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僕とドリカム(という名のベース遍歴)

私とドリカム──
などと言うと、ドリカムことDreams Come Trueのトリビュートアルバムのタイトルになってしまい、僕なんかがそれを言ったらドリカムをリスペクトしているアーティストたちに対して失礼になるだろう。
まず最初にことわっておきますが、当記事はドリカム以外のミュージシャンに関する言及の方にたくさん文字を費やしていることをご了承ください。

僕は決して熱心にドリカムを聴いてきたわけでもないし、(当時)女性一人に対し男二人の状態を「ドリカム状態」や「嬲る」と呼んだり、電気グルーヴの「ドリルキングアンソロジー」の鳥"留噛男(どりるかむお)なんかを面白がっていたような→⁠人間であり、「電気グルーヴ大嫌い!石川よしひろ大好き!」な「リア充」的なものの爆発を祈っていたような、実に不健全な思春期を過ごしていた。
(俗に言う、終わらない厨二病)

鳥"留噛男(中の人はピエール瀧とかいう人)

そんな僕が部屋でBUCK-TICKなんかを流していると、その曲と曲の合間に隣の部屋で妹が別の音楽を聴いているのが漏れ聴こえてきたりしていた。
それは時々TM Networkだったり中島美嘉だったりもしたが、中でも妹はDreams Come Trueを聴いてたことが多かったようだ。
壁の向こうから漏れ聴こえるのは主にベース音域の音だったが、それが「うれしい楽しい大好き」や「決戦は金曜日」などのベースラインであるということくらいは次第に聴き取れるようになったが、僕自身はちゃんとアルバム聴くことはなかった。
その中で、なんか時々流れてくる変則拍子の曲が頭に引っかかっていた。
その前後からそれはドリカムの曲であることは確信していたが、「ガラッ! 今の曲何!?」となるまでもはなく。

いつしか妹とはそれぞれの音楽を聴く時間帯が重なることも無くなったし今は別の家で暮らしているので、ドリカムが流れてくる生活とは縁遠くなってしまったのだが、あれからウン十年が過ぎてふと
「あの変則拍子の曲はなんだったんだろう?」
と気になってサブスクからドリカムの当時の年代のいくつかのアルバムを流し聴いてみた。
たしかあの変則拍子は曲の最後にリフレインされていたはず…と思いながらイントロ頭出ししては曲の最後らへんも聴きながら。

すると年代からアタリをつけてた最後のアルバム『The Swinging Star』の最後の曲で出てきました!
当時の記憶による印象よりも実際は若干ゆるやかなテンポだったが、4/4が2小節続いたあとに2/4だけ余りがくっついてくるのは間違いなくこの曲だった。
それは「晴れたらいいね」のエンディングのベースフレーズだったのてすね。

しかし「晴れたらいいね」はシングル曲でもあり、僕でさえもなんとなく口ずさめるくらいの曲でNHKの朝ドラ「ひらり」でも、のちの「まんぷく」でも採用されていた曲である。
しかしそんな有名だった曲にあんな奇妙なフレーズあった!?
と思いつつ、「晴れたらいいね」の他のライブ動画やカバー動画などのサムネイルを見るとアルバムには4分あまりで収録されているにもかかわらず、曲の長さはほとんどが2分40秒くらい。
すなわちこの「晴れたらいいね」がライブ等で演奏される際はそのエンディングの1分数十秒の変拍子のリフレインが省略されることがほとんどで、それはアルバムのボーナストラックというかエンドロール的な意味合いのパートだったとも思える。
ちなみにシングルver.でもエンディングの変拍子は収録されてるのだが、アルバムver.よりも短く終わる。

「いかがでしたでしょうか、
この『The Swinging Star』。
またここでお会いしましょう、ごきげんよう。」
と軽妙なナレーションが聴こえてきそうな演出だなと思った。
淀川長治ではないが、このアルバムを一本の映画に見立てたかのような構成だと思った。
という意図があったとするならば、シングル盤はそれが短すぎて「ごきげんよう。」しか入れられない程だ。

