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装甲騎兵ボトムズ考察4:ラ・ロシャットら異能者たちの反乱と罪責について

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4.ラ・ロシャットらの反乱と罪責について

 過去三千年の歴史について
 正しい批判を成し得ないひとは
 無知なるままに闇にいるがいい
 その日暮らしですごすにしても
(ゲーテ『西東詩集』「旅人の心の落ちつき」)

 前章の末部において、私はキリコを「この世」に「投げ込み」、その権能をもって「頽落した在り方」をもたらした張本人であるにもかかわらず、キリコの過去を剥き出しにして彼を狼狽えさせ、彼の不安を煽り、「寝ている子どもを起こす」かのような真似をしたのも、同じワイズマンであり、この辺りの入り組んだ事態にもまた固有の意味があるということ、そしてそこにもグノーシス的な「擬態」が存在するということについて指摘しておいた。この辺りを考察するためには、ワイズマンがどのようにして誕生したかにまで遡ってみる必要がある。

 ことはまず、ボトムズ本編の時代から遡って約三千年前の、アストラギウス銀河のほぼ中心に位置するクエント星におけるある出来事から始まった。クエントにおいて文明が発生したのは約八万五千年前のことだとされるが、その文明が頂点に達したのが約三千年前であった。しかしクエント文明はその頂点に達したところで、同時にその文明の終焉を迎えることとなった。その原因となった人物が、時のクエント人であったラ・ロシャットであった。ロシャットは異能生存体として優れた能力を持っていたが、同時に狂気的なまでの極端な選民思想の持ち主でもあった。その選民思想はやがて全銀河はクエント人によって支配されるべきだ、という考えへと行き着く。そしてロシャットをリーダーとして、ロシャットに賛同する者たちによって当時のクエント社会に対する反乱が起こる。しかし、この反乱は当時のクエント社会の指導者ト・メジ師の迅速な対応によって鎮圧された。だが、ロシャットらの反乱軍は少数であったにもかかわらず、勝者となったト・メジ師側の犠牲と損害は甚大であった。というのは、ロシャットをはじめ、反乱側の人々は共通して強靭な体力と知力、そしてあらゆる状況下においても生きられるほどの超人間的な力(驚異的な治癒回復力等)を有していたからであった。クエント人たちは、このような異能者たちが生まれることを警戒するようになった。生き残った異能者たちはクエントから追放され、異能者を生み出すことになった自らの文明を過去の過ちとして葬り去り、原始的生活を営むようになっていった。クエントの伝承の一節には「手を加えられた民を恐れよ、彼らをつくり出す力を恐れよ」とある。こうして古代クエント文明は終焉を迎えることとなった、というのが約三千年前のロシャットらの反乱の顛末であった。

 ラ・ロシャットら反乱を起こした異能者たちは、後々ワイズマンを構成することになる者たちである。彼らを実存論的分析にかけてみると、彼らの実存論性は極めて「この世的傾向」の強い、逸脱した欠陥のある「頽落した在り方」をしていることが明らかである。前章で説明した、本来的自己の忘却・隠匿と言う意味での「無感覚」「無知」「眠り」「酩酊」「死」などといった象徴語と同じ非本来的な自己の在り方を、彼らがしているということである。また、彼らにおいては「頽落した在り方」を構成している「実存カテゴリー」の諸概念の一つとして考えることのできる「倨傲」(ヒュブリス)が特に目立っている。ワイズマンを構成することになる異能者たちの、神的なものの力を手にして傲慢に満ちた思想を抱き、やがて自らこそが神としてこの世の支配者たらんとする既存の体制に対して反乱を起こし、挙句失敗して追放されるという流れは、古くからある神話的モチーフでもある。旧約聖書『イザヤ書』は、天にのぼり、自分の玉座を神の星の上に置こうとしたがために、地に落とされた明けの明星(ルシファー)について次のように語っている。