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これからの「馬と鹿」の話をしよう

 個人的、米津玄師の最高傑作に値する楽曲「馬と鹿」。
 ラグビーをテーマとした池井戸潤脚本のドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主題歌だったこの曲、歌詞のメッセージ性とメロディが合致し過ぎているほど合致していて、彼のボカロ時代から綿々と続くハイセンスぶりを具現化している。
 ではこの時勢、何を以ってして「馬と鹿」たり得るのか? あまりに下らない願いとは何なのか? 今回は、米津玄師が語る「馬と鹿理論」について個人的見解を軸にいろいろ語りたい。

馬と鹿=バカ、ではない?
 字面こそ「馬鹿」であるが、いわゆる「馬鹿」と「馬と鹿」は似て非なるもの、というのが自分の見解である。
 単に「馬鹿」と言えば差別的要因も含まれるが、「◯◯馬鹿」という言い回しは「ある事象に特化し過ぎてそれ以外考えてなさそうな人」というニュアンスを感じさせる。
 思うに楽曲のテーマは後者的意味合いの強い「馬鹿」であると自分は考える。主役が何故「愛」以外の呼び方を知らず、噛み終えたガムの味を感じ取って「終わるにはまだ早い」と言い聞かせていたのかはわからないし、歌詞自体説明していない。
 逆に考えて、主役は自身の感情や意思と強く向き合うが故に「◯◯馬鹿」のニュアンスを有する「馬と鹿」になっていたと思われる。

「馬と鹿」は望まれる心構え
 哲学的に言って、人は何かしら傑出した興味関心なくして己を主張できない。
 人文、理数、スポーツ。差異があるからこそ、その中で人は輝ける。前項の言い回しを用いるなら「◯◯馬鹿」の集団によって文明は形成されるのである。
 日本の場合どうだ。完全否定しないことを前提的に述べておくが、世界各国と比較して保守思想が強大なため、平等な知識と能力をアピールできない輩を切り捨てる非実用的教育がまかり通っている。「差別は文化」と口先で主張しながら、個人の「差別化」には白い目を向ける。
 思うに「馬と鹿」が生まれにくい境遇にあるからこそ、自分はこの楽曲に強い共感ができたのかもしれない。楽曲を保守やリベラルの観点で語るには野暮が過ぎる。とはいえ、苛烈な境遇で育ってきた自分にとって「馬と鹿」のメッセージは「救いの手」だった。自分は自分、何かしら誇るようなことがなくても何かに対して「馬と鹿」になれればいい。その自信を与えてくれた。
 世界のリベラル化が進む中、日本ではインターネット住民を中心に強烈な保守化が進んでいる。無論、「馬と鹿」がリベラルの楽曲と評するつもりはないが、楽曲のメッセージが楔となって響いている事実は看過できまい。

「呼べよ 花の名前を」
 今回はここまで。相変わらず雑感ばかりの文面になってしまったが、少しでも楽曲の魅力を伝えられたなら幸いと思う。
 いつものように、感想や意見などがあればコメントなどでぜひとも伝えて欲しい。

 それでは、また機会があれば。

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