『灰羽連盟』-過ぎ去ったクラモリと取り残されたレキ-

anonym/あのにむ(@lhnt_1990)さんに

私が、ずっとそばにいるから…。(『灰羽連盟』レキの回想におけるクラモリ)

私はあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(『ヨハネ福音書』14章18節)

 親しい他者との別れ。「死」。「死」は、自分のそれに際してであっても、他者のそれに際してであっても、あらゆる人にとって厳しい現実であろう。それは厳しく厳粛な、真剣な事実であろう。死は、死に行く人の問題であるばかりでなく、残された人の側の魂の課題でもある。『灰羽連盟』の灰羽たちはいつか「時」が来ると過ぎ去り行く者となる。劇中ではそれが「死」のことだとはっきり言われるわけではない。だが、その灰羽が同胞と別れる「時」は、常に衝撃的な出来事として灰羽たちの心に刻み込まれている。クラモリが去ったときも、クウが去ったときもそうだったであろう。その受け取り方は灰羽たちそれぞれに差があるだろうが、その様子は、人が「死」に際して身を持って体験する現実性の真剣さに近く、「神妙」という言葉がぴったりである。その描写は、鑑賞者たる我々においてすらそうならざるを得なくなるくらいではなかろうか。ここでは『灰羽連盟』におけるレキのクラモリについての回想を取り上げ、この「死」に際する「神妙」の問題との関連を記しておきたい。

 「神妙」という言葉にも既に関連のあることなのであるが、人が自分や他者の「死」に際して身をもって体験するこの「神妙」は、聖書における「パラクレートス(真理の御霊・聖霊・助け主)の宿り」、即ち精神の提立ということと関連がある。『ヨハネ福音書』イエス・キリストは次のように語っている。

 私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。これは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 (『ヨハネ福音書』14章16節)

 助け主、即ち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがたに全てのことを教え、また私が話しておいたことを、尽く思い起させるであろう。(『ヨハネ福音書』14章26節)

 「私は去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る」と、私が言ったのを、あなたがたは聞いている。もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。(『ヨハネ福音書』14章28節)

 私は本当のことをあなたがたに言うが、私が去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。私が去って行かなければ、あなたがたのところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなたがたに遣わそう。(『ヨハネ福音書』16章7節)

 この箇所の前後全体がそうであるが、イエスは、自分の死が弟子たちの益になることを告げ、パラクレートスが如何なる働きをするかを具体的に述べている。イエスの死によって、イエスが生前にその生身の身を以て語った言葉は、一人一人の使徒の魂の中で甦り、復活する、ということである。それはとりもなおさず、使徒たちが精神を提立するということである。イエスはかつて使徒たちとともにいた。しかしその事実が、まさしく彼らをして本当にそれを信じることができないようにさせていた。それがイエスの死によって真剣さを帯びるのである。イエスは生前に語ることは全て語っていた。使徒たちには既に十分に告げられていた。だが彼らはイエスの生前中は理解しなかった。イエスが個人的に彼ら使徒と共にいた時には、彼がはっきりと言ったにも拘らず、使徒たちは誤解した。イエスが死んだとき、その時に初めて使徒たちは精神となり、彼を理解したのだった。それは、人間精神が直接性の散乱から自分自身において明らかとなるように収縮して自らを永遠の妥当性において意識するようになる瞬間であり、成熟であった。

 人の生活には直接性が恰も成熟し、精神がより高い形式を要求し、自らを精神として把握する瞬間が現れる。直接無媒介的な精神としては人間は地上的な生活の全体と連関を持つが、今や精神がこの分散した状態から凝集に向かわんとし、自らの中で明瞭になろうとする。人格はその永遠の妥当性において自己自身を意識するようになる。(セーレン・キェルケゴール『これか-あれか』第二部:人格形成における審美的なものと倫理的なものの均衡)

