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学びの価値なんて眉唾もの!?

L&Dなんて信用していない。人のポテンシャルなんてはじめから決まっているもので、人材開発なんてまやかしだ。という著名な人事プロフェッショナルのご意見を拝読する機会があった。

真意はわからない。何かしら意図があって敢えての発言だったのかもしれないし、または何らかの文脈付きで理解すべき事案なのかもしれない。しかし、この仕事にプライドを持っている自分としては、これについてはぜひとも別の視点を提供したいのだ。

論点は2つ。

  1. 学びに価値はないのか?

  2. 学びにもし価値があるとするならば、それはどの程度の価値なのか?

もちろんこれに対する私の主張は以下だ。

  1. 学びの価値は否定できない

  2. 学びの価値は圧倒的。今日これほどまで高いROIを生み出せる領域なんて他に考えられない


学びに価値はあるやなしや?

実は、この問いを発している時点で決着はついている。なぜならば、このような問いを想起できること、そして論理化し言語化できること、これ自体が学びによって成立しているものだからだ。我々が駆使している論理、言語、これらは学びの成果にほかならない。もし学びの価値を否定したいのであれば、その主張は、言語に寄らずに行われなければ矛盾した主張になってしまうだろう。

そして2つ目。

学びの価値はどの程度だと言えるだろうか。

数値でこれを語ることは難しいだろう。しかし、比較して考えることならば可能だ。例えば、「これは価値あるものだ」と世間的に合意されているなにかと比較すればよいだろう。

世の中には価値が溢れている。何でも良い。あなたが想像できる最も価値あるものは何だろうか。ただし自然が生み出したものではなく、人類が生み出したものに限定したい。自然が生み出した万物の価値を学びが超えることはもちろんありえないからだ。しかし、人類が生み出したもの、という土俵の上であれば十分に有意義な議論が可能だろう。

金銭的な尺度で考えるなら、世界で最も時価総額が高い(2023年7月8日現在)Apple社の価値。または、民主主義・資本主義の盟主を自認するアメリカ合衆国の価値。歴史を紐解いてもいい。1000年の都を創り出したローマ帝国の価値。4000年の歴史を持つ中華文明の価値。すべてが偉大だ。または、抽象的なものであってもよいだろう。例えば「金利」。アインシュタインがべた褒めしたことで有名な概念だ。「正義」。今の人類社会を成立させる拠り所になっている。

これらはすべて圧倒的な価値が認められるものだろう。もちろん数値化なんてできない。でも数値化できないから価値がないなんて誰も言わない。間違いなくこれらに価値は存在する。(もちろんこれらの価値を認めない自由もあるだろう。ただし、それは、資本主義の枠組みの中で資本主義を否定する書籍を上梓する程度の滑稽さをはらんでいる)

さて、役者は揃った。これらと比較して「学び」の価値はどの程度だろうか。これについても実は簡単なのだ。なぜなら、これら全ては、「学び」の結果生まれたものだから。「文化」「文明」このたぐいのものはすべて、人類が脈々と学びを積み重ねて到達したもの。「学び」なくしてこれらは成立しない。一切学びがない中、一人の天才が、生まれ持った才能のみを頼りになにかすごい発明をしたとしよう。でもそれは、他の誰かに引き継がれていくことなくその人とともに終わっていく。誰かがその天才を引き継がない限り(=学ばない限り)、それは文明には繋がらない。そう考えると、「学ぶ」という行為の価値は文明そのものに匹敵する価値を持つものとも言えるかもしれない。

まあ、そこまで大げさでなくてもいい。でも、少なくとも、文明を成し遂げるために「学び」が一定の貢献を果たしているのであれば、それは十分に価値あることだとは言えないだろうか。

学びの価値は大きくても、L&Dには価値がない?

さて。一つ反論を想定する。冒頭の話は「L&D」という機能に関する話であり、「学び」の話ではない、と。

その話であれば理解はできる。確かに「L&D」という機能が常に価値を生む訳では無い。残念だけれど、ただの無駄遣いになっていることすら往々にしてあるだろう。でもだからといって「全てのL&Dは無価値だ」というのはあまりに乱暴だ。まずい寿司を一口食べたからと言ってすべての寿司を否定するのと変わらない乱暴さだ。

まず、この議論の前提として「L&D」のスコープに誤解がありそうな気がする。おそらく「L&Dには価値がない」は、「研修に価値がない」と言っているように思える。「L&D」は「研修」ではない。「学び、成長する環境づくり」が仕事だ。研修はスコープのごく一部。だからもし「研修の効果」の話をしているのだとしたら、ちょっと視野が狭いと言える。寿司の例で言うならば、納豆巻が美味しくないからと言って寿司全部を否定しないでほしいということだ。

それでも「研修」を議論したいだろうか?もちろんそこまで絞ってもらっても何ら問題はない。では、「研修」は無価値なのかどうか。この議論をしてみよう。

研修には価値がない?