「ああ、お前は天から堕ちた、明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。諸々の国を倒した者よ。かつて、おまえは心に思った。「わたしは天にのぼり、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴のそこに」(『イザヤ書』13章12節)。また、ト・メジ師の鎮圧軍とロシャットの反乱軍の対決と前者の勝利に関しては新約聖書『ヨハネの黙示録』第12章7節に見られるミカエルと龍の闘いとその顛末にそのモチーフを見出すこともできるだろう。「天上で闘いが起こった。ミカエルと彼の天使たちとが龍と戦うためであった。龍とその使いたちも戦った。しかし、龍は勝つことができず、彼らの居場所も、もはや天上には見いだせなかった。この巨大な龍は投げ落とされた。この太古の蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者、この者が地上に投げ落とされ、また彼の天使たちも、彼もろとも投げ落とされた」(『ヨハネの黙示録』12章7-9節)。本論稿の冒頭から取り上げているマンダ教文書の『ギンザー』においてこの神話的モチーフに該当するのは、光の超越的世界の出でありながら、自立した存在となり、根源とのつながりを粉砕して、そこから歩み出し、自らの自立性を試そうとして、自分自身の宿命がもたらす罪責と大胆不敵な行為に墜落した光の存在であるウトラ(「冨」「豊かさ」の意)たち、ないしそのウトラたちが接近してきて罪責を犯すや、勢力を増して自分自身の活動を開始し、ウトラたちを駆り立て、かつ絡めとりながら、自らの勢力圏としての「この世」を生成しまたそれを我が物とせんとする「闇」の勢力である。「(第一のいのちは)大いなるマーナーの姿で立った。それはこのマーナーから出てきたのである。そしていのちは自分自身に願いを立てた。その最初の願いによって、一つの霊的ウトラが成立した。そのウトラを、(第一の)いのちは第二のいのちと名付けた。その第二のいのちは更なるウトラたちを創造し、シェキーナー(王国)の礎を据えた。……三柱のウトラが成立した。彼らは第二のいのちに願いを立てた。彼らが願ったのは、自分たちのためにシェキーナーを創造することだった」。彼らはそうすることを許されて自分たちの意図を実行する。「それから彼らは彼(第二のいのち)に言った。「あなたの輝きとあなたの光、その他あなたがお持ちのものを、私たちにお分けください。私たちは発って川の流れの下側まで降りていきたいのです。私たちはあなたのためにシェキーナーを呼び出し、あなたのために世界を創造し、その世界が私たちのものであり、あなたのものであるようにしたいのです。私たちはその世界の中に足を据え、そこに居を構え、そこにウトラたちを創造したいのです」。彼(第二のいのち)には、このことが気に入った。そこで言った、「私は彼らにそうすることを許そう」」。これは原存在たる至高神が「おのれを時間化する(sich Zeitigen)」ことで根源となり、その根源から派生したウトラたちの間に、自分たちのシェキーナーを立ち上げ、自分たちのための一つの世界を創造したいという欲望が生じたということ、つまり、ウトラたちが「自分自身が自立して神になりたい」という誘惑に駆られたことを表している文である。その結果として、ウトラたちがもともとの光の秩序から離脱して墜落するという最初の罪責が生じる。「第二のいのち」がそうすることを許したわけだが、大いなるマーナーないし第一のいのちにおいてこのことはよろしくないことであった。そのことによって今やこの原存在たる至高神自身が行動を起こして「いのちの認識(グノーシス)」を意味する使者「マンダ・ドゥ・ハイイェー」を創造して、かつ任命しなければならなくなる。マンダ・ドゥ・ハイイェーとはその名の意味からして「グノーシスそのもの」を擬人化して表現したものである。