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装甲騎兵ボトムズ考察3:ワイズマンがキリコに課した暴力的な宿命(さだめ)-グノーシス的なニヒリズムと被投性-

(この考察は『装甲騎兵ボトムズ-闇の只中で輝く光Ⅰ』の続編ですので、未読の方はそちらからお読みいただけると幸いです。全文無料で読める設定にしてあります。)

3.ワイズマンがキリコに課した暴力的な宿命(さだめ)-グノーシス的なニヒリズムと被投性-

 私たちの宇宙から出発する限り、尊敬に値する神よりも胡散臭い神に行き着くほうがはるかに容易である。(E.M.シオラン『悪しき造物主』p.5)

 生誕という強迫観念は、私たちを自分の過去以前へと拉し去っていく。おかげで私たちは、未来に対する、現在に対する、いやそれどころか、過去に対する嗜好をさえ失くしてしまうのである。(E.M.シオラン『生誕の災厄』p.15)

 記憶はぼやけている。未来も過去もぼやけている。既に経験したものと、やがて経験するだろうものが、一緒くたに混じりあい、あとにはこの瞬間しか――じっと突っ立ったまま、石ころの当たった腕をさすってひと息入れているこの瞬間しか――残っていない。神さま、と疲れ果てた気持ちで考えた。こんなことがあっていいのですか?なぜ、こんなふうに孤独でここに立って、見えもしない奴らからいじめられなくてはならないのですか?(P.K.ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』p.33)

 GOD IS NO WHERE
 GOD IS NOW HERE
(P.K.ディック『ヴァリス』p.50)

 私はこれまで、「他所もの」としてのキリコの考察から出発して、「他所もの」概念と密接に関わっているグノーシス的な「この世」と「あの世」の区別、光と闇のAkosmischendualismus、「二つの神」について、ラヴジョイの議論を援用しながら、「ボトムズ≒グノーシス」の、「反プラトン主義≠非プラトン主義」的な側面を取り上げた。前章で取り上げたことには問題が残っている。私は引用も含めてキリコ(及び彼に相当する象徴表現の数々)が「投げ込まれた」或いは「投げ込まれている」という表現を多用したが、「一体誰がキリコを地獄の如き「この世」に投げ込んだのか」と言う問題を残したままにしている。この「誰」に該当するのは、ボトムズ本編の結末から明らかなようにワイズマンである。ワイズマンこそがキリコを地獄の如き「この世」に「投げ込んだ」のだ。前出のグノーシス文書における象徴表現においては、「投げ込んだ者」は「世界創造者」=「現象としての神」=「偽りの呪われたる神」=「デーミウールゴス」である。この辺りにも「ボトムズ≒グノーシス」の「擬態」関係を見出すことができる。この「擬態」の関係を明らかにし、精緻にするためには、第五話「罠」の冒頭で描かれたセルジュ・ボロー司祭によるキリコの尋問のシーンにおいてキリコがひたすら固定観念のようにニーチェの言葉として有名な「神は死んだ」とのみ回答していたことを取り上げる必要がある。

ボロー「キリコ!キリコ・キューヴィーよ答えよ!汝は何処から来て、何処へと去る者や?何故に?キリコよ」
キリコ「誰だ、あんたは?俺に何の用だ?」
ボロー「誰の命令を受けてウドの街に来た?キリコよ」
キリコ「誰だお前は?お前は神なのか?神なら、死んだはずだ。パルミスの平原で、ミヨイテの宇宙で、オロムの高原で…」
ボロー「キリコよ、自らに問え!何故にこの街に現れたのか?お前に命じたのは誰ぞ?」
キリコ「神は、死んだ…」
(『装甲騎兵ボトムズ』第五話「罠」より)

 ここでの尋問のやり方は、製作陣がボトムズの元ネタの一つとしているアルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』において主人公ガリー・フォイルがかけられた「悪夢劇場(ナイトメア・シアター)」の描写と相似している。「悪夢劇場」とは「患者に空想の世界を与えることによってある種の衝撃を加え現実世界へ戻そうと言う治療法だ」(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』p.95)と説明されている。この「悪夢劇場」の設定そのものは二十九話『二人』以降からスタートする「サンサ篇」の冒頭において突如脈絡なくワープした謎の戦艦の中でキリコが体験したことのほうが近いかもしれないが、それはまた別に取り上げる必要があるのでひとまずは置いておくことにする。ともかくそこで尋問された内容は次のとおりだった。

