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ルドルフ・シュタイナー『大天使ミカエル-人間存在の本来の秘密を啓示する者-』第五講

1919年11月29日 ドルナッハ 

■Ⅴ-1 人間は、少なくとも人類の進化発展の最も重要かつ最も本質的な法則を受け容れることによってのみ、自分の魂の支えとなる真実の意識を得ることができます。私たちは、人類の進化発展のプロセスの中で生じたことを認識し、私たちの魂の営みの中に取り込まなければなりません。それが現代の人間の課題なのです。さて、この数日間中に既に述べたことですが、人類の進化発展そのものが一種の生き生きとした存在の進化発展なのだということを完全に真剣に受け止めることが重要です。一人ひとりの人間個人が合法則的に成長していくように、人類全体の進化発展も合法則的に成長していくのです。そして現代が特定の事柄を意識に昇らせなければならない時代であり、人間はリインカーネーションを通じて人類の進化発展史の様々な様式に参加してきましたから、人類の進化発展の各時期における人間の魂の在りようの違いに対する理解を深めることも必要なのです。度々申し上げてきたことですが、私たちがこんにち歴史と呼んでいるものは、そもそも月並みな作り話でしかありません。なぜなら、歴史的な経過に向き合って、その諸事件を抽象的に列挙したり、最も外的な意味で原因と結果を探究したりするところで、人間の魂の営みそのものの変容が全く考慮されてないからです。この観点から検証すれば、歴史上最初の文書によってまだ遡ることができる太古の時代まで、今日の人々の魂とだいたい同じ気分であると思い込むなら、それがどれほど偏見に満ちているかを納得できるでしょう。それは間違っているのです。九世紀・十世紀の単純素朴な人々も、十五世紀半ば以降の人々とは魂の在りようが全く異なっていました。私たちはこのことを、暗黒時代の人類にも、黄金時代の人類にも見て取ることができます。たとえば、一度ダンテ(1265~1321)の奇天烈な著作である『帝政論』に眼を通してみてください。好奇心ではなく、文化史的な鋭い感覚でもって少しでも読めば、その時代の代表的な人物のその著作の中に、現代人の魂から語られることは不可能であろう事柄がどれほど含まれているかに気がつくでしょう。

■Ⅴ-2 この著作のそのような事柄の数々の内から一つだけ触れておきたいことがあります。ダンテは、帝政の法的・政治的基礎づけに関して本格的に論じることを意図したこの著作の中で、ローマ人が地球上で最も優れた民族であったことを説明しようとしました。彼は、当時問題になっていた、地球全土を征服することがローマ人の根源的権利であったということを説明しようとしたのです。彼は、たとえば個々のより小さな民族集団の独立する権利よりも、ローマ人が地球全土を征服することのほうがより大きな権利があってしかるべきだ、ということを説明しようとしました。個々の小さな民族集団の幸福のために、ローマ人が彼らを支配することが、神の意志だったからだ、というのです。ダンテは、ローマ人による地球全土の支配を正当化するために、完全に彼の時代の精神に由来する多くの証拠を持ち出しました。その証拠の一つはおよそ次のようなものです。ダンテはこう言いました。「ローマ人はアエネアスの子孫である。アエネアスは三度結婚した。最初の妻はクレウサである。彼女と結婚することによって、彼はローマ人の始祖としてアジアを支配する権利を獲得した。二番目の妻はディドである。彼女と結婚することによって、彼はローマ人の始祖としてアフリカを支配する権利を獲得した。三番目の妻はラウィニアである。彼女と結婚することによって、ローマ人のために、ヨーロッパを支配する権利を獲得した」と(☆1)。かつてこのことに言及したヘルマン・グリム(1828~1901)は、「当時アメリカやオーストラリアがまだ発見されていなかったのは全く幸運なことだったね!」(☆2)と述べましたが、これは的を射ていないことではないと思います。

■Ⅴ-3 しかし、ダンテの時代の識者にとって、しかも、その時代で最も傑出しているこの識者であるダンテにとって、この推論は全く当然なものだったのです。当時の法的な解説はこのようなものだったのです。さて、ダンテのそれのような推論が現代の法曹の誰かしらから出て来るかどうか、想像してみてください。そんなことは想像できないでしょう。同様に、ダンテが持ち出している他の諸根拠に即して思考する方法が、現代人の魂の在りようから出て来ることも想像できないでしょう。