このときいつも話題になるのが「数値化」の話だ。「測定できないと改善できない」という言葉を引き合いにして、「効果が数値化できない時点で研修は眉唾物だ」と主張する向きもある。ちょっと待ってほしい。「効果測定」は、別に数値化しなくたって可能だ。要は、投資に見合う価値を生み出せているという説明ができればそれで良い。(ちなみに数値化できなければ価値がないと言うのがどれだけ暴論かというと、高級寿司に存在価値を認めないと言っていることと同じだ)

例えばよくあるリーダーシップ研修。参加者は新任管理職30名。投資額は100万円。この研修の価値を考える。

どのような成果が期待できるだろうか。もちろん30名全員が生まれ変わったようなパフォーマンス改善につながる訳では無い。しかし、控えめに考えるとして、1名だけでもいい、何かが響くくらいは起こってもいいだろう。

で、その1名に、もしかしたらこの研修のお陰で管理職としての活躍の道筋がはじめて見い出せた、なんていうことが起こるかもしれない。プレーヤー気質が抜けずにチームの仕事を全部自分で抱えてしまい悩んでいる管理職が、「マネージャーにとっての成果とはチームの成果の総和なのだ」と気づくだけで一気にマネージャーとして花が開く、そんな例を私はいくつも知っている。

さて。この1名は、数年後、成熟したマネージャーとなり、一部署を率いて年間1億円の売上を立てるようになったとしよう。一方、もしかしたらこの人は、マネージャー研修を受けなければ、成功できずに潰れてしまい、退職していたかもしれないのだ。もし将来を期待されていた幹部候補が退職してしまったとしたらおそらくそのマイナスインパクトも結構大きいが、一旦それはカウントしないとしよう。とすると、研修を行った事によって生まれた結果から行わなかった事で生まれたかもしれない結果を差し引いたリターンは、10年間で10億円だ。

さて、ROIを計算しよう。リターンは10億円。インベストメントは100万円。ROIは、、、、100,000%。20年間なら200,000%。

もちろん仮定の話だ。ではもっと厳しい仮定をおいても構わない。例えば、このマネージャーは、研修を受けなかったとしても会社をやめず、自助努力で一年後にパフォーマンスを改善し、研修を受けたパフォーマンスまでキャッチアップできたかもしれない。そうであったとしても、1年間早く成果を挙げられるようになったのなら、そのリターンは1億円になる。または、成果を上げたという結果に対して、研修の直接的な貢献はごく一部かもしれない。なら、その中で研修の貢献は、5分の1程度だろうか。10分の1でも良い。さて、この2つを加味したROIを見てみよう。1億円の10分の1は1,000万円。それに対する投資額は100万円。さて、ROIは、これでもまだ1,000%だ。 

しかも、これは30人の受講生のうち1名のみが成長する、というシナリオだ。現実的には1名どころか10名だって20名だってインパクトを提供し得る。その途端にROIは10倍、20倍になる。どれくらいインパクトを出せるかどうかは、まさにL&Dのインストラクショナルデザインの腕の見せ所だ。デザイナーの実力次第でリターンは劇的に変わる。

かなりの仮定を置いたが、シビアなシナリオであってもそのROIは圧倒的。わずか3,4%のリターンのためにしのぎを削っているのがビジネスの常である中、こんなに割の良い投資はあるだろうか。

ラーニングこそが、最もROIの高い投資だ。

ということで、だいぶ膨らんでしまったのだが、結局のところ私が言いたいのは、学びの価値を否定するというのはなかなか難しいですよ、ということだ。そんな主張を展開するための論理や、言語や、SNSの使い方や、そういうものはすべて、生まれ持ったものではない。もし学びの価値を否定するならば、生まれたときから何も学ばずに今の仕事をできるようになった方からその話を聞いてみたい。そこから私は学びを得ることになるのだけれど。

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