悪いのであって、そんなスタンスでいくなら隠さず話しなさい、そう論じるもぐらの手腕には毎度関心するが、本当に嘘をつけないかたまりの不器用さを本当にバカバカしいものと思えるのは、自分の精神状態が安定していないからだ。そんなことも引いたプルタブとともに放り捨てたい。

ようやく1話を見た『大豆田とわ子と3人の元夫』なんて心地いいドラマだ。あんな風に「ヤホ」や「グッモー」を言える男になりたい。松たか子の「ウェッ」とした表情を毎週見たい。

まぁ色々あるさ
色々だよ
どっちか全部ってことはないでしょ
楽しいまま不安 不安なまま楽しい

2010年以降の坂元作品を雑にまとめてしまえば、“オシャレじゃない人々”を描いていたように思う。社会に搾取され、生きづらさを湛えた人々。しかし、今作の登場人物は建設会社の社長である大豆田とわ子をはじめとして、レストランオーナー、カメラマン、弁護士といったお金に余裕があり、奥渋谷といった東京の中でも感度(と家賃)の高い街に住む人々。センス溢れる服やインテリアに囲まれて暮らしている。坂元裕二のキャリアの出発点であるトレンディドラマ時代へ行き戻るかのようだが、“生きづらさ”がデフォルトと化した現代において、エンターテイメントが提示すべきものは憧れや豊かさであるのかもしれない。

現在進行形の作品を見ながら、ヒコさんの「青春ゾンビ」を読める嬉しさ。

水曜日

少し曇り空で気温はそこまで高くないのだけど、湿度が少し存在感を増しているので初夏っぽい匂いがそこら中に広がっている。

今日も『大豆田とわ子』を見ている。
「僕昔吹奏楽部にいてさ」
「ヌンチャクですか?」
「いやヌンチャクは楽器じゃないと思うよ」
「大福の粉ついてますよ」
「ついてないよ、大福食べてないからね」


木曜日 『ODD TAXI』4話

佐久間さんのラジオいよいよリタイア。展開スピード含めてキツくなってきた。
『トゲアリ』が少しずつ面白くなってきたかもしれない。少なくとも、次回を楽しみにしている。
『ODD TAXI』4話は大きな分岐点で素晴らしい。
主人公と思わせる存在の視点から外れて一話使ってしまう展開が『デュラララ』を彷彿とさせる。すごくいい作品の予感に胸が高鳴る。それにしても、声優を務めている芸人たちに全然気づけない、ミキ演じるミーアキャットの警察官なんて素晴らしいじゃないか。


金曜日 キラカード

ソファ寝落ち、二度寝からの10時半起床。
原宿で買い物をしてからtitleに向かう。途中、上司から電話がかかってくるちょっとしたハプニングが意外と心に刺さって、最悪な気持ちになりかけたのでマヂラブとぺこぱのANNXを聴く。マヂラブの「将棋2」から派生していくトークが面白かった、「何かの2は何ですか」大喜利が、ピザまんの例から、「何かの2が何かの1である」方にズレていくところがよかった。
マネージャーと一蓮托生で、存在しない仕事で休みを獲得するマヂラブに幸あれ。ぺこぱはそろそろ飽きてきた原因であるコーナーを入れ替えるそぶりを見せてきたので安心。キャラを降りる、バラエティの嘘を独白する、そのスタンスは大切に、だけどコーナーはぺこぱらしさを聴かせて欲しい気持ちにもなる。

西村ツチカの展示をまじまじと見た。手書き、スキャン、ペンタブを駆使した製作を垣間見る内容で大満足。とにかく細かい線をびっしり書くスタイルを見ると安心する。仕事に時間を持っていかれる自分がいる一方、正しいことにたっぷり時間をかけている人がいるのことに感謝の念のようなものを感じた。


会計の段、titleに来るのが久しぶりで、次もまたしばらく先になると思って一度断ったブックカバーをやっぱり文庫にはかけてもらった。ピンク色の綺麗なカバーで、その手間をかけさせてしまった理由を伝えるか逡巡したけど言えなかった。いわゆる自費出版ゾーンの殿堂入りコーナーみたいなとこに友田とんと17時退勤社がささっていて可笑しい。素敵な場所と自分が繋がっている気がしたからか。

上司の電話で無理になった時にLINEしていた友達が井の頭公園にいるというので行ってみる。友達の友達を紹介してもらうのはこれで二回目だけど、なんか面白そうだと毎回思う。
人との距離感を客観的に審査する目は活かしたまま、コミュニケーションの純粋さみたいなものを大義に置いているシンプルな人たちで、そういう人の審査対象になる可笑しい心地よさみたいなものにリラックスして過ごせた。
そういう人はたいてい言語にマジでいようとするからか、適当なことを仕掛けたくなる気持ちもムクムクやってくる、ダセぇと言われたら全くその通りなのだけど。
毎回俺のことをツイッターでナンパした友達、と紹介するのが友達にとってキャッチー度合いの最適解らしくてありがたいのだけど、改めて誰かの紹介でいる以上は誰かにとってのキラカードでいることなんだなあと思う。俺がどうこうというより、俺を紹介する誰かが試されるののだから。ただその点に限って言えば、俺のことのようで俺に関係ないことでもある、だから楽しい。友達が紹介してくれた友達は、仲良くなってみたいと思う人たちだった。誤魔化す必要性がない世界から遠くまで来たもんだ、人生なんてあっけないね。
おもろいかおもろくないか、みたいな目で人を見て、下回ったら切って、それでも新たなメンツが供給されてくるみたいな話は、最高かよと思った。俺が言った「キラカードかよ」を友達は「キラーカードかよ」に聞こえていたらしく、そんな切り札っぽいものにはなれない。


土曜日 『14歳の栞』

ラジオ父ちゃんのつかみ。
ヘケ、クシ、テチテチ、クンカクンカ
「ハメ技で圧勝するハム太郎」めちゃ面白い。

ロサで『14歳の栞』を見た。中2ってこんなに小さかったのかという意外性と、自分と他人の距離感を探ることに相当賭けている年代だったなという懐かしさが混ざった気持ちでいっぱいになった。自分や他人を「キャラ」や「タイプ」という言葉で仕分ける感覚は普遍だと思うけど、仕分けきれない部分でも相手を尊重している優しい子供たちばかりで感動した。この子たちも、いずれ「キャラ」や「タイプ」で拾いきれない部分を示す言葉を身に着けていくのだと思うと殊更グッとくる。子供は、現在を映すだけで未来を想像させる力も持っていて、それは言葉の何倍も情報量がある気がする。



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