■Ⅴ-4 このように、全く当然の事実が、人間の魂の在りようの変容をどのように見て取るべきかを明らかにしています。ある意味で私たちの時代になってもまだ、こうした問題は理解されずにきました。私たちの時代ではもはや理解しないわけにはいかず、とりわけ未来へ向けて人類にとってそういかなくなるのは、私たちの時代まで人類が一定の本能をもっていたという単純な理由によるものです。私たちの時代までか、或いは少なくとも十八世紀の終わりまでなのですが、それはフランス革命以降、状況が次第に変わったからで、しかしここで問題となっている魂の在りようの古い残骸は残っていたので、フランス革命以降は状況が変わったという留保付きであれば、私たちの時代まで人類は一定の本能をもっていたのです。そしてこの本能から、人類は、魂を担っていた一つの意識を発達させることができていたのです。しかし、今や人類の有機体は絶え間なく変化するようになったので、この本能はもはや存在せず、人は人類全体とのつながりを意識的な仕方で獲得しなければなりません。それが結局のところ現代の社会問題の全意義、深い意義なのです。人々が党派的に様々に語っていることは、うわべだけ定型化されたものでしかありません。人間の魂の奥底で実際に湧き上がってくるものは、そのような党派的な定型句で語ることができないものです。しかし、この湧き上がってくるものこそが、個々人の人類全体とのつながりを、即ち、一つの社会的衝動を意識して獲得する必要があると、人類が感じていることなのです。

■Ⅴ-5 さて、私たちは、進化発展の法則を真剣に考えてみることなしに、そのことを感じることはできません。既に他の問題で繰り返し取り上げてきたことではありますが、もう一度取り上げてみることにしましょう。たとえば、四世紀からおよそ十六世紀に入るまでの時代を取り上げてみましょう。そこで分かるのは、キリスト教がどのように文明化したヨーロッパの中に普及していったかです。この普及の中には、昨日お話しし、〔他の機会でも〕しばしばお話ししたあの特徴があるのが分かります。この時期ではまだ、古代ギリシャ人によって伝えられた人間的諸表象・人間的諸概念によってゴルゴタの秘儀を理解することに、あらゆる注意が払われていたということが分かるのです。しかし、その後、以前とは異なるかたちの進化発展が始まります。私たちは、それが実際にはもっと早いうちから、即ち十五世紀の中頃から始まっているのを知っています。それが目に見えて明確になるのは十六世紀頃に入ってからです。その後、自然科学に沿った思考が、まず人類の上流階層の心を捉え、そしてどんどん拡大していきます。

■Ⅴ-6 さて、一度この自然科学に沿った思考について、ある特徴に従ってよく考えてみましょう。自然科学に沿った思考には様々な特徴がありますが、今日はまた特に一つの特徴を取り上げたいと思います。それは、こんにちの意味で本当に紛れもなく最近の考え方をする人であるなら、「人間の自由と自然必然性」という問題にまともに対処することができないということです。「人間は相互にがっちりと制約し合っている原因と結果の流れとして把握されたその他の自然の一部である」とする、近現代の自然に関する考え方が、この問題にますます流れ込んでいます。確かに、こんにちであっても多くの人間は、自由が、自由という体験が、人間の意識の事実であるとはっきり認識しています。しかし、そうであっても、自然に関する考え方の特殊な配置に本当に慣れてしまうと、そこでまともに対処できなくなってしまうのです。人間の本質について、こんにちの自然科学が望むような仕方で考えてしまうと、まさにその考え方と人間の自由についての考え方とを調和させることができなくなってしまうのです。人間の自由や責任感を軽んじる人も少なからずいます。私が知っている刑法の或る教師(☆3)は、彼の刑法の授業でいつも次のように言って始めていました。「皆さん、私は皆さんに刑法を講義しなければなりません。まず、人間には自由と責任感とがあるだろうということを公理として前提することから始めます。というのも、自由と責任感が存在しないなどとしたら、刑法は存在しえないことになるからです。しかし今、私が皆さんに刑法を講義しなければならないわけですから、刑法は存在しています。ですから自由と責任感も存在しているのです」と。この論理的説明はいささか単純です。しかしこの論理的説明は、こんにちでも人々が、「自然必然性と自由とはどう調和するのか?」と問わねばならない時に、まともに対処することがどんなに難しいかということも示しています。しかし、別の言葉で言い換えると、これは、過去数世紀の進化発展を通じて、人間がますます、「自然必然性には一種の全能さがある」と考えざるをえなくなっているということに他ならないのです。それをこうした言葉で考えるわけではないけれども、それでもなお、自然必然性には一種の全能さがあると考えてしまうのです。それでは、自然必然性のこの全能さとは一体何なのでしょうか。