そういえば90年代前半の当時は、アナログレコードからCDへの移行がほぼ完了した時代と言っていい。
当時はカラオケボックスの流行もあり、長方形のジャケットの8cmシングルCDなんかもよく売れ、この「晴れたらいいね」のシングル盤も縦長のジャケットだった。みんなカラオケで覚えたくてCDを買っていた一面もあった。この『The Swinging Star』も400万枚売れたというのだから。家では隣の妹の部屋から漏れ聴く程度だったが、同級生とカラオケに行けば誰か女子がドリカム歌ってて、そこで自然と覚えたというのもある。

また当時ドリカムは、ドリカムの冠番組を持つまでの勢いと国民的人気もあった。
それは『うれしたのし大好き』という番組で、フジテレビ系列で1992年4月3日から1993年4月2日まで放送されていた音楽バラエティ番組。毎週金曜日 23:00 - 23:45に放送されていた。(wikipediaより引用)
ドリカムが司会進行を務める音楽番組というより、ドリカムのキャラクターを活かしライトなコメディやトーク、そして演奏などもあった"ドリカム自身の"番組だったような記憶がある。
もしも今もそういうコンセプトの番組があったとしたら、SEKAI NO OWARIらへんがそういう冠番組をやっていたかもしれない…が、当時のドリカムほど老若男女が知ってる国民的人気のミュージシャンっているだろうか?
ああ、Perfumeのコントなんか見てみたいですね。

今となっては信じられない光景だったが、当時は今のような音楽情勢のほうがむしろ信じられなかった、というか予見もできなかった。
流石にミリオンセールスを競い合う熱狂ぶりは、その当時がピークのものとは薄々思っていたが、テクノロジーなどの面では音楽の世界は右肩上がりの発展しかないと思っていた。
CCCDというコピー防止スクリプトを仕込んだ粗悪品が大手レコード会社によって一斉に市場にバラ撒かれるまでは。
(この話は時系列がもっと後の話になるので割愛するが)

そしてCDはレコードと違い、(指揮者カラヤンさんのおかげで)片面におよそ74分も収録できるようになったので、「片面およそ23分・両面46分」縛りの無いアルバム製作もできるようになり、74分めいっぱい収録したり「隠しボーナストラック」なんてのもその頃から増えてきた。
また、たとえば10曲入りのアルバムなら、従来だったら5曲目でA面が終わり、6曲目からB面が始まるのがセオリーだったが、片面再生のCDの登場によって"5曲目"にとても長い曲を収録することもできるようになった。それに合わせてカセットテープもレコード用46分、会議録音用60分・90分、ラジオ番組録音用120分の他に64分、70分、74分などラインナップも増えた。
しかしカセットテープは構造上A面/B面と相変わらず分かれていたので、真ん中に長い曲のあるアルバムをダビングする際はその扱いがなかなか厄介だったが(笑)

と、話は脱線したが(毎度のこと)、その変拍子について語ってる人とかいるのかな?って検索してみたら、とても興味深いブログ記事を見つけた。

ドリカムの「晴れたらいいね」は「雨にぬれても」へのリスペクトソング?

この記事はとても音楽的にも優れているのでそちらも是非参照していただきたいのだが、そのB・J・トーマスの「雨にぬれても」という曲…

I singing in the rain〜♪?
という映画やミュージカルでも有名な「雨に唄えば」とは別の曲である。
きっと聴いたことある人もいると思うので、とりあえずこちらも聴いてみていただきたい。

雨にぬれても/B・J・トーマス Raindrops Keep Fallin' on My Head/B.J.Thomas

僕は当時の映画はよく知らないが、いわゆるサビの部分は、俳優ポール・ニューマンが出演する日産スカイライン(R30・通称ニューマン・スカイライン)のCM曲としては知っていた。

そのポール・ニューマンは映画「明日に向かって撃て!」の主演俳優だったんですね、なるほど納得。

そしてまた極私的なエピソードになるが、当時小学生だった僕はアレルギー性鼻炎に年じゅう悩まされていて、当時久里浜駅近くにあった斎藤耳鼻咽喉科に定期的に通院していた。そこは昭和初期の瀟洒なモダン建築の小さな病院で、僕がネブライザー治療を待つ間のロビーでこの「雨にぬれても」のインストゥルメンタルがよく流れていたのを思い出す。
それは有線放送のような1時間周期などではなく、15分おきくらいにその「雨にぬれても」が流れてきた記憶だったので、きっと院長先生のセレクションのカセットテープか何かをエンドレスで流していたのだろう。他の曲も順番に同じ回数を流れていたはずだったが、僕の印象に残ってたのはこの「雨にぬれても」のメロディーだった。
でも当時は、このブログ記事で言及されてるようなエンディングの変拍子についてまでは覚えていなかったし、その曲名も知らなかった。流石に小学生だったし。しかしそのメロディを口ずさめばきっと母親は「その曲知ってるよ」ってなったであろうくらいには耳に残っていた。

