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装甲騎兵ボトムズ-序論-

(追記:序論において記した方法論について、「もう少し詳しく書いて欲しい」との希望がありましたので、大幅に増補することにいたしました。オズヴァルド・シュペングラー、ハンス・ヨナス、マルティン・ハイデガーに関して増補していますが、実際のところ私が記したかったことは、既にあの短い序論で示唆的に示していたことと何ら変化はありません。無料で全文公開いたします。(2016/1/10))

0.序論
 この記事は、アニメ『装甲騎兵ボトムズ』の考察を行うにあたって、どのような方法を用いるかを書き記したものである。

 私が『装甲騎兵ボトムズ』を考察するにあたって試みるのはまず、このアニメにおいて「擬態(Pseudomorphose)として潜んでいる「グノーシス的なもの」の抽出である。「擬態」とはオズヴァルド・シュペングラーが用いた概念で、グノーシス研究の大家であるハンス・ヨナスがグノーシスの研究においてこれを運用した。ヨナスはシュペングラーの『西洋の没落』の第二巻に相当する『アラブ文化の諸問題』を挙げて、その著作での彼の「擬態」という概念の運用に次のような功績を認めている。第一に、「形態論上の直観によって、表層の事物史が人を欺くものであっても、その下に隠れて根源的に新しいものが始まっているということを見抜く」ということ。それによって彼は、オリエントとヘレニズムの思想混淆(シンクレティズム)において、新しい、独立の、しかも内側から組織立った原理を認めた。第二に、彼はこの点においてラディカルに突き進み、「あらゆる文学の諸形態(それら同士では無関係)が様々な決定因子の働きを受けているのと対照させて、それらの根底に第一義的に横たわっているもの、独創的なものを規定した」ということ。しかし彼が行ったのはそれにとどまらない。彼は同時に、「それが有している普遍性を意味の領域での偶然的な特殊性と対照させて、それが一つの真正な全体原理が持つ普遍性であること」を認識していた。これは彼が「文化霊魂」と呼ぶところの、「存在の姿勢と存在解釈の原理」である。第三に、彼は「精神史のために「擬態」概念を導入して、「「古代」文化の世界において今まさに始まろうとしているもの」と、「その誕生を自らの影で覆おうとする既存のもの[=全能のギリシア文化]」との間に見られる独特な悲劇的関係を規定」したということ。その悲劇的関係とは、「前者が後者から概念言語を貰い受けるほかはなかった」ということである。第四に、彼は「「救済された救済者」という終末論的な神話についてその神話の中心に当たるもの」を規定したということ。それによって彼は、彼が「アラブ文化」と呼ぶものを立ち上げて、この「アラブ文化」がそれまで雑多なまま扱われてきた情報の山を常に担ってきたことを明らかにした(以上、ハンス・ヨナス『グノーシスと古代末期の精神 第一部「神話論的グノーシス」』p.80-81の要約)。

 シュペングラーの「擬態」という概念を運用することによって、つまるところ何が得られるのか。それは、ありとあらゆる哲学・神話・宗教・文学・芸術・政治・経済等において、それぞれに全く影響関係がないどころか、敵対関係・対立関係があるもの同士でさえ、同じ「現存在の根本的姿勢」が「擬態」として潜んでいるということを論証できる可能性があるということだ。また、この概念の運用は、生成しつつある新しいものが、既存の既に仕上がった概念形式に対して立つ関係を表現したものであるということも明かしうる。ヨナス自身はこの概念の運用こそ、自身の研究領野において、素材領域に対して持ちうる方法的・発見術的な実り多さをもたらすものとして、いくら高く評価しても高過ぎるということは有り得ないと大絶賛している。この「擬態」概念の運用によってヨナスは、グノーシスとは無関係であるものどころか敵対関係にあるもの(たとえばプロティノスの新プラトン主義)のなかにさえグノーシスと同じ「現存在の根本的姿勢」が「擬態」として潜んでいることを論証できる可能性が生まれてくるとしたのである。