■Ⅴ-7 以前からしばしば申し上げていることを思い出していただくのが、私たちが互いに理解する上で最も善いことでしょう。こんにちの考え方では、「人間は体と魂で構成されている」と主張すれば、偏見を含まない純然たる学問的な研究をしながら行動している、或いはむしろ思考していると思っています。そんなことはありません。偉大な哲学者だと言われているヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)——彼は実際には彼の出版社の恩恵によって偉大であるに過ぎません——に至るまで、人々は、「偏見なく考えるなら、人間を体と魂の二つに分節しなければならない」と主張してきましたが、それは真実ではないのです。このことは、そもそもまだ魂が認められている限りの話ではありますが。そして、人間を体・魂・霊の三つに分節するという真実の試みは、ただ遠慮がちに敢えてなされているに過ぎません。人間を体と魂の二つに分節することに偏見などないと思っているこんにちの哲学者たちは、その二分節化がただ、カトリック教会が霊を手放してしまった、あの第四コンスタンティノポリス公会議に端を発した歴史的経過の結果であるに過ぎないということを全く知りません。「これからの真のキリスト信仰者は、人間が体と魂で構成されているものであり、その魂がいくばくか霊的特性を持っているとだけ考えなければならない」。このことを教義にまで高めることによってカトリック教会は霊を手放してしまったのです。教会の命令でそうなったのです。これがこんにちもなお哲学者たちが唱え続けてきていることの正体なのです。彼らは自分たちが教会の命令に忠実なだけであることを知らずに、偏見のない学問に従事していると思っているのです。ですから、これがこんにち、「偏見のない学問」と呼ばれているものの多くの実状なのです。

■Ⅴ-8 それと同じようなことが、自然必然性に関しても言えます。四世紀から十六世紀にかけてのこうした進化発展の全ては、全く特殊な神概念をますます結晶化していきました。この数世紀の霊的な進化発展の機微にまで立ち入りますと、人間の思考の中から全く特殊な神概念がますます作り出されていったことが分かります。実際にこの神概念の極致が「全能ナル神」という有名な言葉です。ごくわずかな人にしか知られていませんが、たとえば、四世紀以前の人間には、「神ハ全能ナリ」と口にすることなど全く考えられなかったことでしょう。私たちは教理問答の真理に携わっているのではありません。教理問答にはもちろん、「神ハ全能ナリ、全知ナリ、全キ善ナリ」等々と書かれています。教理問答に書かれているそれらのことは全て、現実とは何の関係もない事柄です。四世紀以前であったら、教理問答を理解し、実際にそれに従う人は誰ひとり、全能さを神的存在の根本的な属性と見做そうなどとは考えもせず、当時はまだギリシャ的な概念の残響がありました。そして彼らは、神的存在について考えたときには、そもそも「全能ナル神」とは言わず、「全知ナル神」と言ったのです。

■Ⅴ-9 叡智は、最初に神的存在に根本的な属性として付与されたものでした。そして、四世紀になってから、全能さの概念が神的存在の理念と次第に一体化していったのです。それは引き続き展開していきます。人格概念が廃れ、この(全能ナル神という)呼称は、単なる自然秩序にどころか、ますます機械的に表象されていく自然秩序にさえも転用されるのです。そして、近現代の自然必然性の概念、自然のこの全能さという概念は、四世紀から十六世紀にかけて神概念が展開した結果に他なりません。人格的属性が廃棄されただけであり、そして当時、神概念として捉えられていたものが、自然に関する考え方の構造へと移されただけなのです。

■Ⅴ-10 今日の典型的な自然科学者たちがこのようなことを言われたら、彼らはもちろん強く抗議するでしょう。多くの哲学者たちが、「人間は体と魂だけで構成されている」という考え方で、自分たちには偏見はないと信じていますが、実のところは869年の第四コンスタンティノポリス公会議で決められたことに従っているだけで、歴史の流れに従属しています。それと同じように、ヘッケル主義者、ダーウィン主義者、そして物理学者に至るまで、彼らが扱う自然秩序を含め、それらは全て、アウグスティヌスからカルヴァンに至る時代に形成された神学の方向性に従属しているものに他ならないのです。こうしたことを見抜かなければなりません。というのも、あらゆる進化の流れには、一定の進化が含まれているが、退化或いは退行も含まれているという特徴があるからです。そして、「全能ナル神」の概念が展開する一方で、識閾下にある人間の魂の営みの領域には底流が存在しており、それがその後、「自然必然性」という指導的な役割を果たす、「表に溢れ出る流れ」となったのです(図14の「赤色」を参照)。そして十六世紀以降、一つの新しい底流がまた生じて、それがまさに私たちの時代に表に溢れ出る準備を進めています(図14の「白色」を参照)。

