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SNSの普及で、良くも悪くも”型”ができてしまった

最近、「横道世之介」という映画を見た。簡単にいうと、スマホがまだなかった時代の大学生の青春を描いた作品である。

この映画を観て、スマホのなかった時代と、スマホ社会の現代を比べてみて、考えたことを話していきたい

”型”ができてしまったとは

SNSの普及によって”型”ができてしまったと思う。
ここでいう”型”というのは、
世の中の多数派意見によってつくられた基準のことである。詳しく説明していく。

昔、まだスマホがなかった時代の情報源といえば雑誌、テレビなどであった。

しかし、スマホが普及した現代では情報源として、SNSが台頭した。ここで一番重要な部分は、一般人の意見も広く共有されるようになったことだと思う。SNSによって個人の意見も世に出回るようになったのだ。

こうして、たくさんの意見が集まるとどうなるかというと、

多数派の意見が
その世代の”スタンダード”もしくは”無難な正解”として定着してしまうのだ。これが俺が言いたい”型”というものである。

例えば
・理想の恋愛像
・理想のタイプ
・おしゃれなファッション
などが挙げられる。

これらは本来、主観的なもので、はっきりとした正解がないはずだ。

しかし、たくさんの意見が共有、集約されたことで、ただの多数派の意見だったものが、いつのまにか模範解答のようなものになっている気がする。

言い換えると、「いろいろな考え方の相場ができてしまった」ともいえる。今まで、たくさん散らばっていたはずの意見が、多数派に吸い寄せられてしまったということだ。


いい部分

”ある程度、お手本のような”型”が世の中に共有されたおかげで、いいこともある。

ファッションがいい例だと思う。
中高ずっと制服だった人が、大学で急に私服になると、どういう服装をすればいいか困ってしまう。そんなときに、ファッションのお手本があるととても助かるのだ。今では、YouTubeには”モテファッション”なるものを紹介してくれる動画もたくさんある。

おしゃれは主観だからこそ、意見を集約した”型”が役立つのだ。

悪い部分

”型”ができてしまったことで悪いこともある。

それまでは、たくさん個性があり、人それぞれのやり方があったはずなのに、ある意味”これが正解”となるものができてしまった。

そうなるとどうなるか?
”型”から外れたものは、不正解のようになってしまうのだ。

正解となる基準(型)ができたことで、正解か不正解かの分かれ目がはっきりできてしまった気がする。

もっと個性ある遊びや恋愛、ファッションを楽しんだ方がいいと思う。


まとめ

映画「横道世之介」では、スマホのなかった時代の恋愛を見ることができる。

最近のリアルすぎる恋愛映画をみていた俺は、
この映画の、打算とはかけ離れた純粋すぎる恋愛にとても驚いた。スマホのなかった時代の男女は、ここまで違う形の恋愛をしていたのかと。それまで持っていた常識が取っ払われる感覚だった。

SNSの時代で、たくさんの意見が集約された結果、”型“のようなものができてしまった。それは主観的なものにもかかわらず、判断基準が定められているような感じでとても窮屈に感じる。この映画を観て、その窮屈さの正体に気づくことができた。便利な反面、いろいろめんどくさいことも多い。参考にする程度で、そこまで意識する必要はないと思う。人それぞれが自由に楽しんで、自分なりの正解を探すのが一番いいと思う。


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