「〈ノーマッド〉はどこだ?どこで〈ノーマッド〉を捨てた?〈ノーマッド〉はどこだ〈ノーマッド〉はどこだ〈ノーマッド〉はどこだ?」
「〈ヴォーガ〉」フォイルは呟いた。「〈ヴォーガ〉」
彼は固定観念に憑かれていた。
「〈ノーマッド〉はどこだ?どこで〈ノーマッド〉を捨てた?〈ノーマッド〉はどうした?〈ノーマッド〉はどこだ?」
「〈ヴォーガ〉」フォイルは叫んだ。「〈ヴォーガ〉〈ヴォーガ〉〈ヴォーガ〉」
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』p.96-97)

 詳細は省くが、『虎よ、虎よ!』において「ヴォーガ(ヴォーガ・T・1339)」はフォイルにとっては瀕死の彼を見捨てた戦艦であるとともに、彼が「神への信仰」を完全に失ったきっかけを象徴する戦艦でもあった。「神は死んだ」とのみ繰り返すキリコと、〈ヴォーガ〉とのみ繰り返す復讐鬼と化したフォイルの発言の真意は、それらがどちらも神への信仰を失った者の謂であるということである。ニーチェが「神は死んだ」という時にはキリスト教の神が前提されていたが、新約聖書には次のようにある。「信じて浸礼を受ける者は救われるであろう、信じない者は断罪されるであろう」(『マルコによる福音書』16章16節)、「汝の信が汝を救った。安らかに歩んで行きなさい」(『ルカによる福音書』7章50節)。しかし、キリコとフォイルの発言はどちらも、彼ら自身の経験からして、「信仰は私を至福にしない」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部第十七章「詩人たちについて」)ということを経験したために発せられたものであった。それらはどちらも神への信仰を失った絶望者の言葉として共通している。絶望者とはこの場合、自己疎外に陥った者のことである。キリコの場合はこの意味での絶望が、彼の「パルミスの平原で、ミヨイテの宇宙で、オロムの高原で」の戦争に次ぐ戦争の経験という描写によって強調されている。キリコとフォイルが失くしたものは同じである。信仰を失った彼ら絶望者から発せられたのは、ニヒリズム的状況を表す現場の言葉である。ニーチェによれば、ニヒリズムとは、「至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ」を意味した(ニーチェ『権力への意志』§2)。そして彼は「徹底的ニヒリズム」について、それを「彼岸とか、「神的」であり道徳の体現であるような事物それ自体とかを措定する権利を、我々が些かも持ってはいないという洞察」(同§3)だとした。これは「神は死んだ」という言葉の持つ意味をそのまま踏襲している。ハイデガーによれば「ニーチェの思考における神及びキリスト教的神という名は、超感覚的世界(超越)一般を示すために用いられている。神とは、様々な理念と理想の領域に与えられた名である」(ハイデガー『杣径』p.243)。だから「神の死」とは「ニヒリズム」の意味するところの通り、「至高の諸価値から実際に価値が失われる事態」を指し示している言葉であり、「信仰等の義務を課す価値一般の可能性が失われること」をも意味している。神への信仰を失った絶望者であるキリコやフォイルらは、ハイデガーが言うようにもはや「超感覚的世界(超越)一般が有効な力を持っていない[=「様々な理念と理想の領域」が消滅している]」(ハイデガー『杣径』p.243)と発言しているのに等しいのだ。

 ここにはある逆説的な意味で、グノーシス主義者たちの立場に当てはまるものが潜んでいる。もちろんグノーシス文書の記述をそれ自体としてみれば、それは「超越の廃棄」とはまさに正反対と言わなければならない。実際に我々は先の章で、グノーシス的なAkosmischendualismusにおける「あの世」(光の超越的世界・超感覚的世界)と「この世」(闇の感覚的世界・生成界)の峻別を行ったばかりである。「光の王」とも称される世界の外部にある真の至高神は、超越を最も徹底した形で示されている。だが、この超越は、プラトンのデーミウールゴスや旧約聖書のYHWHのように「この世」とは何ら積極的な関わりを持たない。この超越は、「この世」の本質ないし原因ではない。シオランはこの超越を次のように述べている。「善良なる神は、創造の道具を全く何一つ持ち合わせていなかった。つまり、この神はすべてを所有しているが、全能だけは例外なのだ」(シオラン『悪しき造物主』p.5)。つまり「この超越はその最も徹底した形で示される仕方自体が超越の否定であり廃棄である」という逆説を含んでいる。グノーシス文書の多くは、真の至高神について、「「存在しない神」が存在する」という逆説からその記述がスタートする。それらの記述は既に述べたように、否定辞が連なっている表現であり、グノーシス研究の大御所である大貫隆が「ないないづくしの神」と表現するのがまさに相応しいものとなっている。「この逆説の意図は、グノーシス主義者が奉ずる至高神が通常の人間の表現能力はもちろんのこと、それまで様々な宗教や哲学説の中で神について行われてきたあらゆる言表、更には他でもない当のグノーシス主義者たち自身の表現能力さえも越えるほどに超絶的な存在であることを、何とかして言い表そうとするところにある。それが正しく「何とかして」の営みであることは、ほとんど際限もなく言い重ねられる多種多様な否定辞(専門用語で言う「否定神学」)に見て取れる」(大貫隆『グノーシスの神話』p.47)。この一例について取り上げておこう(※1)。