■Ⅴ-11 自然必然性(図14の16世紀以降の赤色)の下の底流という形で準備されてきたもの(図14の16世紀以降の白色)が、これからは表に溢れ出てこなければならないということ、これこそがミカエルの時代の特徴と言わねばならないことなのです。しかし、実際にそこで準備されているものについて何らか可能な概念を得たいと思うのなら、地球の進化発展の内なる霊を理解する必要があります。

■Ⅴ-12 六日前の講義(第三講)で私は、次のことに注意を促しました。「地上の進化発展、特に人類の進化発展の中でおのずから起こることは、実際には下り勾配を辿っている。地球人類、地球の進化発展そのものが、実際に衰亡の一途を辿っている。このことは今日でも既に地質学上の真実である。深刻に考えている地質学者は、地殻が既に崩壊プロセスの一途を辿っていることを認めている」と。とりわけ、実際に感覚的-地上的諸力によって崩壊プロセスの一途を辿っているのは人類そのものです。人類のプロセスは、人類が衰亡に対抗して働く霊的諸衝動を受け容れる仕方で続行されなければなりません。だからこそ意識的な霊的生活が人類に浸透していかなければならないのです。はっきりとさせておく必要があるのは、私たちが地球の進化発展の絶頂期を既に通り過ぎてしまっているということです。地球の進化発展が続行しうるためには、霊的なものをより明瞭に、よりはっきりと受け容れていかなければなりません。

■Ⅴ-13 このことは、差し当たりは抽象的な事実であるかのように見えますが、霊学研究者にとってはまったく抽象的な事実ではありません。皆さんもよくご存じのように、私たちは、あとで地球となったものの進化発展を、土星、太陽、そして月の段階を経て、地球の段階にまで辿ってきました。この進化発展は、次のようにも特徴付けることができます。「こんにちの人類について語るとき、土星紀、太陽紀、月紀を通じて進化発展してきたものは、根本的に準備段階のものであり、前段階のものであったのだ」と。そもそも、人間は地球そのものの上で初めて、人間として自分の自我を受け取りました。つまり実際に人間の本性に到達したのです。そして、この本性の中に更なるものが、地球の後に続く進化発展の諸段階を通じて注ぎ込まれることになるのです。

■Ⅴ-14 さて、皆さんならもちろんご存じのことですが、土星紀において、いわゆるアルヒャイ(権天使)が、つまりこんにちの人格霊或いは時代霊が、こんにちの人間とは全く異なる形姿、全く異なる風貌でありながらも、同じ進化発展段階にありました。ですから、私はそのことを私の著作の中で次のように表現しました。「私たちがこんにち権天使或いは人格霊と見なすものは、土星紀において人間であったものであり、大天使は太陽紀において人間であったものであり、天使は月紀において人間であったものである。そして地球紀においては私たちが人間なのである」と。

■Ⅴ-15 さて、私たちは、もちろん常に準備しつつ、進化発展を共にしてきました。月紀に遡るだけでも、次のように言わざるを得ません。「そのときは現在の天使は人間であった」と。と言っても、かつての月紀は生活環境が全く異なっていましたから、それは私たちとは似ても似つかない人間です。しかし、この「月人間」の他に、私たちも月紀で既に一つ前の段階、地球紀の進化発展段階の前の段階、非常に高度な段階にまで進化発展していたことで、私たちは当時この天使たち(月人間)にとって実際に既に問題となっていました。特に月の進化発展が既に下り勾配を辿っていたとき、私たちはそこで時折、天使たち(月人間)にとって相当に厄介な問題となっていたこともあったのです。しかし、地球の進化発展が下り勾配を辿っていく際の私たちにとっても、ちょうど同じような事態があります。地球の進化発展が下り勾配を辿ることになって以来、別の存在たちが私たちに付きまとってきているのです。次のような存在が影響力をもって現れるという地球の進化発展のこうした段階に、私たちがすでに入っていることは、霊学研究の重要で意義深い成果であって、非常に真剣に受け止められなければなりません。この存在たちは、木星、つまり地球の進化発展の次の段階において、確かに人間の形姿は異なりますが、それでも人間存在と比肩しうる形姿に昇格することになります。私たちは木星では別の存在になっているでしょう。しかし、このいわゆる「木星人間」は、私たちが月で存在していたように、今既に現に存在しているのです。この「木星人間」は、現に存在しているのですが、もちろん外的には見えていません。しかし、私は先日皆さんに、「外的に見えているということとはどういうことなのか」をお話ししましたし、そして「人間も超感覚的存在である」ということもお話ししました。この存在たちはまさに超感覚的な存在として現に存在しているのです(☆4)。