 さて、それでは「現存在の根本的姿勢」とは何か。 これはヨナスがマルティン・ハイデガーの「現象学=存在論」ないし「実存論的分析」の哲学を「概念装置」として運用する際に用いている概念である。「現存在の根本的姿勢」とは、存在が想像力によって行う統覚の基層にあるものである。この統覚の基層からの「世界」とその世界との現存在の関わりという包括的な構想が、ある時代全体にわたって、一つの歴史的な行為として示現される。つまり、この根源的な構想こそが、そのつどの該当する時代とその中に在る経験的主体にとっては、世界理解と自己理解のための超越論的な地平として拘束力を持っている。世界についての解釈は、歴史上の一定の領域において、哲学・文学・神話・芸術・宗教・政治・経済等のいくつか(究極的には全部)にまたがって生み出される。「現存在の根本的姿勢」はこれらを、超越論的な意味で構成し、かつ規定するものである。ヨナスはこの「現存在の根本的姿勢」からこそ、歴史上の領域におけるあらゆるものの本質的な一体性と統一性を引き出せるのであり、これを超越論的な根拠として、かつその力によって、一つの領域であることを認めることができるとした。つまり、ある特定の地域・時代について一群の「証言」があるとして、そこに能動的に何かを生み出す行為が認められる限りは、どの証言群についても、実存論的な根源である「現存在の根本的姿勢」が、超越論的根拠として、統一性を付与する原理として働いていると想定することができるというわけだ。そしてそのつどの現存在こそが、自分の立ち位置としての自己表現の体系を組み上げたのであり、この現実の世界の中で自己について証言し、その中で自らの存在を対象化している、ということができるのである。

 以上に述べたことをまとめれば、ヨナスにおいては「現存在の根本的姿勢」を問うということが、シュペングラーの「擬態」概念の運用によってシュペングラーが「文化霊魂」と呼ぶところの存在の姿勢と存在解釈の原理を問うことと一致を見ているということは明らかであろう。つまり、シュペングラーの「擬態」概念を運用することは、ハイデガーの「現象学=存在論」の哲学が提示している根本的なこと、即ち、我々に現に与えられ、現に差し向けられている(迫ってきている)現象の数々を、存在に向けて問い、それに向けてそれらの現象にいわば眼を向け、耳を傾け(或いは五官全て及び直観も含めた感覚全体を用いて)、そこで行われている解釈の中核的な原理を手に入れるということに等しいわけである。