「(マンダ・ドゥ・ハイイェーよ、)お前は、ウトラたちの上に立って、彼らがしていること、考えていることを調べるがよい。彼らは、我々力あるウトラたちと光の子らと同じように、自分たちで世界とシェキーナーを造りたい、と言っている。……マンダ・ドゥ・ハイイェーよ、光のウトラたちが光の許を離れて、顔を闇の方へ、大いなる〈葦の海〉の方へ向けたのは、お前の可とすることか。……見よ、ウトラたちは何を目的に話し合っているのか。なぜ彼らの心は混乱してしまったのか。お前は、彼らよりも先に降りて行くがよい。彼らが世界に着いて、我々にとっておぞましく、好ましからぬこと、いのちのとって正しくなく、マンダ・ドゥ・ハイイェーよ、お前にとってはよからぬことを為す前に」。マンダ・ドゥ・ハイイェーは命ぜられるままに大いなるマーナーの許を発って、最初にいのちの館に到着する。すると第一のマーナーが次のように言う。「マンダ・ドゥ・ハイイェーよ、お前の見た通りだ。ウトラたちは何をしているか。彼らは何をあれこれ謀っているのか。お前が見たように、彼らはいのちの館を離れて、顔を闇の場所の方へ向けた」(G66-70)。そしてマンダ・ドゥ・ハイイェーは、ウトラたちを絡めとり、取り込むことで、自らの勢力圏としての「この世」を生成しまたそれを我が物とせんとする「闇」の勢力を目撃する。「私はいのちの館に立った時、反逆する者たちを見た。……私は深淵を、全くの闇を見た。私は破滅をもたらす者たちを、そして闇の住居の主を見た。……悪しき者たちが炎のように燃え上がり、欠乏と過ちをもたらす知恵を絞っている。……彼らは光の場所に逆らって、良からぬことを謀っている」。そして第一のいのちがマンダ・ドゥ・ハイイェーに命じて言う、「お前は闇の反逆者どもに向かって出陣するがよい。彼らは我々に逆らって悪しきことを謀っている……」。マンダ・ドゥ・ハイイェーは第一のいのちの力によって、あの闇の場所へと向かった。そして彼は反逆する闇の怪物たちに出会う。「彼らは全員で悪を謀っているところだった。……闇の王は強大な力で、荒ぶって、自分の住民の中を動き回り、叫んで言った、「誰にもせよ、この俺よりも強い者がいるか。諸々の世界がこぞって喜んでいるこの俺よりも強い者が。……もしいたらその者は立って、この俺と闘うがよい!」」(G77-80)。この後、マンダ・ドゥ・ハイイェー対闇の勢力の大戦争が始まり、激しい戦いの末にマンダ・ドゥ・ハイイェーが勝利するという展開を迎えることになる。

 ロシャットら異能者たちは、後に生み出されることになるキリコと同様に超人間的なものの力の源泉としての「いのち」=「光」(グノーシスの光の種子)を有していると想定される。しかし、彼らにおけるその光の種子は、マンダ教文書と比定すると、「思慮の足らないウトラたち」の虚栄心が、世界創造への衝動を誘発させる存在としての驕り高ぶる闇の勢力に導かれるままに、この世へと引きずり込んで墜落したものだと位置づけられる。「その宝(光の種子)は、ここから運ばれていくものだ。思慮の足りないそのウトラたちがそれを取りに来て、やがてあの世界(この世)へと運んでいくであろう。彼らはそれを泥の中に突っ込んで、色のついた肉を着せるだろう。……そして朽ちていく衣をまとわせるだろう。……そして欠乏と過失をもたらすだろう。……彼らの間に誤った考えが生まれてくるだろう……」(G96)。このような光のウトラたちの墜落は、ヨナスがギリシア神話におけるナルキッソスの悲劇にちなんで「ナルキッソス・モチーフ」と名付けたものの擬態の一つとして挙げられるものである。このナルキッソス・モチーフには多数の変形した擬態がある。たとえば『ヘルメス選集1』には次のような記述がある。「死ぬべき、ロゴス無き生き物の世界に対する全権を持つ者(アントローポス)は、力をして突き抜けさせて境界面を通して覗き込み、下降するフュシスに神の美しい似姿を見せた。フュシスは、尽きせぬ美しさと、支配者たちの全作用力と、神の荷姿とを内に持つものを見た時、愛をもって微笑んだ。