■Ⅴ-16 もう一度強調しておきます。実際に人類の周囲にいる、ある種の外的には見えていない超感覚的存在たちが影響を及ぼしています。これは極めて深刻な真実です。15世紀半ば頃から、この存在たちはますます私たちにその影響力を強めているのです。この存在たちは、まず第一に人間の意志力によく似た力の衝動を形成しました。昨日皆さんにお伝えしました通り、人間のあの意志力は、人間の意識の最下層に存在しています。この眼に見えない存在たちは、こんにちの通常の意識では意識されないままのものと同類ですが、既に地球紀の人間の進化発展に非常に強い影響を及ぼしているのです。

■Ⅴ-17 霊学研究を具体的に真剣に捉える人にとって、これは非常に重大な問題なのです。1914年に未曽有の惨劇である世界大戦が勃発した時、この問題が特に強烈な仕方で、骨の折れる形で、私に向かって現れてきました。そして当時、私はそれを、様々な友人にいろいろな形で打ち明けました。当時、ひとは次のように自問せざるを得ませんでした。「我々がこれまでの歴史的事件に対して慣れ親しんできたような仕方ではその原因をおおよそ推し測ることが、事実上不可能であるような一事件が、どのようにしてヨーロッパ人に襲来したのか?」と。しかしそこで、1914年の決定的な事態に関与したのが、30人から40人に達するかどうかの数のヨーロッパの人々であったことを知り、この人たちの大半がどんな魂の在りようであったのかを知れば、次のような本来は重要な問題に直面します。つまり、こんにちではとても奇妙に聞こえるかもしれませんが、この人たちの大半が曇りに曇った意識の持ち主であったからです。そもそもここ数年で起こった非常に多くの事柄は、人間の曇った意識が原因だったのです。1914年、まさしく七月下旬から八月上旬にかけてなされた極めて重大な決定がいかに意識の暗黒化からなされてきたかを、1914年の決定的な諸場面のいたるところで見てとることができますし、そしてまた1914年全体をへて1919年の現在に至るまで見てとれるのです。これはその性質上、ぞっとするような問題です。この問題を霊学の観点から検証してみますと、この人たちの曇った意識はある種の扉であったことがわかります。この扉を通って、この意志存在たち(木星紀に人間になる超感覚的存在たち)が、この人たちの曇った意識に憑依し、彼らの意識を用いて影響を及ぼしたのです。そしてそこで憑依したこの存在たちは、まだ人間の段階に達してはいないわけですが、改めて一体どのような存在たちなのでしょうか。私たちはこのことをいま一度非常に真剣に問う必要があるのです。

■Ⅴ-18 ところで、私たちは人間の知性の根源を、人間の知性的な振る舞いの根源を問いました。この振る舞いは、簡単に言えば、私たちの頭部有機体を道具にしています。そして、既に見てきたことではありますが、普通「龍の投げ堕とし」として象徴的に表現されている、大天使ミカエルのあの業(わざ)に、私たちの魂のこの知性的な在りようは起因しています。「龍の投げ堕とし」は実際、非常にありふれた象徴的表現となっています。というのも、「龍と共にあるミカエル」を正しく表象するとき、私たちが表象すべきは「ミカエルの存在と、実際に私たちのいわゆる理性・知性の中に入り込む全てである龍」だからです。ミカエルは彼の敵対者であるルツィフェル的な存在の大群を、地獄へではなく、人間の頭部の中へ投げ堕としました(図15を参照)。その中で、このルツィフェル的衝動が息づき続けているのです。これまで私は、人間の知性が実はルツィフェル的衝動であると特徴づけてきました。ですから、次のように言うことができます。「地球の生成プロセスを振り返って見ると、ミカエルの業(わざ)が見出され、そして、人間の理性による啓蒙が、ミカエルの業(わざ)と不可分であることが見出される」と。

図15

■Ⅴ-19 ミカエルが投げ堕としたルツィフェル的な存在たちの群れ或いは諸力は「上」からやって来ました。これに対して、こんにち入り込んできている人間の段階には達していない存在たちはいわば「下」からやって来ています。この存在たちの主な性質は、人間の意志力と非常に強力に一体化する衝動を持っているということです。前者が人間の表象力に憑依したのに対し、後者は人間の意志力に憑依し、一体化します。後者は、アーリマンの国(☆5)からやってきた存在たちなのです(図16参照)。

図16

■Ⅴ-20 アーリマンの国からやってきた存在たちの流入、それがこの曇った意識を通して働きかけたものの正体なのです。このアーリマンの国から生じた諸力を、こんにちの磁気や電気などと呼ばれているものとちょうど同じような、この世界の中に客観的に存在している諸力として扱わない限り、ゲーテの詩や散文作品で言われているような、人間もそこに含まれているという自然の洞察をすることはできません。というのも、こんにちの自然科学が思い描く自然の中には人間が存在せず、ただ人間の物質的な外被だけが存在しているからです。