 あの方は死ぬことのない方であり、永遠まで続くものである。永遠まで続くものは生成のないものである。何であれ、生成のあるものは、滅びるからである。
 その方は、はじめがなくて、生まれざるものである。というのは、何であれ、はじめのあるものは、終りがあるのだから。
 その方を支配するものは何もなく、その方には名もないのである。というのは、名のあるものは何か他のものの創造物だからである。
 だが、その方にはその方自身の固有のイデアがある。あなたがたが見たことのあるような、或いは受けたことがあるようなものではなく、異質のイデアである。というのは、そのイデアは他の一切のものと違っていて、万物よりも優れているからであり、あらゆる方向から見、自分自身を通して自分を観るからである。
 その終りがないので、到達できないものである。そういうものとして留まっているので、不滅のものである。その似姿がないので、善いものである。絶えず変化するようなものではないので、欠乏なきものである。永遠まで続くものであり、祝されたものである。自分は洞察されないでいながら、自身は自らを常に洞察している。測り得ないものであり、その後を辿り得ないものである。完全なものであり、欠乏がないので、不滅の祝されたものであり、万物の父と呼び慣わされている。(『イエスの知恵』§10)

 既に何度か述べてきたことであるので重複することになるが、大事なことなのでもう一度述べておく。グノーシス主義者たちがこのように彼らの真の至高神ないし超越について、その最も徹底した形で示す仕方が、超越の否定であり廃棄である逆説を含んだ「否定神学」であるということは、真の至高神ないし超越が、実質的には存在者(ens)ではなくて「無」(nihil)であるということを意味している。この「超越-否定」としての「無」=「存在しない神」は、「この世」に対して規範的な関係を持たないし、有効な力を持っていない(ただひとつ例外として、グノーシス文書ではハイデガー哲学で言うところの現存在における「「無」への気づき」に該当する「グノーシス(γνῶσις:認識・気づき・覚知)」そのものないしそれが擬人化されたかたちで象徴表現される「「この世」という「覆い」の彼方からの真の至高神ないし救済者の「呼びかけ」」というモチーフがあるがこれについては後述する)。グノーシスの否定神学が至高神についてこのように語る仕方は、ニーチェの「神の死」の宣告ほど明け透けな語り方ではないにせよ、もし仮にグノーシス主義者たちがこの宣告を聞いたとして、その宣告の真意が「ニヒリズム」=「至高の諸価値から実際に価値が失われる事態」=「信仰等の義務を課す価値一般の可能性が失われること」=「超感覚的世界(超越)一般が有効な力を持っていない」=「様々な理念と理想の領域が消滅している」ということだと捉え得たならば、彼らはその「グノーシス的ニヒリズム」から、特に取り立てて目くじらを立てるようなことをせず、ただ次のように言ったのではないかと思われる。

「「神は死んだ」とあなたは言うが、あなたに言われるまでもない。というのは、我々はそれはとうに「識っている(γιγνώσκειν:ギグノースケイン。γνῶσιςの動詞形。「気づいている」「覚っている」)」。「この世」の造物主は、この世において積極的にその権能を振るうが、彼奴は神としては死んでおり、我らにとって彼奴は邪悪にして呪われた「偽りの神」である。我らはこの「偽りの神」が、そしてこの「偽りの神」の麾下にある闇の勢力が、現象として我らに迫ってきた時に、不安を覚え、吐き気を催した。その時、我らは「識った」のだ。「この世」の造物主が、真の至高神を覆う「偽りの神」であり、真の至高神は「存在しない」ということを。我らが真の至高神は「存在しない神」なのだということを。そして我らの本来的自己はこの真の至高神と同一なのだと。」