 このイエスとその死を通じての使徒の状況は、今も現在していることであり、万人に当て嵌まることである。その状況とは、自分の人生を決定づけた人の死が、実はその人との新たな出会い、つまりセーレン・キェルケゴールが言うところの「受取り直し(Gjentagelse:Gjen(再び)+Tagelse(受け取る))」なのだということである。イエスが使徒たちに向けて「私は去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る」と言ったこの言葉は、まさにその死によって使徒たちにおいて精神の提立、パラクレートスの宿りという「受取り直し」のかたちで実現した。イエスは使徒たちの中から消え失せたのではなく、生前よりもその言葉や生き様が彼らの心に迫ってきたのである。こうしたことは自己の死及び他者の死に際して我々が神妙とならざるを得ないその態度と無縁ではない。実はこの「受取り直し」と同じことが(途中までではあるが)レキとクラモリの間にも起きている。クラモリは「私が、ずっとそばにいるから」とレキに約束した。しかしクラモリにも灰羽において必ず平等に訪れるという過ぎ去りゆく「時」が訪れた。クラモリはグリの街を去っていった。レキはこれを回想していた時、灰羽の宿命のことは分かってはいても「約束したのに…」と否定的にとらえている。だがクラモリは最初から最後まで約束を破ってはいない。クラモリが過ぎ去りゆく者となったとき、レキにおいてその別れは、その回想自体がよく表しているように、クラモリとの新たな出会い、「受取り直し」が生じているはずなのである。筆者には定かではないが、もしもレキがラッカに見せたクラモリの絵が、クラモリの去ったのちに描かれたものであったとすれば、それもまたこの「受取り直し」の衝撃がいかばかりのものであったかを示すものではないかとみるのである。あのクラモリの絵は、レキがクラモリを生者以上に生き生きとした存在として思い、描き出そうとして描かれたものだったのではなかろうか。

 しかし、イエスとその死に際した使徒たちとは異なる側面もある。これはレキにおいては罪憑きという「病」(筆者はこれをキェルケゴールの「死に至る病」と捉えている)から癒えていないということから推測されることである。罪憑きという「病」は、絶望-懐疑であり、憂愁=精神のヒステリーであると見立てられる。それは「信じる」ことができない者の「病」である。使徒たちにおいて「受取り直し」、即ちパラクレートスの宿り=精神の提立が起こったように、レキにもこの運動は起こったが、しかし彼女においてはその運動が停止して押し戻されてしまったとみることができる。憂愁はそういう時に生じるのである。

 憂愁は罪であり、本来それだけで他の全てに匹敵する罪である。なぜならそれは深く心から欲しない罪であり、あらゆる罪の母だからである。(キェルケゴール『これか-あれか』第二部:人格形成における審美的なものと倫理的なものの均衡)

 クラモリという存在は、過ぎ去り行く者となることによって、使徒たちに対するイエスのように、精神として、レキに対して「想起」というかたちでの精神(霊)の働きかけによって、常に彼女と共にあるということをもたらすことがその目的の一つに数えられるという描写になっていると思われる。クラモリの真名が「蔵守」であったとしたら、蔵(全てを包み込む者)-守(弁護者つまりパラクレートス)という解釈が可能となるであろう。クラモリが蔵守であること、それが彼女の存在した目的=根拠だったのだと。彼女は過ぎ去る行く者となる前も後も、全てを包み込む者として、或いは精神として、レキ(またネムなど彼女と共に生きた灰羽たち)と共にあるのだ。しかしそれだけでは彼女を「信じる」ということに至らせることはできなかった。むしろ彼女の絶望-懐疑、憂愁=精神のヒステリーは深まったであろう。だが、実のところこの絶望-懐疑、憂愁のプロセスは、長期的に見れば実は「病」であると同時に、「信じる」ことへの契機でもあるという相互対論が成立している。

 私は憂愁に陥るのはある意味では悪いしるしではないということを認めてあげたい。なぜならそれは一般に最も才能豊かな本性に限って襲うものだからである。[…]憂愁は精神の中に潜むのだから精神だけがそれを除くことができる。そして精神が自己自身を見出せば、あらゆる些細な憂い事、つまりある人々にとってその考えによるところの憂愁を引き起こす理由、この世に関わる仕方が分からないとか、この世に生まれてくるのが遅すぎたとか早すぎたとか、生活の中で自分の位置を見出すことができないとかいうようなものは尽く消滅する。なぜなら、自己を永遠に所有した者は此の世に生れ出るのが早すぎも遅すぎもしないし、自己自身を永遠の妥当性において所有する者はこの生活における自分の意義も十分に見出すからである。(セーレン・キェルケゴール『これか-あれか』第二部:人格形成における審美的なものと倫理的なものの均衡)

 レキが「信じる」ということ、即ち「絶疑」し、自己自身を見出すに至るには、なお5年の歳月を要した。ラッカと出会い、彼女に助けを求めるその日まで。

(以下にはなにもありません。投げ銭チケットとなっております。お気に召しましたかたの中で気前のいい方がいらっしゃいましたら押していただけますと幸いです。本ノートはあのにむさんからの呼びかけがなければ成立していなかったと思います。その意味であのにむさんへの謝辞として冒頭にアカウント名を掲げさせていただきました。なお、レキについての詳細な考察はまた別の機会にまとめられたらと思います。)

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