妹がドリカムを聴いていた頃にまた戻ると、当時の僕はBUCK-TICKやBOØWY、X(当時は-JAPAN表記なし)などを聴きながら高校の友達とバンドやろうぜ!という話になり、先輩からフェルナンデスの黒いベースを安く譲ってもらって、それらのバンドのコピーから始めることにした。
当時は楽器屋さんへ行けばBOØWYは解散してしまっていたが布袋寅泰さんモデルやBUCK-TICKやXなどのオリジナルモデルギター(ベース)やピックやストラップなども数多く売られていたし、楽器そのものもアーティストのシグネチャーモデルに憧れて各メーカーのカタログももらってきたりしていた。

僕も一度は黒いテレキャスギターに白いテープで布袋さんの幾何学柄に貼ったことあるし、初愛器だったその黒いベースにはカッティングシートを今井さんの"うずまき(マイマイ)"(バイオリンのfホールをアレンジした模様)に切り抜いて貼っていた。

FRB-70。ちょうどこれと同型・同色でした。

黒のボディに僕が勝手に貼り付けた金色のマイマイ模様は、当時の今井さん御本人には無い仕様だったのだけど、あれから20余年が過ぎて今井さん御本人のモデルがこのカラーリングで出たときはテンション上がりましたね。

今井さん御本人の!

そんな風にベーシストの端くれであるにもかかわらずBUCK-TICKといえばユータさんというよりも今井さん派だったので、「尊敬するベーシストといえば?」と訊かれても即答はできなかった。

そもそも、ギターは一度にフレットを何箇所も押さえるのが難しそうというというのがベースを始めるきっかけのひとつだったのだが、そのベースについても僕はまだまだよく分かってなかった。

当時よく聴いていたバンドの中にはレピッシュというグループもあり、疾走感あるスカサウンドが好きだったのだが、ヴォーカルのMAGUMI・ギターの恭一・キーボード/サックスの上田現の3人の暴れっぷりと、ベースのTATSUとドラムの雪好のリズム隊がとにかく寡黙だったのが対照的な面白いバンドだった。

今聴くとその音楽性において指でつま弾くTATSUのベースの存在感というのがひしひしと伝わってくるのだが、当時の僕はそのサウンドを支えるよりも「派手なことしたい!」という気持ちの方が強かったなあ。
また当時はエイトビートを礎としたストレートなロックが人気だったので、「ベース=地味」という先入観も蔓延していた。中学生になったばかりの小僧にはベースの音を聴き取れていなかったのもあっただろう。
当時の家庭の音楽環境も影響していると思う。AMラジオの音域は低音まで届いてこないし、それこそBUCK-TICKがCMに出ていたビクターのCDラジカセのキャッチコピーに「重低音がバクチクする。」とあったように、家庭用オーディオ機器でウーハースピーカーが普及し、他のメーカーも重低音をセールスポイントに競い合ってた時代だった。

それだけ低音域に対する世間の関心は高かったはずだが、ちょうどその当時のバンドブームにおいて5弦ベースを弾いているベーシストはほとんどいなかった。いたとしてもそれはフュージョンやジャズなどの界隈の人たちのもので、いわゆる邦ロックの間でより重い音を出したい場合はせいぜいまれに半音下げチューニングをするくらいだった。

これは僕の主観なのだが、バンドの華はベーシストよりもギタリストになりがちだが、ベースはギターと比べて弦の数は少ないがその分ギターよりもネックが長くて細いところがカッコいいと思う。
学校の帰りにスタジオで練習しに行ってたとき、肩にかけているソフトケースがギタリストのケースよりも長い自分のベースをカッコいいと思うようになった。「ベースは地味」だと言われるがけっしてギターに引けを取らないと思えるようになった。

