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13歳、わたし。国語辞書に魅力された。


それはわたしが13歳のときのことである。わたしは国語辞書に夢中だった。

と、いっても、わたしは小学生のころから国語辞書を文字通り「読んでいた」ので、13歳がはじまりかといわれればそうではない。けれど、あれほど国語辞書に費やしたのは13歳が初めてだった。あのときのわたしは、きっと病的なまでに国語辞書を愛していた。

たしかに、小学生のころからわたしは、国語辞書を読んでいた。具体的にいつから、というのは記憶していないのだが、少なくとも小学五年生のときに読んでいた記憶はある。当時のわたしは家で勉強をする子どもだったので、授業がつまらなかったのだ。だから、わたしは国語の授業中、合法的に机の上に出せる国語辞書を腕に抱きかかえ、わからない言葉を調べるふりをして国語辞書を片っ端から、読んだ。

言葉や意味はどうでもよくて、ただわたしは国語辞書を読む、という行為が好きだったし、国語辞書が好きだった。国語辞書には、わたしのしらない言葉がたくさんあって、わたしのしらない景色がたくさん広がっている。

中学生になると、わたしは中学生用の、少し大人な国語辞書を手に入れた。小学生のころのそれとは違うのである。収録語数も、文字の大きさも、内容の深さも。わたしは全部どうでもよかったけれど、そこにある文字が増えたことで、わたしはさらに国語辞書に没頭した。13歳のわたしは、授業中いつだって国語辞書を読んでいた。それはいつしか家でも国語辞書を読むようになり、わたしの13歳はいつだって国語辞書がそばにいたのだ。

とはいえわたしの国語の成績はそれほどよかったわけではない。決して悪くはなかったけれど、国語辞書を読んでいる、そのわりには全然、中身が身についていないのだ。
わたしは国語辞書の中身には興味がなかったから。ただ美しい文字がたくさんならんで、美しい世界がひたすら広がっている、その事実だけでわたしは満足だった。わたしの「読書」体験は、いつだって文字のうしろに見える風景の鑑賞だった。言葉そのものの意味には、さほど興味が無い。

3つ前の投稿で、わたしは共感覚とはきっと違う、と書いたが、活字中毒か、と問われれば、きっとそれもまた違う。
わたしは文字が好きで、電車の広告も、調味料の成分表示だって読んでしまうけれど、それは活字にとらわれているからではなく、その背景にある美しさの体験が好きだからだ。文字を読んでいないと落ち着かないこともあるけれど、わたしは他の娯楽体験の最中に文字のことを考えることはそれほど多くない。

ただ、わたしがスマホ中毒になったのもきっとそのせい。わたしは基本的に、スマホを触ることができる時間はほとんど常に触っているくらいにはスマホ中毒で、Twitterと、ネットサーフィンと、こうしてスマホで文字を書くことをやめられない。反面、ゲームはほとんどしない。理由は簡単。文字が少ないからだ。

国語辞書は、最強の武器だと思う。高校を卒業してから、わたしは国語辞書を読まなくなった。そのかわり、あまり得意ではなかった読書をする機会が増えた。
つい先日、ふと思い立って、自室の勉強机の棚に鎮座している国語辞書を手に取った。国語辞書は、わたしが思っていたよりもボロボロだった。そこにはきっと、わたしの国語辞書とともに生きてきた8年だか10年だかがすべて詰まっている。

ああ、なんて素敵な本だろう。
21歳のわたしは、その日一日中自室にこもって、国語辞書を読みふけった。その文字の世界はあのころと違って、知らない景色は少なかった。わたしは、13歳のわたしよりも多くの物事を知っている。

国語辞書に魅了された13歳。
いまもその心はわたしのなかに残っている。8年前のあの日、たしかにわたしは、国語辞書を愛していたのだ。

文字が好きで多趣味な現役女子大生が好きなものや感じたことについて書き綴ります。あと主に少女を題材に短編小説も書きます。