それは水の中にアントローポスの甚だ美しい似姿の映像を見、地上にその影を見たからである。他方彼は、フュシスの内に自分に似た姿が水に映っているのを身てこれに愛着し、そこに住みたいと思った。すると、思いと同時に作用力が働き、彼はロゴス無き姿に住み着いてしまったのである。するとフュシスは愛する者を捕まえ、全身で抱きしめて、互いに交わった。彼らは愛欲に陥ったからである」(『ヘルメス選集1』)。ここには「愛欲」が根源的悪として人間を支配しているという思想が見られる。そしてその根源的悪が、人間(アントローポス)が水に映った自己の姿に愛着するということによって「罪」として発生するという話になっている。また、若干の変形が見られるが、『ナグ・ハマディ文書』において語られる悪しき造物主「ヤルダバオート」の誕生についての記述も、このナルキッソス・モチーフの擬態として挙げることができる要素がある。「……ひとつの言葉が大いなる光エーレーレートから出た。そして彼は言った、「私は王である。誰が混沌の者であり、誰が陰府の者であるのか」。そしてこの瞬間に彼の光が出現した。輝きながら、エピノイアを持って。諸力の諸力が彼に願ったのではない。そして直ちに大いなる悪霊も現れた。彼は陰府の混沌の深淵を支配するものである。彼はかたちを持たず、完全でもなく、そうではなくて闇で生まれたものどもの栄光のかたちを持つものである。ところで、この者が「サクラ」即ち「サマエール」「ヤルダバオート」と呼ばれるものである。彼は力を受け取った者、無垢なるもの(ソフィア=エピノイア)から力を奪った者、最初に彼女を打ちひしいだ者である。彼女は降ってきた光のエピノイア。彼女から大いなる悪霊(ヤルダバオート)が元来出てきたのである」(『三体のプローテンノイア』§10)。「……彼女(ピスティス・ソフィア)は混沌(希:χάος)の物質の上に、即ち生まれ損ないのように投げ捨てられた物質の上に現れた。なぜなら、その生まれ損ないの中には霊がなかったからである。なぜなら、これら全ては無限の闇であり、底知れぬ水だからである。[この闇は最初の業のあとに続いて来た糞(もしくは流産)の種族であり、ピスティス・ソフィアの過失から深淵の中に現れてきたものである(つまり、「この世」の根源はピスティス・ソフィアの糞だということ!)]。さてピスティスは、自分の過失から生じたことを見た時、動揺した。その動揺がある恐れの業を明るみに出した。それは混沌の中へ逃げ込んだが、彼女はそれに向かって近づいていった。あらゆる天の下方にある奈落で、その顔に息を吹き付けるためであった。だが、霊を欠いたそれが一つの形をとって、物質とあらゆる諸力たちの上に君臨するようになることがピスティス・ソフィアが望んだ時、まず一人のアルコーンが水から現れてきた。彼は獅子に似ていて、しかも男女(おめ)であり、ある大いなる権能を彼自身の中に持っていたが、自分が何処から生じてきたのかを知らなかった。さて、ピスティス・ソフィアが水の底に彼が動くのを見た時、彼に、「若者よ、こちらの場所に渡って来なさい!」と言った。その意味を解けば、「ヤルダバオート」である」(『この世の起源について』§10)。ナグ・ハマディ文書においてはこの「ヤルダバオート」「サクラス」「サマエール」等が旧約聖書のYHWHの蔑称として用いられ、旧約聖書『イザヤ書』の45章5節「私が主、他にはいない。私をおいて神はない」、同45章21節「私をおいて神はない。正しい神、救いを与える場合私の他にはない」、同46章9節「私は神、他にはいない。私は神であり、私のような者はいない」に当たる言葉を叫んだとして、それが偽りの神の傲慢な言葉であり、そのことによって罪を犯したと強調して価値転倒を引き起こさせている。「彼らの大いなる者は盲目である。彼の権力と彼の無知と彼の傲慢さの故に、彼は彼の権力に任せて、こう言った。「私こそが神であり、私の他には誰もいない」と。彼がこう言った時、彼は不死なる方(至高神)に対して罪を犯したのである」(『アルコーンの本質』§2)。