高校の文化祭にて。

しかしなぜロックベーシストは5弦ベースを弾かなかったのだろうか。それはピッキングで5弦を鳴らしていない時5弦がビビってしまわないようにミュートもしなきゃいけないから激しいアクション向きではないと思うし、多弦によって太くなったネックを当時はカッコ悪いと思っていたのだろう。いや、僕がそう思ってた。
またナチュラルウッド仕上げの茶色いベースやフェンダーのサンバーストのスタンダードなジャズベースなんかを「おっさんくさいもの」という先入観で見ていたし、ギター/ベースカタログに載ってる超ハイスペックでフレットが弦に対して斜めに扇形に伸びている「ファンフレットベース」は超人の持つものだと思ってた。(それは今も思っている)

ファンフレットベース

やがて僕はLUNA SEAのベーシストでありながら派手な自己主張もするJのプレイを好きになると、僕のベースのストラップも長くなり構える位置もどんどん低くなっていった。Jのこのプレイスタイルはセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスの影響と言われるが、確かにピック弾きで右手のストロークを思いっきり下に振ったときに腕が伸びるのがかっこいい。このスタイルは更に遡るとThe WHOのピート・タウンゼントなんかにも辿り着きそうだ。
だがしかしストレートなパンクならまだしも、少し複雑な曲になるとすこぶる弾きづらいのだ。まずベースのボディが身体に密着しないのでポジションが安定しない。せっかく人間の体にフィットする"ひょうたん型"にくびれているのに。しかしLUNA SEAのJはボディの裏側を"ザグリ"と呼ばれる凹状に削り取り、それを太腿にフィットさせて安定性を確保していた。

Edwardsなどの廉価版にはない仕様。

なぜ君はそこまでして(本来)弾きづらいスタイルにこだわるのか───

それはきっと歩きにくいピンヒールだったり、ウエストの苦しいコルセットだったり、髪を伸ばすのだって日常には不便が生じる。
しかしそこに美意識だったりアイデンティティがあるからそれを貫いているのであって。

セックスピストルズのシド・ヴィシャスとジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)

LUNA SEAのJの他にZI:KILLのSEIICHIのベースも好きだった。彼はのちにCRAZEのベーシストになってゆくのだが、ZI:KILLでもCRAZEでもライブではベースが主役になる場面があって、それを僕はかっこいいと思った。
https://youtu.be/3zx2kjXtzkQ

ボーカルのTUSKから「Mr. Bassman!」と呼ばれてこのスピーディなベースイントロを奏で、曲の終わりに観客に向けて一礼するところまでがかっこいい。
この映像でSEIICHIが穿いているフラップスカート付きのボンテージパンツもかっこよくて、相変わらず僕は何本ものボンテージを穿いている。

そんなこだわりも大切だが、もう一方で「もっとオールラウンドにベースを弾けるようになりたい」という気持ちも徐々に芽生えてくるんです。
そうなるとベースのポジションも徐々に"自然な高さ"になってくるんですね。
仲間内では「お前ひよったな!」「バタやん(田端義夫)かよ!」などと罵り合ったりするんですが(笑)

そんな"ロックバンドあるある"を過ごしてきた当時の僕にとって、ドリカムのベースの中村正人さんは自分のプレイスタイルとは対極にいる人という認識だった。
まず中村さんはベースのポジションが高い。

もしもレッチリのフリーが中村さんのようなポジションでベース弾いてたら猥褻物陳列になってしまうだろう。

また、この写真にもあるように中村さんは当時から5弦や6弦といった多弦ベーシストとしても知られていた。
上にも書いた通り、ロック界ではほとんどおらずフュージョンやジャズの世界のものと思われてた多弦ベースを最もお茶の間に広めたのは、まさにこの中村正人さんだったと認識している。
ダチョウ倶楽部の肥後リーダーが中村さんのものまねをしていたのをなにか違う世界の楽器のように思いながら見ていた。
しかしものまね番組で肥後ちゃんが持ってるベースが手っ取り早く調達できる4弦だったりすると「そこ違うだろ!」なんてツッコミ入れてた。それくらい僕にとって中村さんは多弦ベースの人という認識だった。
多弦ベースといえば当時はほとんどナチュラルウッド仕上げのものしか無かったしネックも太かったので、僕はそれをかっこいいとは思えなかった。

