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採点競技とアカデミー賞の楽しみ方

現在、北京冬季五輪が開催されている。

「やはり」というべきか「またか」というべきか、ネット上で採点競技の是非について意見が出ている。

「採点がおかしい」といった意見を見る度に思うのは、採点競技の「採点がおかしい」のは当然だろう、ということである。

採点競技=ダメではない

「採点競技はスポーツじゃない」という意見があるが、そうは思わない。

厳密にいえば、記録を競う競技以外、例えば、サッカーも野球もテニスも採点競技である。得点が決まったかどうかという、審判が行う1か0かの採点によって勝敗が決まる。

また、「採点競技は客観的でないからスポーツじゃない」といった意見もあるが、これも、そうは思わない。

夏季オリンピックでいえば体操競技、冬季オリンピックでいえばフィギュアスケートが、古い時代からオリンピックに採用されている代表的な採点競技といえるが、どちらの採点方法を見ても、非常に細かい客観的な評価項目によって採点されており、つまり、客観的評価がなされている。

では、なぜ毎回、採点競技の多い冬季五輪の際、「採点がおかしい」議論が沸き起こるのか。

それは、採点競技が、主観的評価を客観的に評価する競技であることに起因していると感じる。

主観的評価を客観的に評価する競技

例えば、「花の長さを競う競技」と「花の完成度を競う競技」があるとする。

「花の長さを競う競技」の場合、花全体の長さで勝敗を競う。これは、誰が見てもわかる客観的評価を客観的に評価する競技である。

花の長さを競う競技の場合

対して、「花の完成度を競う競技」を客観的に評価しようとすると、「花びらの色の濃さ」「茎の太さ」「葉の大きさ(面積)」「花びらの長さ」「全体の長さ」…といったように、多数の客観的要素の合計点を競うことになる。

花の完成度を競う競技の場合

これがすなわち、主観的評価を客観的に評価する競技であり、採点競技といえる。

採点競技は、演技の完成度を競う競技であり、演技の完成度とは、どれだけ難しい技を組み合わせてそれを成功させたか、といえる。

完成度の尺度は、見る人によってバラバラである。茎が短いが花びらの大きい花を完成度が高いという人もいれば、花びらは小さいが茎が長い花を完成度が高いと感じる人もいる。

つまり、どれだけ客観的に評価しようとも、評価されるのは完成度という主観的なものでり、それが、採点競技といえる。

「採点がおかしい」気持ちが生まれる理由

このようにして見ると、一つ、疑問が生まれる。

完成度を構成する要素一つ一つは客観的に評価されている。客観的な要素の合計点なのだから、最終的に客観的な評価になりそうである。「1+1=2」といった単純な計算式でしかない。しかし、生まれるのは、主観的な完成度という評価である。

それは、なぜなのか。

複数の要素を組み合わせると、要素と結果は、単純な線形の関係にならないことを、我々は知っている。

赤と青の絵の具を混ぜ合わせた場合、赤と青それぞれ独立した色は消え、紫色になる。パンと肉とレタスを組み合わせたハンバーガーは、パンと肉とレタスそれぞれが独立した味でなく、ハンバーガーという異なる味になる。

このように、複数の要素を組み合わせると、要素と結果は非線形的な関係になり得る。そして、採点競技もまた、客観的要素を組み合わせると、採点の計算式は「1+1=2」でありながら、完成度の高さという主観的な評価に変貌する。

つまり、採点競技は、要素と結果が単純な線形の関係ではない。そのため、要素一つ一つを見ても結果は予想できない。そして、予想できないのに期待をしてしまうことで、理想と現実のギャップが起こり、怒りや疑問が生まれる。

そして、怒りや疑問が向かう先は「採点基準が客観的じゃないからおかしい」となるが、そうではなく、客観的な採点基準によって主観的な完成度を評価するという「おかしい」構造によって、「おかしさ」は生まれている。

構造が(変だという意味でなく、単純な線形の関係でないという意味で)おかしいのだから、採点基準をどれだけ客観的にしても、おかしさは変わらない。

採点競技はどうあるべきか?

採点競技が、主観的評価を客観的に評価するものである以上、「採点がおかしい」問題は永遠につきまとう。それは、人でなく機械、つまりAIが採点を行っても変わらない。

サッカーやテニス、野球といった、客観的評価を客観的に評価する競技は、機械で判定することで、客観的評価が強化される。そのため、サッカーもテニスも機械判定の導入が進んでいる。

しかし、体操やフィギュアスケートの場合、機械で客観的に評価することを強化しても、結果は主観的な完成度という評価である。そのため、採点を機械化しても「採点がおかしい」という気持ちは変わらない。

これらを踏まえ、採点競技のあるべき姿は、二つあると感じる。

主観的評価を主観的に評価する

現在の採点競技を、主観的評価を主観的に評価する形へ変更する。

主観的評価を主観的に評価する形で行われるのは、所謂「賞」となる。

映画でいえば、アカデミー賞やカンヌ国際映画祭がある。また、フィギュア同様、踊りという意味でいえば、バレエや舞踊がある。これらは、審査員の「よく出来ている」とか「優れている」といった主観的な評価によって賞が決まる。

そのため、審査員が異なれば、受賞作品も受賞する人も異なる結果になることは容易に想像できるし、それを知った上で、多くの人が賞レースを楽しんでいる。「あの作品が作品賞を取ったけど、俺はこっちの作品の方が好きだ」というような議論を楽しむ。

このように、採点競技を、主観的評価を主観的に評価する形に変更し、オリンピックと同時期、現在の採点競技を集め、「賞」を競う祭典として開催する方法が考えられる。

採点競技の採点は「おかしい」前提で観戦する

そうはいっても、オリンピックと同時期に別の祭典を開くのは考えづらいので、今後も、採点競技は、従来通りの採点方法を維持しながら行われていくと思われる。

そのため、採点競技を観戦する上では、採点競技は「採点はおかしい」ということを前提に観戦するのが、採点競技を楽しむ方法だろう、と感じる。

上述したように、採点競技は、競技を見ても予想できないものであり、期待と結果にギャップが生まれる構造になっている。

だから「採点はおかしい」と感じるのは当然であり、「採点はおかしい」は解消されない。なぜなら、採点競技の「採点はおかしい」構造で作られているからである。

これらを念頭に、採点競技は「そういうものだ」と諦めの前提をもって見るしかないと思っている。諦めの前提を持った上で、演技自体を見て楽しみ、応援するしかない。

それが嫌であれば、残る選択肢は、採点競技を見ない、である。

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