■Ⅴ-21 図15と図16を相互参照してください。前者は、地球生成の始まりにあるのがルツィフェル的存在たちの落下であることを表しています。それとちょうど対応するように、後者のこの存在たちはアーリマン的な存在たちの上昇を表しています。前者はルツィフェル的な表象力の流れを表しています。それとちょうど対応するように、後者は人間の意志力の流れを表しています。私たちは人類の進化発展の内部にアーリマン的な存在たちがやってきているのを認識しなければなりません。アーリマン的な存在たちがやってきていて、或る種の自然の在りようを考慮せざるをえなくなっているということが明確にされなければならないのです。この自然の在りようは、差し当たりはもちろん人間にしか影響を及ぼしていません。というのも、動物界はずっと後になってようやく地球紀に取り込まれるため、アーリマン的な存在たちは動物に対してまだ影響を及ぼせないからです。しかし、アーリマン的な存在たちのことを考慮に入れずに人類を理解することはできません。このアーリマン的な存在たちは、背後から押し出されています。というのも、この存在たちの背後にはアーリマン的なものがあり、それがこの存在たちに強い意志力を与えたり、方向づける力を与えたりなどしているからです。このアーリマン的な存在たちは、単独では人間段階に達していない存在たちに過ぎませんが、大群ではより高次のアーリマン的な諸霊にコントロールされていることにより、自分自身の本性をはるかに超えた何かを持っています。より高次のアーリマン的な諸霊にコントロールされていることで、このアーリマン的な存在の大群は、現れるだけで何かを発揮します。それは更に、この存在たちの出現が人々を虜にするときに、より強く作用するものであり、弱い人間が霊によってそれ(意志力)を強化しないときに、現在コントロールできる何か(意志力)よりもずっと強く作用するものなのです。このアーリマン的な存在の大群の狙いは一体何なのでしょうか?ミカエルによって投げ堕とされたルツィフェル的な存在の大群が、人間を啓蒙し、徹底的に理性化しようとしてきたように、このアーリマン的な存在の大群は、人間の意志にいわば徹底的に滲透しようとしています。いったい何を欲しているのでしょうか?意識の最下層の中を、即ちこんにちの人間がまだ起きている間中も眠っているところを、いわば攪乱・煽動することです。アーリマン的な存在の大群が人間の魂的営みの中に入り込み、体的営みの中にも入り込む仕方に、人は気づいていません。しかし現にこのアーリマン的な存在の大群は、ルツィフェル的なままキリストに貫かれなかったものの全てを、その誘惑する力で惹きつけ、そこにたどり着き、ほしいままにすることもできるのです。

■Ⅴ-22 この誘惑する力が非常にこんにち的な問題なのです!私は既に、(ダンテの『帝政論』を例に)非常に高次な意味で文化史的に意義のある現象(魂の在りようの変容)に言及しました。こんにちの私たちは、いわゆる弁明文を読んでいます。テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク(1856-1921、ドイツ第二帝国の宰相)からゴットリープ・フォン・ヤゴー(1863-1935、同外務大臣)に至るまで、ありとあらゆる人々があらゆることを書いています。ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929、仏大統領)や、ウッドロウ・ウィルソン(1856-1924、米大統領)もそれに続くことでしょう。たとえば、アルフレート・フォン・ティルピッツ(1849-1930、独海軍元帥)の『回顧録』やエーリッヒ・ルーデンドルフ(1865-1937、独陸軍参謀本部次長、第一次世界大戦中の軍部独裁体制の事実上のトップ)の『戦争回顧録』といった分厚い二冊のような本を取り上げるだけでいいのです。今の時代の精神で考える人にとって、ティルピッツやルーデンドルフのような人々が書いている仕方を辿ることは、極めて興味深いことです。内容の点でこの二人の本は互いに非常に異なっています。というのも彼らはお互いに対して我慢がならず、全く異なる見解を持っていたからです。しかし、ここでは彼らの見解の話をしたいのではありません。霊の配置の話をしたいのです。それらの本は、もちろんこんにちのドイツ語で書かれています。少なくともだいたいはこんにちのドイツ語で書かれています。しかし、実のところそれらの思考形態は、「一体これはそもそもどんな思考の形態化なのか?」と疑問を抱くような表現様式で書かれています。このようなことが分かっていなければ、気づくことはありませんし、1919年に書かれたという理由でこうした本を現代のもののように扱ってしまいます。私はこの疑問を非常に真剣に考え、先述した二冊の本をじかに調べました。というのもこれらの本がドイツ人的に書かれたということが全く真実ではなく、本当に虚偽だからです。これらの本は表面的にはドイツ人的に書かれていますが、実のところは翻訳に過ぎないのです。というのも、それらの思考形態がカエサル(紀元前100年-紀元前44年)の時代のものだからです。カエサルの内に存在したのと全く同じ種類の思考が、これらの人々の内にも存在しているのです。

