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ルドルフ・シュタイナーGA3『真理と学問』6章の読み方①

全き者の來らん時は全からぬもの廢らん。われ童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧(おぼろ)なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。(『コリント前書』13章12節)

本ノートは、シュタイナーが『真理と学問』の六章「無前提な認識論とフィヒテの『知の理論』」でフィヒテを取り上げた真意についての考察であり、私なりに読解ポイントとなっていることを提示するものです。

読解ポイント1:フィヒテの『知の理論』は、表象意識としては間違っているが、イマギナツィオン意識として理解に値するものであること。

概念と意識に与えられているもの(所与)の現実は、元来区別されており、結合は派生的なものであり、それ故に「認識」は、我々が説明したようなものになっている。意識において必然的に理念と所与とは区別されて現れるから、意識に対して現実全体がこの二つの部分に分裂する。そして意識はただその固有の能動性によってのみここで挙げた両方の要素の結合を生じさせうるから、意識はただ認識行為の実現を通してのみ、完全な現実に達する。もしそれ以外の諸カテゴリー(諸理念)が、認識へ受容されない場合でも、それらは必然的に相応しい所与の形式と結びついているだろう。認識の理念は、意識の能動性を通してのみ、その理念に相当する所与と統一されうるのである。現実の意識が存在するのは、意識がそれ自身現実化する時のみである。以上をもって、我々は、フィヒテの『知の理論』の根本的な間違いを暴くと同時に、『知の理論』の理解のための手がかりを提供するために、十分に準備していると考える。(シュタイナー『真理と学問』私訳)

シュタイナーは6章にいたるまでひたすら「形式(思考形式)・概念・理念・カテゴリー」(以下カテゴリーと略)と「所与(知覚対象)」とをはっきりと区別したうえで、「認識」の確定を行っています。四章・五章までの議論を簡単に図式化すると、その議論は下のように表せるようなものでした。

   「所与 ← 認識 → カテゴリー」 「所与 → 認識 ← カテゴリー」

4章・5章まで『真理と学問』を読んだ読者は、まるでシュタイナーの「認識」概念が、片方が所与、もう片方が概念からなるファスナーのようであり、そのファスナーを開閉しているというような感想を抱くのではないでしょうか。この「認識」概念を確定するまでの議論を踏まえることが、「フィヒテの『知の理論』の根本的な間違いを暴くと同時に、『知の理論』の理解のための手掛かりを提供するための準備だった」とシュタイナーは言っています。ここで「含み」としてくみ取っておくべきことがあります。それは、フィヒテの『知の理論』が、シュタイナーが五章までで述べてきた「カテゴリー」と「認識」の区別がついておらず、また同時に「所与」と「認識」の区別もついていないことを、シュタイナーは既に理解した上で、自身の「認識」概念を運用して説明しているということです。つまり、それはフィヒテの『知の理論』が現実と夢の区別がついていない状態を彫琢する役割をもっているのです。それによって、フィヒテの『知の理論』が表象意識、対象認識の議論としていかに間違っているかを彫琢する同時に、むしろイマギナツィオン意識としては理解すべきものであるということを彫琢している側面があると思われます。







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