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(日記) 台風と涙

台風の前日。

車のワイパーが視界を変える度に死角から車と人々が現れた。

その日、大型モールの駐車場は、雨と車でいつもよりもごった返していた。

光る「満車」や使い古しのフェンス、そして慣れた動作で車を誘導する人。

嘆息と諦めを感じる間もなく、まるで思考のそれのように車は次の目標である「より良い場所」を機敏に探し求めていた。

そしてある程度それに成功した時、あの「嘆息と諦め」は、自分が見つけた場所とそのタイミングへの「感嘆」に入れ替わっていく。

「おもちゃさえ買ってあげれば...」

幼児二人を連れての買い物。出発前の楽観論は店に足を踏み入れるや否や、忘れていたいつもの悲観論に変わっていた。

「◯◯してはいけない」

「常識」と言われる無数の圧迫が、「親の責任」という無言のルールが、親の肩に重くのし掛かっているその間に

子供たちは、まるで遊園地のそれのように大声で興奮し、あらゆるものを触っては落とすことを繰り返していた。

「今日は◯◯をしないといけない」

その全てを前にし、予め考えていた理想のプランは、一瞬にして「はやく帰りたい」という一つの願望に変わっていく。その中で、買い物は必然的に必要最小限になっていった。

静かな店舗のど真ん中を大声で走りまわる息子を、敢えて大きな声で責めながら追いかける私。また、妻は見えない角で泣き崩れている娘を、必死に慰めていた。

仕方なく二人を妻に預けている僅かな一人時間。簡単な品選びさえも... 製品パッケージを何度も読んでも、その意味が理解できずに時間だけが過ぎていく。

そうやって妻と私は、互いのタイミングを図らい、子供の面倒を片方に任せ、最短時間で買い物を済ませ、逃げるように店を後にしていた。

「どうしてこんなに大変だろう」
「どうして我が子たちはこんなに無茶なんだろう」誰もが口にするその言葉。

しかしその思いが、その思いへの感情が、自分の視野を狭くし、(まわりへの)気づきを鈍くしていることに、私は気付いていなかった...。

そして、あの小さい子供に向かって何度も苛ついている自分に気づくたびに、

それを妻と子供たちが黙々と受け止めているたびに、「ちっぽけな自分」という気づきが、痛いほど鮮明に跳ね返ってくる。

しかし、私はその気づきを「ありのまま見つめること」ができずに、あの気短な歩幅のように、そこから目を背け、駐車場に向かって逃げるだけだった。

...

窓を叩く風の音で目を覚ました夜中のベッドで、息子は笑いながら楽しい夢を見ていた。

窓の外では、風が柿の木を激しく揺らし、雑草畑を何度もなぎ倒していた。

鳥やカエル、時々見かけるイタチたちは、きっと何処か安全な所で家族を守っているに違いなかった。

また、彼らは次の日には何事もなかったかのように、生きているに違いない。そして「生きること」は、きっとそういうことであった。

それは決して「今日は◯◯をしないといけない」という願望としてではない、記憶や知識では感じ取れない、「常に新しい」ものとして存在するその「何か」であった。

...。

そのとき、窓の後ろで聞こえる「息子の笑い声」が、薄暗い寝室を明るく照らしていた。

私が思わず、その丸い顔を撫でるとき、

「これ以上、必要なものは何もない」という気づきが、揺れる視界、それが涙であることを静かに教えていた。

後記:

子供を、特に幼児を連れていく買い物。
皆さんはプラン通り行きますでしょうか?

台風の前日、大型モールで感じた日常を、
独特の哲学wで回想してみました。

少しでも共感できる内容があれば嬉しいです。

それにしても「子供の寝顔」は、
やはり格別だな〜と思う親バカwです。

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