■Ⅴ-23 私は今日の講義の冒頭で人類の魂の在りようの変容について取り上げましたが、このことを理解しているからこそ、彼らの魂がどれほど時代遅れのものであるかに気づくことができるのです。というのも、彼らの魂はそもそも変容を遂げてこなかったからです。ティルピッツの『回顧録』やルーデンドルフの『戦争回顧録』は、たまたまこんにちの出来事を扱ったに過ぎません。それらは、カエサルの出征も同様に扱うことができたでしょう。そうしたことを論証する方法を持っている人であれば、誰でもそれを精確に論証することができます。言い換えますと、これは、キリスト教がこれらの人々の傍らを完全に通り過ぎていき、彼らが自分自身の内になんのキリスト的なものも持っていない、ということなのです。確かに、言葉の上では、彼らはひょっとしたら若い頃に教会で祈ったこともあるかもしれません。ひょっとしたらです。私にはわかりません。私はティルピッツがそうしたとは思いませんし、ルーデンドルフのことも確かではありません。しかし、それが重要なのではありません。重要なのは、彼らの心臓の中に、魂の中に、真のキリスト衝動がないということなのです。彼らは、人類の進化発展の昔の段階に留まったままなのです。私がこれまで述べてきた霊たち(アーリマン的な存在の大群)は、この種の表象(思考形態)の配置にアプローチすることができ、彼らを惹きつけ、思うがままにすることができるのです。そうやってこの霊たちは自分たちの支配を確立しようとするのです。そうやって異質なエレメントが、つまり現在自ら現れようとしている霊界からの一つのエレメントが、この人々の決断に介入しています。歴史的精神病理学は、近い将来実践されることになるでしょうけれども、今はまだ実践されていません。それにもかかわらず、ルーデンドルフの場合は直接歴史的に検証可能です。それは去る1914年8月6日、ベルギー東部にあるリエージュ要塞攻略のときのことでした。ある通りでドイツ陸軍第14師団がごった返しており、当時まだその師団長であったルーデンドルフはその真っただ中にいました。全ての決定権が彼にありました。リエージュ要塞攻略は、ひとえに彼の迅速な決定によって達成されたことです。しかしそのとき、彼の意識は正常さを失いました。このことが、今もなおカエサル的である魂の営みの在りように意識の曇りを、つまりアーリマンの領界への扉をもたらしたのです。

■Ⅴ-24 時代は今、こうした問題を私たちに突き付けています。私たちは人間として、もはやこうした問題を素通りしてはなりません。こうした問題は居心地の良いものではありません。というのも、人々について全く考えず、全く人々に近寄らないことが、居心地よくなっているからです。人類がその個人の多くにおいて真実感覚を全く好まない現代では、こうした問題について徹底して真実を語ることも危険がないとは言えないのです。こうした問題を心情的に勘違いした人たちが、心の中で残酷だと思うかもしれないことは別としてです。

■Ⅴ-25 しかし、以上から帰結することは、キリスト衝動が必要不可欠であることを徹底的に認識することです。どこにキリスト衝動が存在しないのか、その一切を認識しなければならないのです。というのも、昨日お伝えしましたように、キリスト衝動は意識の中間層(イマギナツィオン意識)を占めなければならないわけですが、今日はそれに次のことを付け加えることができるからです。「このキリスト衝動が意識の中間層(イマギナツィオン意識)を占め、人が本当にキリスト衝動に貫かれれば、こうしたアーリマン的な諸力は、意識の中間層(イマギナツィオン意識)を通り抜けてその上に行くことができず、その霊的な諸力でもって知性的な諸力を引きずり下ろすことができない」。全てがこのことにかかっているのです。

