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『装甲騎兵ボトムズ』考察1

(今まで有料限定の記述がありましたが、序論を増補したため、こちらを無料で全文公開することにしました)

1.他所ものとしてのキリコ
 人間はただ一人、大地を踏みしめ、耐え難く、絶望……自殺という考えを取り除けない非常に実存主義的な絶望……それと背中合わせで存在していることに変わりはございません。(開高健『輝ける闇』p.193)

 「生まれながらのPS」、「異能者」、「触れえざる者」、「赫奕たる異端」などと呼ばれることになる『装甲騎兵ボトムズ』の主人公:キリコ・キュービィー。これらの呼称はキリコが自称しようとして述べられたものではないが、それら呼称をキリコの立ち位置周りにおいて彼に向かって迫ってきた諸々の現象として理解し、また語りとしてのロゴスによって彼の「自己」を示すものとして彼自身に明るみにされた象徴語と解することは可能であろう。私はまず、これらキリコを指し示す諸々の象徴語からして、キリコが『装甲騎兵ボトムズ』の世界において、根本的にグノーシス文書に登場する「他所もの」並びにその象徴語と同義として捉えられうる類語の「擬態」的要素を含んでいるということができるということから始めたい。現代にまで生き残り続けているグノーシス主義的な宗教とされるマンダ教文書には、次のように記述されている。「大いなる、第一の、他所ものなるいのちの名によって。光の世界から発して、すべてのわざの上に立つ、高貴なるいのちの名によって」。このマンダ教の文書によれば「他所ものなるいのち」は、いのちが本質的に此岸の世界にとって他所ものであること、或いはその此岸の世界の内部にあって他所ものであることを表現している。「すべてのわざの上に立つ第一のいのち」とは、「この世の上に立つもの」という補足である。

 「他所もの」とはグノーシスの語りにおいてであう最初にして最大の象徴語である。そしてこの「他所もの」と同一の意味を有するが表現の異なる象徴語はグノーシスにおいて数多く存在する(たとえば「光」、「王国」等)。そうした「他所もの」と同一の意味を有する象徴語は、グノーシス主義者たちが直面しかつ彼らに向かって迫ってきた、ありとあらゆる現象によって明るみに出された「自己」を示す象徴語に他ならない。それらは他でもない、どこか他所からやってきたもの、この世に属するものではないものであることをさす。「他所もの」は、この世に属するものにとっては異質であり、驚異的であり、何か薄気味悪い、不気味なものである。同時にこのような事態は、逆に他所ものにとってもこの世に属するものは同じくらいに異質であり、驚異的であり、薄気味悪い、不気味なものであって、危険なものと映る。こうした特徴はOVA版『赫奕たる異端』において、その題名の意味する「光り輝く外れ者」がそのままキリコを指し示す表現であり、また「触れ得ざる者」と呼ばれていることにより、より顕著に現れることになる。つまり、「世人(das Man)」とは異なるもの、といったニュアンスがつきまとうのである。「グノーシスのうちに居る者は大衆の気に入らず、逆に大衆は彼らの気に入らない。この人(グノーシスのうちに居る者)たちは狂気のように思われ、嘲笑に晒され、憎悪の的となり、軽蔑され、或いは殺されさえする」(『ヘルメス選集9』)。

 「他所もの」の故郷はこの世にはない。このように言い表す時、それは「この世における生まれ故郷」のことを指しているわけではない。キリコの生まれ故郷はメルキアもしくはサンサだとされているが、詳細は不明である。しかしキリコが「他所もの」であるということを指摘するに当たって、この判然としないキリコの「この世における生まれ故郷」のことはさほど重要なことではなく、またその「この世における生まれ故郷」の具体的な場所がどこであるかということもさほど重要なことではない。「キリコの故郷がこの世にはない」というのは、キリコがグノーシスの象徴語でいうところの「他所もの」(ないしそれと同意味を持つ象徴語)に当たるということであり、私がそういう言い表し方で指摘しておきたいのは「生まれながらのPS」、「異能者」としてこの世に生まれたキリコが、この世においてはどこにいようとも「他所もののさだめ(宿命)」を被っている「異境の者」であるということだ。キリコの状況は初めから、個別化され、標的にされ、危険に晒され、どうして自らが現在の状況にあるのか理解もできず、また自らのことを理解されないという、このグノーシス主義の「他所もの」につきものの状況がそのまま当てはまっているのだ。「他所もの」の運命には恐怖と安息の念が本質的に属している。キリコは、当初は何処にあっても土地勘のない他所ものとして、この世という異境の内において道を失っており、そしてあちこちを徘徊している。OPテーマである『炎のさだめ』において「俺は彷徨う、見知らぬ街を」、「俺は流離う、あてない旅を」と謳われる通りである。