「[獅子に似た傲慢な]獣(ヤルダバオート)は目を開いた。彼は無窮の物質を見た。そして傲慢になって、言った、「私こそが神である。私の外には何者も存在しない」と。彼はこう言った時に、万物に対して罪を犯したのである」(『アルコーンの本質』§23)。「……諸々の天とその諸力とがあらゆる組成を備えて固まった時、アルキゲネトール(ヤルダバオート)は自分を誇った。そして天使たちの全軍勢によって賞め讃えられた。全ての神々とその天使たちは彼を祝福し、賞め讃えた。彼は心の中で喜び、ますます誇り昂ぶり、彼らに向かって言った、「私は他の何物も必要としない」と。彼はさらに「私こそが神である。私の他には何者も存在しない」とも広言した。しかし、彼がこう言い放った時、彼は不死なる者たちに対して罪を犯したのである。彼らはそれを受け止め、裁きのために保留した」(『この世の起源について』§23-24)。

 これらグノーシス神話における「ナルキッソス・モチーフ」の擬態の数々は、「この世」ないし「この世的なもの」の創造ないし「この世」の創造者・支配者の誕生自体が、のちのち贖われるべき「罪」を帯びたものとして、超克されるべき「悪」として位置づけられたうえで神話において描き出されている。先の章で私は、グノーシス文書に見られる「被投性」の本質の特徴の一つに「罪」(他所ものにとって異質である「この世」における生誕そのもの、及び「この世」という異境に慣れて住まうことそのもの。さらにそれらが罪責のある所与によるものでもあるということ)を挙げておいた。それは現存在の実存論性としては「頽落した在り方」(「非本来的自己」=「世人(das Man:地上的なもの・この世的なものに心を奪われて、この世に堕して生きている人間)の在り方」に没入していること)そのものと相関している。再び述べておくが、ロシャットら反乱を起こした異能者たちを実存論的分析にかけると、そこから抽出できるのは、「倨傲」を始めとする、本来的自己の忘却・隠匿と言う意味での「無感覚」「無知」「眠り」「酩酊」「死」等という、中毒症状を表す象徴語群で表される、まさにこの「頽落-罪-悪」にかかわる実存カテゴリーを構成している諸概念である。このような彼らがのちのちアストラギウス銀河の支配者となるワイズマンを構成する者たちとなる流れが、以上に挙げてきたマンダ教文書における「思慮の足らないウトラたち」ないし「闇の勢力」にまつわる神話、『ヘルメス選集1』におけるアントローポスが遥か下界にある自分の似姿を認めて下に降りて行き、フュシスに絡みつかれて呑み込まれてしまう神話、『ナグ・ハマディ文書』におけるヤルダバオートの誕生にまつわる神話に共通して見られる「ナルキッソス・モチーフ」の擬態であるとみなすことができるのである。ロシャットら反乱を起こした異能者たちは、この光の種子を、自らの力として利用せんとしてこの世において捕囚状態とした闇の勢力と同様の、倨傲に満ちている者たちなのである。

 ここまで述べてきたことは、ボトムズ本編からすれば「前史」と呼べるようなものの考察であるが、ラ・ロシャットら異能者たちの「罪-悪」は、ト・メジ師による鎮圧と配慮にも関わらず、それでは滅び去ることがなかった。マンダ教文書が語るマンダ・ドゥ・ハイイェーと闇の勢力の戦いも、前者の勝利で終わるものの、それで終わるわけではなかった。どちらもこの段階では、「光と闇」の戦いという神話の流れにおいては、いわば「第一ラウンド」に過ぎない。敗北後の異能者たちは未だ「この世を支配すること」に執着しており、別の仕方でのアストラギウス銀河の支配、つまりワイズマンを構成してのアストラギウスを影から支配することへと向けて行動を起こす。マンダ教文書の闇の勢力も、先に触れたマンダ・ドゥ・ハイイェーとの戦いでは滅び去ったわけでなく、「光と闇」の戦いの「第二ラウンド」が開始される。この「第二ラウンド」においては、この「光と闇」の最初の戦いが別の仕方で継続され、最終的な決着がつけられる。