■Ⅴ-26 人間界に根差しているいくつかの働きかけと同じくらい重要なのが、人間以外の、人間段階にまだ達していないアーリマン的な存在たちが私たちに働きかけているということ、そしてこのアーリマン的な存在たちには更に別の、より高次のアーリマン的存在たちが働きかけているということです。このことを、こんにちの私たちは絶対に認識しなければなりません。八日前、私は皆さんにミカエルの働きかけについてお話し、その働きかけ方を特徴付けました。ミカエルの働きかけがなんとしても必要不可欠なのです。というのも、かつての人間の知性へのルツィフェル的諸霊の流れ込みがミカエルの働きかけによってもたらされたことがまさに真実であるように、今はその対極として、ある種のアーリマン的な存在たちが上へ昇ってきていることがまさに真実なのです。そして、ミカエルの絶え間なき能動的活動によってこそ、人間は現に上昇してくるそのアーリマン的な存在たちに対して武装することができるのです。こんにち、純然たる自然必然性、自然必然性として表現されるあの種の宿命論に依存することは、既に生理学的にも全く安全ではありません。というのも、純然たる自然必然性、自然必然性の全能さに基づく考え方をする学校教育や生活教育は、人間の頭を弱らせて、人間の意識をひどく受動的にしてしまうことで、別の諸力(アーリマン的な諸力)がこの意識の中に入り込もうとするのを可能にし、キリスト衝動がこんにちの形態で人間の魂の在りように入り込もうとする際に必要なあの「強さ」を、まさに失わせてしまうからです。

■Ⅴ-27 明日も話し続けるつもりですが、今日話し始めたこと、つまり、私たちが覚悟しなければならない特定のアーリマン的存在たちの跳梁跋扈のことをこの時代に語ることは、ある意味で私の義務であります。この存在たちの跳梁跋扈のことは、こんにち既に地球上の様々な人々に知られていることです。しかし、彼らはそれについて完全に誤った解釈をしています。なぜなら、彼らは「キリスト・ルツィフェル・アーリマン」という本当の三位一体について何も知らないか、或いは何も知ろうとせず、アーリマンとルツィフェルを一緒くたにしているからです。アーリマンとルツィフェルを一緒くたにしていると、もはやそれらを区別できなくなってしまい、いま上昇してきているこのアーリマン的な存在たちの真の根本的性格を正しく認識できなくなってしまうのです。純粋にアーリマン的なものを浮き彫りにし、それがルツィフェル的なものと対極をなすものであることを知るときにこそ、ミカエルによる「龍の投げ堕とし」と対をなすものとして今上昇してきている超感覚的存在の流れ込みがどんなものであるのかが分かるのです。それは特定の存在たちがアーリマン的な深層から上昇してくるようなことなのです。人間が度を超した本能的衝動の赴くままになって、自分の衝動を明確にする努力を怠るとき、このアーリマン的な存在たちにとっての特別な襲撃ポイントが人間の中に見つかるのです。

■Ⅴ-28 しかし、こんにちまさに、本能的なものを覆い隠す「アンチメソッド」とでも言いうる一つの手段が存在します。それは、いわば、或る概念を支柱とし、また別の或る概念をその上にのしつけることで、現に存在するものを正しい仕方で判断できないようにするという手段です。皆さん、「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という、近年のプロレタリアートのあの叫びを思い浮かべてみてください。しばしば十分にお伝えしてきたことではありますが、この叫びの中には人類の非常に正当な要求があります。しかしこの要求は差し当たりアピールにならないでしょう。私たちの三分節の理想において初めてこの要求はアピールできるのですが、本当は何か別のことがアピールされているのです。それは何なのでしょうか?「プロレタリアとして諸君に特有の、他の諸階級に対する反感を育み、各々個人として憎悪に似た何かを育み、そして団結せよ。つまり互いに愛し合い、憎悪の感情で団結し、一つの階級への愛を求め、憎悪から互いの間に一つの階級の同志への愛を求めよ。憎悪から、或いは憎しみに基づいて互いを愛せよ」ということです。皆さんがこう考えている時、皆さんは二つの対極的な概念を支柱にしているのです。これでは人間の考え方が曖昧になりますから、本能が抑圧され、自分自身の中で何と関わっているのかが分からなくなるのです。逆説的な表現の使用を許していただけるなら、現代の人間の思考を通して本能的な生活の働きを覆い隠すための、一種の「アンチメソッド」がまさに存在するのです(☆6)。その本能的な生活の働きは、先述したアーリマン的な存在たちにとって特に強力な襲撃ポイントとなっているのです。


【訳者註】
☆1)ダンテ・アリギエーリ著/小林公訳『帝政論』中公文庫 2018年 p.75-77参照
☆2)シュタイナーはヘルマン・グリムのエッセイ『ダンテ、イタリアでの最後の戦い』を参照している。
☆3)残念ながらこれが誰のことなのかは不明である。
☆4)第一講の訳者註☆5を参照。
☆5)恐らく第一講、第三講で言及された「天体領域Ⅷ」に相当すると思われる。
☆6)この逆説的な表現というのは、人間の思考が本来、本能的な生活の働きを暴く「メソッド」であるということを含んでいる。反対に本能的な生活の働きを蔽い隠すために思考が用いられているので「アンチメソッド」という言い方がされているわけである。

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