 だが、キリコも徐々に異境の中にあって土地勘をつかみはする。こうなるとキリコのこの世における徘徊には別の意味が加わることになる。即ち、この世においてこの世に属するものへと堕落し、そこで安穏を感じ、自分自身の根源から疎外されることによって、「苦難としての他所ものである」ことに「自分にとっては異質である罪責としての他所ものになる」ことが合体するのである。「俺の安息の場所は、戦いの中にしか無いんだ」というキリコの痛ましい言葉は、キリコがこの二重の意味で徘徊している状態にあることを言い表していると思われる。というのは、そのようにつぶやきながら彼の心中においては逆に「戦いはもううんざりだ」という感情も見え隠れするからである。OPテーマ『炎のさだめ』では、このような心境は「炎のにおい染みついてむせる[…]地獄を見れば心が渇く、戦いは飽きたのさ」、「揺らめく影は蘇る悪夢[…]お前を見れば心が冷える、戦いは飽きたのさ」という歌詞において現れていると言っていいと思われる(この「お前を見る」の「お前」に関しての詳細はまた後ほど考察する)。『装甲騎兵ボトムズ』の世界観の着想の一つとなっている開講健『輝ける闇』にも、ヴェトナム戦争に自らの身を投げ入れた著者が生々しく描き出したこうした二つの感情が素描されている。「死の予感が昂進するにつれて生は上昇しはじめ、あまりに私は自身に憑かれていたのでどう避けることもできずベッドから降りて靴を履いた。ひょっとして自身の彼方へ踏み出せるのではないかという予感がどこか遠くに漂っていた。霖雨を追って北上し、半島の突端を目指してなんかし、夜の荒野を冷たい汗にまみれて行軍した。惨禍と危機はひりひりしながら泥のような私の内部に染み込み、ひろがった。官能は草むらの農民の屍体や果てしない沖積へ異変の空の鳴動するような夕焼けに向かって開かれ、私は夢中になって外界をむさぼった」(開高健『輝ける闇』p.253)。「口いっぱいにつまった甘い泥の匂いにむせ、卑劣の感触に半ばしびれ、不意に空が暮れて額におちかかってきて、いやだと思った。つくづく戦争はいやだと思った。凶暴なまでの孤独が胸へつきあげてきた。何もかもやめてどろのなかにうずくまり、こえをあげたくなった。ふとこのまま眠ってしまえたらと思った。おびただしい疲労がこみ上げ、死の蠱惑が髪をかすめた。この柔らかい藺草のしとねに体をのびのびと横たえ、穴という穴から温かい泥が染みこんできて、とろりとした水をミルクのように体いっぱいにたたえてねていたらどんなにいいだろう。鼠や蟹があちらこちらの肉を食いちぎるときは古い腫物の蓋を剥がすようであるかもしれない。とけたい。とけてしまいたい。この藺草の沼に溶け込んで、ひろがって、薄い波となって漂っていたい」(開高健『輝ける闇』p.341-342)。戦争は安息とは程遠いものである。またキリコが根本的に自分自身の根源から疎外されている者だということについては、彼の過去において、彼がかつてサンサ星にいた頃に、ヨラン・ペールゼンの襲撃を受け、火炎放射器によって焼き殺されかけ、驚異的な回復能力によって生き延びたものの、そのことがトラウマとなっていて、過去のことを思い出そうとすると神経的な発作を起こしてしまうということに現れている。つまり、自分のことを思い出そうにも物理的にも精神的にも思い出せない状態なのだ(後に詳述するが、この事件も元をたどればワイズマンの掌中のうちにあることである)。それがOP『炎のさだめ』では「盗まれた過去」及び「砕かれた夢」という言葉によって表現されている。過去が盗まれ、また本来的な自己が砕かれた状態で徘徊し続ける「俺の安息の場所は、戦いの中にしかない」というキリコの悲痛な言葉は、本来はこの世のものに属する、安息とは程遠いものである戦争において安息を覚えるという倒錯状態であり、そのような倒錯状態にしか安息を見いだせないということであり、「苦難としての他所者である」ことに「罪責としての他所ものになる」ことが一つに合体した宿命を被った状態から発せられたものなのだ。「他所もの」であるキリコは彼にとっても他所者である異質な者たちに周りを囲まれて自己疎外に陥る。その頂点を極めている状態がOPテーマでは端的に「炎のにおい染み付いてむせる」、「揺らめく影は甦る悪夢」と謳われているのだ。そして、この自己疎外の頂点を極めること、「異境の中にあること」がその頂点を極めた時、その時こそは、自分が本来からして「他所もの」であることを自覚し、「他所もの」なる自分を「他所もの」として認識する最初の一歩となる。それが本来の安息の場所への想いが覚醒することの契機となり、安息への道の始まりとなるのだ。「さだめとあれば心を決める、そっとしておいてくれ、明日に繋がる今日ぐらい」とは、自己疎外の頂点を極めたことによって安息の場所への想いを覚醒させ、この世の外へと出て行かんとする者の謂である。そしてその安息の場所への想いの覚醒は、キリコの場合においては異能者としての能力に覚醒することと並行していた。