この「光と闇」の戦いの第二ラウンドにおいてつけられる最終的な決着においては、既に第一ラウンドにおいて発生している「贖われるべき罪」、「超克されるべき悪」が、まさに贖われ、超克される宿命として遂行されることになる。光と闇のこの最終的な決着においては、光の一部がもっと完全かつ無条件な形で闇の中へ入り込まなければならないとされる。それは、闇とこの上なく緊密に連動する仕方で、その野蛮さを打ち破り、かつ、闇の固有な力を最終的に破壊するためである。この宿命において闇の勢力は、それと知らないまま自滅する宿命にある。私見では、この「第二ラウンド」に相当するのがボトムズにおいては本編ストーリーそのものである。この第二ラウンドにおける光と闇の戦いの最終的な決着が、ボトムズ本編におけるワイズマンにおいて、ワイズマン自らが異能者として生み、また異能者として覚醒させようとしたキリコによって殺害されるという、「自滅」というかたちをとって遂行された。詳細の考察は後述に回すが、ワイズマンが最終的にキリコによって殺害されるという結末は、かつて三千年前にワイズマンを構成することになった異能者たちの犯した罪のゆえに宿命付けられていたことだったのだと思われる。マンダ教文書のマンダ・ドゥ・ハイイェーは、光と闇の戦いの第二ラウンドに向けて、そのドラマの新しい幕開けを闇の勢力に次のように告知している。「……愛された御子がやってくる。光の輝きの懐で形作られた御子が。……彼の模像は彼の場所でしっかりと守られている。彼はいのちの輝きとともにやってくる。父(至高神)が下した命令を携えて。彼は生きた火の衣を纏ってやってきて、おまえの世界を訪れる。……濃くするものをもたらして、それを水の中に投げ入れる。……活ける火をもたらして、それを濁った水に投げ入れる。自分に一つの世界を創造する。そして力強い者たちに似た建物を建てる。いのちの館から輝きをもたらして、自分のシェキーナーを照らす。世界に一人の王を立てる。そしてその身体の中へ、魂を投げ入れる。……活ける火の力によって喰い尽くす火が語る。……そして、あれもこれも、全てのものがその火から成立する。木々の葉と花々と草々が生じて……この世界の中で輝く時、活ける水と活ける火の芳香で、世界の嫌な臭いもよい香りとなる。……三柱のウトラがやってくるだろう。そして魂たちを見守るだろう。いのちからの呼びかけを聞き取らせ、崩れんばかりのこの家を照らすだろう」(G90-92)。この「愛された御子」、「光の輝きの懐で形作られた御子」、「いのちの輝きとともに生きた火の衣を纏ってこの世にやってくる王」に当たるものこそは、実はワイズマンを通して異能者として生み出され、また異能者として覚醒しながらも、ワイズマンを殺すに至る『装甲騎兵ボトムズ』の主人公である「輝けるアウトロー」である「他所もの」、キリコ・キューヴィーに他ならない。キリコはかつてワイズマンを構成することになったロシャットらと同じ「異能者」と呼ばれる者ではあるが、彼の場合、その超人間的な力の源泉ともいうべきグノーシスの光の種子は、「思慮の足らないウトラたち」が、その虚栄心から、闇の勢力の誘惑に駆られるままにこの世へと引きずり込んだものというよりは、マンダ・ドゥ・ハイイェーと同様に、光の使者が「王」として、やがては放逐されるべき異質な領域に置かれたものである。「お前は我々から切り取られはしない。我々はお前とともにいる」とマンダ教文書の至高神(第一のいのち、マーナー)はマンダ・ドゥ・ハイイェーに対して語るが、数々の待ち伏せによる襲撃と迫撃にもかかわらず、キリコが目的地に辿りつけたのは、彼に与えられた超人間的な力の源泉としてのグノーシスの光の種子も含めた宿命の加護のお陰としかいいようがなく、また同時に彼が発散する特異な魅力のお陰というほかはないとしか説明がつけられないものであろう。この宿命の加護が、ワイズマン以下の闇の勢力と緊密に連動する仕方で、キリコにおいては働いていたと言わざるをえないのである。

 

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