そして中村さんは主に指弾きだが、(当時の)僕はまったく指弾きができなかった。
ギターにしろ「速弾きなんて人間のやるものではない」って思い込んでいて、ベースの指弾きも同様に遠い世界のものという認識だった。

X(当時はJAPAN表記無し)の「XCLAMATION」でもTAIJIの流れるようなスラップベースが、BY-SEXUALの「PSYCHIC DANCE」でもDENのスラップベースが炸裂するのだが、やはりそれも遠い世界の話だと思ってた。

https://www.youtube.com/watch?v=uvK8vx4yBJM


しかしBOØWYの松井常松氏の影響もあってピックでエイトビートを奏でていたBUCK-TICKの樋口ユータも、やがて「ドレス」や「キミガシン…ダラ」でフレットレスベースも弾くようになり、Die In CriesのTAKASHIが5弦ベースを弾いていたりと、いわゆる耽美系バンド(ヴィジュアル系という言葉で呼ばれる以前)にも"和製オルタナティヴ"の波は来ていた。
見かけの派手さよりも音楽自体への志向が深まった証左といっていいだろう。
僕が身近に聴いていたバンドで5弦のベーシストって、TAKASHIさんが初めてかもしれない。
90年代も後半になると、L'Arc~en~CielのTETSUが多弦ベースを弾くようになり、その辺から邦ロックの間でも多弦ベースが増えてきたと認識している。

海外ではやはりレッドホットチリペッパーズが世界中に影響を与え、レッチリでスラップベースに目覚めた人も多いだろう。卵形のピックガードのミュージックマンのスティングレイベースもたくさん売れてましたね。
そしてTHE MAD CAPSULE MARKETSのCRA¥が「HABIT」でエフェクターでバッキバキに歪ませたスラップベースを弾いてたり、いよいよ僕の中でも指弾きは避けて通れないものだと思うようになった。
当時EdwardsのJモデルのベースを愛用していた僕も、フェンダーの白いプレシジョンベースを持つようになった。シド・ヴィシャスも使ってた黒いピックガードのやつだったが、僕は!MAD〜のコピバンするときにピックガード外してCRA¥っぽくステッカー貼りました。
(←割と分かりやすいヤツ)

CRA¥(上田剛士)モデルのプレベ。

今でこそ「けいおん!」の秋山澪がフェンダーのジャズベースを愛用して見慣れてる人も多いと思うけど、フェンダーのジャズベもプレベも、女の子が持つにはかなり大きな楽器だと思う。ジャズベの方がネックは細くて幾分か弾きやすいけど。
それまでフェルナンデスの真っ白いストラトシェイプのギター(BUCK-TICKモデルではないが当時のBUCK-TICKっぽい)を弾いていたバンドの相方も、フェンダーUSAのサンバーストのストラトを弾くようになっていった。
好きなバンドもTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやBLANKEY JET CITYなどといった、歪んではいるものの"ナチュラルな"ロックを聴くようになっていった。

…そんな僕が一方で意外な出会いを迎えていた。
それはSPEED。そう、あの「Body & Soul」でデビューした4人組です。大学の帰りに軽い気持ちで渋谷タワレコの1階でのラジオ出演を窓ガラス越しに観てて好きになっちゃったんです。
「かわいいなぁ」って。
ほんと軽いきっかけでしか過ぎなかったんだけど、3rdシングルの「Go!Go!Heaven」のギターサウンドにすっかり虜になり4thの「Wake Me Up!」なんかはスラップベースがまたかっこよくて、次第に彼女たちが主体とするR&Bやヒップホップなどの音楽性に対する"食わず嫌い"も無くなっていった。

また当時、僕はインターネットでホームページや掲示板作ってBUCK-TICKファンの人たちとも知り合ったが、その傍らでSPEEDのページ作ってたら、そっち方面の知り合いもできて、たとえば大阪でコンサートがある時はその友達の家に泊めてもらったり車でみんなで遠征したり。
現在の僕の活動の原点はそこから始まったと言っていい。
現代のそれはSNSがきっかけになってるけれど、当時はそれぞれのファンが作るホームページに同好が集まるようになっていた。
そんなご縁で「師匠」に出会ったのです。