 キリコは以上のように他所ものが持つ困難を被っているが、しかしその困難は、実はキリコがその本来の根源との関係からして、この世に属する者すべてに優越するものであるが故に被るものであって、従って顕彰そのものでもあるということができる。それはレッドソルジャーの創設者であるヨラン・ペールゼンが、異能者とは250億分の1の確率で生まれるごく少数者であると言っているところからも読み解ける。そして異能者が生み出されるのは戦いの中においてであるとされる。「神はすべてのものに叡智(ヌース)を分かち与えなかった[…](なぜなら)神の意志は、それを競い合う賞として魂の間に立てることにあったからだ」(『ヘルメス選集4』)とヘルメスは人間の魂が神的叡智を得るに至るまでの困難さをタトに向けて語っているが、この語りは同時にその困難が顕彰そのものであり、その顕彰に与ることができる者がごく少数の者に限られているということを表している。キリコは生まれながらにしてのPSであり異能者として生まれたが、その能力の覚醒は、彼が被る困難と並行して充実していっている。その能力は、マンダ教文書において導入句として用いられる「すべてのわざの上に立つ第一のいのち」と同様に「この世の上に立つもの」と補足される、キリコにおいて隠されていた能力の源泉である。その能力は、周囲のこの世に属する者たちには解らないものであり、与るに値する者だけが与りうる少数者のものであり、またそれは万事に耐え抜くことができ、周りの世界からの攻撃を究極的には免れる、超人間的なものの力の源泉である。

 多くのグノーシスの文書が説くところによれば、他所もののもつ優越性はすでにそれが異境であるこの世にあるときから現れるが、その優越性については、他所ものがそれ自身のもとにあるところ、つまりこの世から脱出しているところに根ざしているとされる。即ちこの世に対するあの世、此岸的なものに対する彼岸的なもの、或いは彼岸そのものである。これは多くのグノーシス文書がプレーローマと呼ぶ、超越的世界のことである。多くのグノーシス文書は、ルドルフ・オットーが『聖なるもの』において、神秘主義者をさして言い表すことの出来ぬものを言い表そうと「すこぶる多弁」であると述べたことが全く当てはまるような多弁さでもって、この彼岸について、或いは至高神について、否定辞を重ねて語る(否定神学)。それはこの世に生まれ落ちる前の世界についての記述でもある。この絶対的な彼岸として語られる超越的世界プレーローマは、超越的概念として語られはするが、その実態はいわゆる〈無〉(nihil)である。多くのグノーシス文書が語るところによれば、この超越的世界プレーローマこそが覚醒者が目指すことになる最終的な安息の場所である。『装甲騎兵ボトムズ』の場合は、グノーシス文書で言うところの超越的世界プレーローマにあたるあの世・彼岸については、グノーシス文書が「すこぶる多弁」であるのとは逆にほとんど語られることはない。しかし、本編の最後においてキリコは「戦争がある限り利用される。俺たちはこの時代に生きるべきじゃないんだ」と言ってフィアナとともにコールドスリープに入る。この言葉に続いて「あると思うのか?戦争のない世の中が」という問いがバニラから発せられ、それに頷くキリコの描写がある。一見すると、戦争が全て終わった世の中になるまでコールドスリープに入って時を渡るとのみ取れるようなやり取りだが、このコールドスリープは、後の続編に当たるOVA『赫奕たる異端』において、冷たい棺桶に入れられるのと同様であることが語られ、また更にテイタニア・ダ・モンテ=ウェルズによって、戦争のない世の中・時代などというものは現実的ではなく、キリコとフィアナがとった選択は事実上「自殺」であったに等しいと指摘されている(実際に本編の三十年後に当たるOVA『赫奕たる異端』においても戦争・権力闘争はなくなっていない)。このように見ていくと、異能者として覚醒したキリコは、他の異能者たちがどうであったかは別として、キリコ自身は自らの異能者としての能力ないしそのような能力を持つ自分の帰属すべきところ、根ざすところ、さらに真の安息の場所が、時間的・空間的双方の意味でのこの世・此岸のどこにもなく、グノーシス文書の「他所ものなるいのち」同様に、あの世・彼岸にしかないとみていたのではないかと捉えざるをえないのである。

 以上のように見ていくと、グノーシス文書の「他所ものなるいのち」と同じように、キリコには、他所ものがそれ自体として持っている積極的と否定的の二つの側面を見て取ることができる。即ち、優越性としての他所ものであることと苦難としての他所もの、優先的に引き離されていることとしての他所ものと宿命に絡め取られたこととしての他所ものであることの二つである。これら二つの側面が、同一の存在であるキリコにおいて含まれており、互いに交替し合いながら、劇的な仕方で相次いでストーリー展開において実現していっているのだ。『装甲騎兵ボトムズ』の本編全体はこの主人公キリコの実現の過程を中心に描かれているわけだが、この実現の過程は、まずは端的に次のように言うことができる。即ち、他所ものが他所ものの中で歩む「道のり」、他所ものがこの世の中へ入り込み、この世を通りぬけ、この世から過ぎ去っていく道のりであると。これがまず諸々のグノーシス文書が語る「光から疎外された光」、「いのちから疎外されたいのち」が、この世の内部で辿る道のりの「擬態」として見て取ることができるのである。

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