 そして、そうであるからして、これは存在の根拠についての解釈学的な問い返しという作業になる。この作業に必要なのは、可能な限り、予め現存在に関して解明済みの存在論を参照し、そうすることによって存在論の設問の観点を応用する、ということである。ヨナスにおいてこの役割をはたすのが、もはや言わずもがななことではあろうが、ハイデガーの「実存論的分析」である。ヨナスは、ハイデガーが『存在と時間』において提示している「実存論的分析」をして、そこから得られる解釈学的な「実存カテゴリー(実存範疇)」の本質性と有効性を認めており、『存在と時間』が提示しているこの哲学を、いわば概念装置として、繰り返し運用することとなる。ハイデガーによれば、現存在にとっては自分の存在において、「現存在の本質が実存から把握される必要がある」ということが問題であり、その当の存在がそのつど私のものである限りで、現存在はそのつど自分の「可能性」であって、この「可能性」のうちに、現存在の「本来的な在り方」と「非本来的な在り方」が根ざしている。諸々の現存在はその各々の現存在において生得的であるロゴス(このロゴスについての意味は『灰羽連盟』の考察において記した概念規定を参照してください)をもって、被投的に投企していく(つまり、通常時において現存在が各自において意識的に行うわけではない、自分の生育環境などによって規定されるかたちで知らぬまに行っている「投企」[Entwurf:自分の側から独特な解釈を持って「世界(周囲世界-共同世界)」(ロゴスの有機構造)を「企画」し、その「世界」の背景や枠組みとなる現存在の「可能性」を前方に向かってスクリーンのように投射するかのごとく構成すること]によって支えていく)結果、そこにその諸々の現存在において「世界」と「自己」の関係、ないしは「非本来的な在り方」と「本来的な在り方」の関係という、最も内的な関係が実現される。こうして現存在は、現実の「世界」ないし「非本来的な在り方」の事実的な在り方に捕囚される。このような現存在の実存的な在り方は、存在相的(Ontisch)には最も身近なものではあるが、存在論的には最も遠いものである。このような「前存在論的」な存在了解が問題とされなければならない。この課題に応じるのが現存在の「実存論的分析」である。「実存論的分析」によって現存在は、今や自分が現実の「世界」に、「非本来的な在り方」に捕囚されているという事実的な在り方を、今度は意識的に自らの世界解釈を投企することで、自分が置かれている端的な事実性の次元から、自分にとってしかるべきである新しい可能性(本来的な在り方)を切り開き、乗り越えようとする。つまり、ハイデガーの「実存論的分析」によって明らかになるのは、「世界」と「自己」ないし現存在の「非本来的な在り方」と「本来的な在り方」の関係が「実存論的根拠」であり、それらの対概念がその相互の関係において、事実として行われているあらゆる存在解釈にとっての現テーマであることが明らかになる。それは次のような設問として実現する。即ち、「そこで世界はどのように「見られて」いるのか。その見方においては、どのような自己が、また自己の世界に対するどのような存在が実現しているのか」。このような「実存論的根拠」は、本質的にそれ以外の様々な構造においても起きていき、それらの構造においても、以上の設問においてあり得べき観察地点として一緒に受容されることになる。ヨナスはハイデガーが『存在と時間』において提示した「実存論的分析」の方法によって得られる解釈学的な「実存カテゴリー」を概念装置として援用することで、古代末期の時代の趨勢としてのグノーシスの根底に共通の「実存論的統一根拠」が潜んでいることを明らかにした。

 ここまでグノーシス研究におけるヨナスなりの、シュペングラーの「擬態」概念及びハイデガーの『存在と時間』の哲学の援用方法を素描してきた。私がボトムズ考察において提示するのは、このヨナスの方法と同じように、製作陣が元ネタとして提示した諸々の資料とともに『装甲騎兵ボトムズ』の世界観を取り上げることによって、それらにおいてグノーシス的な「現存在の根本的姿勢」が「擬態」的なものとして潜んでいるということを抽出できる、とするものである。これはあくまでもそうした「擬態」的な要素の抽出であって、すべてをその枠組にはめ込むことではない。このことは念を押して述べておきたい。また、私はこの「擬態」概念の運用と同時にハイデガーの『存在と時間』の哲学を概念装置として運用することによって、『装甲騎兵ボトムズ』とその着想となったもの、及びグノーシスの根底に時代を超えた共通の「実存論的統一根拠」が潜んでいるということを明らかにしようとも思っている。

(補論)
 なお、余談ではあるが私がここで提示するものにおいては、ヨナスだけでなく、カール・グスタフ・ユングの元型の概念やマックス・ヴェーバーの理念型の概念、アーサー・O・ラブジョイの単位観念の概念の運用方法にも大きく恩恵を被っている。これに関してはもう序論ではくどくなるので詳細は書かないが、ここでは端的に、ヨナスが言うところの「現存在の根本的姿勢」は、マックス・ヴェーバーがいうところの「理念型」、観念史学派のアーサー・O・ラヴジョイが言うところの「観念の歴史」の方法における「単位観念」、C・G・ユングがいうところの「元型的イメージ」ないし「布置」を構成するものに相当すると考えることができると述べておこう。

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