その「師匠」はSPEEDの楽曲に対する音楽的に深い造詣のあるメルマガを書いていて、僕たちのいろんな音楽的な疑問や興味などにも答えてくれて、みんな彼のことを「師匠」と呼んでいた。
その「弟子」の中には僕と同じくしてベースを弾いてる仲間もいて、彼はフェンダーの青いジャズベを指弾きしていた。僕がゴリゴリのロック/パンクを好む一方で、彼はもう少しスマートでスタイリッシュなベーシストだった。
僕もいよいよ指弾きをはじめようと。
そんな話をしていると、師匠は「俺のお下がりやけど5弦ベース譲ろか?」と話を持ちかけてくれた。
「渡りに船」とはまさにこのことである。
しかしまだ師匠とは「オフライン」で会ったこと無かったし、一度その5弦ベースを実際手に取ってみなくては。

「そうだ、京都へ行こう。」
コンサートも無い日だったが、5弦ベースに触れるために僕は新幹線で師匠のいる京都へ行った。
駅で待ち合わせて、近くの喫茶店で師匠が肩から提げて持ってきたケースから5弦ベースを取り出してくれた。
「うわっ、楽器屋さんで5弦ベース見たことあったんですけど、おそれ多くて試奏なんか出来なかったですよ。やっぱりネック太いし5弦(一番太い弦)のフレット押えるの大変そうですねこれ。」
「どれ、指先見してみぃ。やわっこいなぁ〜(笑)」
「いつもピック弾きなんで(苦笑)」
「俺も最近は以前よりもやわっこいけどな、毎日弾いてやって、こうなるくらい頑張りや。」
とても痩せている師匠の細芯へ長い指先はいくつものタコでゴツゴツしててとても硬かった。

ちょうどその頃、僕は大学の軽音楽部で知り合った仲間とバンドを始めていた。コピーバンドではなくオリジナル曲で渋谷や登戸などの小さなライブハウスで。
譲り受けたその5弦ベースをさっそくメイン機として愛用することにした。
誰それに憧れてそのバンドのコピーをし、そのベーシストの気分を味わって──といった楽しみ方から、「自分らしいベースとは」を意識するように変わっていった。
「好きな音楽は?」
と訊かれてそのジャンルやバンド名を挙げること、それは言葉のコミュニケーションとしては最も伝わりやすい手段だろう。
しかし、言葉ではなく音楽として「僕はこういうのが好きだ」と伝えることが音楽なんだと意識するようになった。

その契機となった、師匠から譲り受けたMoonの5弦ベースは、まさか僕が持つまいと思っていたナチュラルウッド仕上げのベースだった。何色でもない、クリアーコート層すら無い木の素材のベース。
「楽器は、特に木製の楽器は、弾けば弾くほどに"鳴る"ようになるからな。」
今でも憶えている師匠の言葉。

Moonの5弦ベースとBladeのフレットレスベース。

最初はそれまで通りにピックでゴリゴリ弾いていたけど、相方が作るオリジナル曲には16ビートの曲もあったので次第にそのリズムの"ゆらぎ"を表現したくて指弾きにも挑戦するようになり、長かったストラップも次第に短いところにベルトの穴を追加するようになった。

「なんだか少しドリカムっぽくなってきたよね」
なんて冗談を言い合いながらスタジオ練習してたことも思い出す。

5弦ベースはEよりも低い音が欲しいときに重宝するが、実際にそういった曲はそれほど多くない。
しかしたとえばEを鳴らす時、4弦を開放で鳴らすのと5弦の5フレットを鳴らすのとでは異なるニュアンスが出せることを実感したし、1オクターブ差のある位置でサムとプルを交互に鳴らす楽しさなども徐々に覚えていった。

そんな当時、サム&プルの練習としてよくコピーしていたのがモーニング娘。の「恋愛レボリューション21」などで、次第に"ロック以外の"曲で「このベース面白い」だったり「このベース弾いてみたい」を見つけるのが楽しくなっていった。
「ベースマガジン」なんかを読んでるとマーカス・ミラーの超絶フレーズなんか載ってたりするけれど、僕は "表向きはアイドルソングや歌謡曲なのに実はベースがかっこいい" というハロープロジェクトの曲や後藤次利さんが編曲を手掛ける曲などを探して聴くようになった。
そうしていくうちにやがてフレットレスベースも欲しいなぁと漠然と思っていた頃、師匠から「いくつか楽器を整理しよ思てんけど」と連絡があり。
「ひょっとして師匠、その中にフレットレスベースなんてあります!?」
「あるで。」
これはもう"音楽の神様からの啓示"なのかもしれない。
Bladeのジャズベタイプをフレットレスに改造した師匠オリジナルの一本も僕の元に渡り、5弦とフレットレスの2本を担いでライブハウスに出演したこともあった。

もしも僕がベースじゃなくてギターから始めていたとしたら、ロックバカになっていてこんなに節操もなくいろいろ聴いていなかったかもしれない。

そんな僕のベース遍歴の中からいくつかオススメを。

SKE48の「1!2!3!4!ヨロシク!」

アンジュルム「大器晩成」

モーニング娘。「この地球の平和を本気で願ってるんだよ!」

等々の楽曲を聴き親しんで僕が漂着したのがこのコドモメンタルの音楽だったわけで、「手前味噌」ではないが(笑)、この流れでコドモメンタルのぜんぶ君のせいだ。の「堕堕」も挙げておきましょう。

ちなみに僕が最も愛した"ゆくえしれずつれづれ"の楽曲は意外とベースがバッキバキではない。そんな可能性の広がりも期待はしていたのだが。
しかしこのように、たとえインディーレーベルであっても超メジャーなアイドルたちとも引けを取らないクオリティの楽曲が制作される、とてもいい時代になったと思う。
殊、ベースに関しては「超一流はやっぱり違うなぁ」と感心させられる部分も勿論あるが。

そんな中でつい最近Ringwanderungの「パルス」を聴いてみてベースかっこいいなと思って、つい耳コピしてみたのだけど、

このBメロのベースのリズムの運び方が、そういえばドリカムの「決戦は金曜日」のイントロからAメロにかけてのベースに似ているなぁと、全体の曲調は全然違うのに面白いなぁと思った。

そして今あらためてこの「決戦は金曜日」を聴いてみると、アドリブやフェイクを交えながらソウルフルに伸びやかに歌い上げる吉田美和のスタイルはCheryl Lynnの「GOT TO BE REAL」なんかの影響もあるのかなって。

そしてまた「決戦は〜」の イントロのシンセナイズされたベースラインにホーンセクションが絡んでくるアレンジはEarth, Wind & Fireの「Let's Groove」の
We can boogie down, down upon
down The boogie down, down upon
と、ボコーダーをかぶせた部分ともにも似ているなぁと。

当時はドリカムの意図していたことやその魅力を理解するべく僕のボキャブラリーがいかに未熟だったかを思い知らされます。
また当時、高校の同級生が「アースウインド&ファイヤーいいよ」とか「ジャミロクワイかっこいい」とか言ってるのを聞いても「流行りに乗ってるだけでしょ」と冷めた目で見ていた自分がいた。
しかし流行るには流行るだけの理由があるし、それが楽器を奏でる者の目線かそうでない人の目線か(耳線?)によっても違うだろう。
そもそも僕だって、いわゆる「ロックへの目覚め」を自覚するようになる前は普通にベストテンなどで上位にランクインするヒット曲を聴いていたし、たとえばC-C-Bだったり米米CLUBなんかは、あとになってから聴くと「そうだベースがかっこよかったんだ」と気付かされたり。

そんなことを考えながら、パソコンでドリカムの曲を流しながら、ベースのフレーズを耳コピしている僕がいる。
あの頃の僕にとって全く想像もつかなかった「未来予想図」がここにある。
ドリカムの他の曲も"今の耳"で聴いてみると新たな発見がたくさんあるかもしれない。
でもほんとは音楽って「よくわかんないけどいい歌だなぁ!」って感情さえあれば、それは充分すぎるくらい魅力のある音楽なんだとも思う。
だって言葉を尽くすよりも理論をまとめるよりも、時に饒舌に物事を伝えられるのだから音楽というものは。

と、ほとんど思い出語りになってしまった上に僕のブログを自ら否定するような締めくくりになってしまったが(笑)、そんな昔の記憶と、更に昔の記憶、そして当時の風景だったり肌触りだったりを喚び起こしてくれる音楽って、不思議だなぁと思う今日この頃です。

2023.01.19.
Лавочкин(らぼーちきん)

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