 自分の立ち位置周りを取り巻いている現象(周囲世界:Umwelt)に対してその人間が持つ関係という観点からすると、グノーシス文書のいうところの「存在しない神」は、ニヒリズム的な発想に基づいた「隠れた神」(Deus Absconditus)にして「暇な神」(Deus Otiosus)であり、「超越-否定」の「無」である。キリコの口からニーチェの「神は死んだ」という言葉が発せられたことは、「神は存在しない」=「「存在しない神」が存在する」というこの「グノーシス的ニヒリズム」からの神についての認識に近いことが発せられたといえる。またこの言葉が発せられている以上、キリコの観点からは「この世」において積極的に干渉しようとする神が自らの立ち位置周りに現象しようものなら、それは「偽りの神」であって、神とは認められないものだとみなされるであろうことは、この時点でも見て取れるだろう。ただしキリコの場合、その現存在の根本的姿勢が「グノーシス的ニヒリズム」と真正な意味でより接近し、また彼の周囲世界においてそれが現実味を帯びるようになるのは、もっと後半になってからである。本編においてこの言葉が発せられていた当時は、彼はワイズマンという存在がいることをまだ「識らない(ἀγνοεῖν:アグノエイン。γιγνώσκεινの対義語。「無識(無知)である」「気づいていない」「覚るに至らない」)」し、彼がワイズマンによって生み出された「生まれながらのPS」にして「異能生存体」であるということもまだ「識らない」。この時点でこの言葉が持っている意味は、さしあたり、自己疎外に陥った絶望者としての発言であるということであり、本来的自己についてもまだ「識らない」者の発言であるということである。この時点でのキリコがボロー司祭の「何処から来て何処へと去る者なのか」「誰の命令を受けてウドの街に来た?」と問われても「神は死んだ」としか答えない(もしくは答えられない)のは、さしあたり自分が「ただただ「無」から生じ、「無」へと消え去っていく価値を剥奪された者だ」ということ、そして今現在の自分がまさに置かれている状況が、「何故に」に対する答えが覆われたまま、自分の能動的な選択や決意によってしゅったいしたものではなく、気がつけば既成事実的にここにいたという「心境」しか語りようがないからである。そのキリコのその有様はまだ、『トマスによる福音書』が「全て(この世)を識っていても、自己(本来的自己)に欠けている者は、全てのところに欠けている」のと同じだと記述しているがごとくである(§67)。『炎のさだめ』の歌詞において「過去が盗まれている」ということ、「夢(この場合未来)が砕かれている」と歌われていることからしてもこのことが抽出できる。そしてこれは本編において長く凌駕しがたいものとして描かれ続ける。これはハイデガーがいうところの「自分の〈現〉の内へと現存在という存在者が投げ込まれていること(die Geworfenheit dieses Seienden in sein Da)」、「現存在が被投性(Geworfenheit)という情態性(Befundlichkeit)のうちにあることで自分の〈現〉である」ということである。前章でもこの「投げ込まれていること」という表現は「光と闇の混合」という象徴表現とともに既に繰り返したことであるが、グノーシス文書において我々は、この「被投性」にあたる象徴表現が、人間の現存在に予め負わされている「宿命」を表すあらゆる象徴表現のなかでも、最も迫力のある、最も暴力的な出来事として繰り返し出会う。それらは「何故に」対する答えを「偽りの神」たる造物主に帰した上で、かつその「何故に」に対する答えを覆った者として位置づけている。「他所ものなるいのち」は、「この世」という闇の中へ「落下」した。旧約聖書では神が人間にいのちの息(ルーアハ:霊)を「吹き込む」というところに該当する出来事だ。『ギンザー』は、造物主プタフィルの父アバトゥールがプタフィルに「私がお前に着せた七つの栄光の衣をとって、暗黒の水の中へ投げ入れよ」(G174)と命じ、「プタフィルは、(いのちの領域の)「第二の者」が前もって形造っていた作り物を、闇の世界の中へ投げ入れた。プタフィルはいのちの外側で、様々なものと種族とを創造した」(G242)としている。同じ箇所ではまさに旧約聖書の記述が応用された人間創世論が語られる。「プタフィルはいのちの家から与えられながら隠されていたマーナーを手にとって持ってきた。そしてそれをアダムとハッワ(エヴァ)の中へ投げ入れた」(G242)。これらの出来事は光の超越的世界を欠損させた一つの暴力的な事件として、「いのち」の上に生じて宿命となったものとして描かれたのであって、先の章で見たように、「アウタルケイア」という「善そのもの」の本来的な本質から生じたことではない。これはそれ自体が「過失」とか「罪」と位置づけられる。

 キリコにおいて生じていた「被投性」という心境(情態性)は、決定的かつ恒常的な特徴としてストーリー中に位置づけられる。それは『装甲騎兵ボトムズ』の本編ストーリーを通じて「この世」の中で置かれている彼の周囲世界における状況の主観からの凌駕しがたい具象性をもった描写として描かれている。「被投性」とは「この世」の中で置かれている状況を表すための、現存在一般の根本的な「実存カテゴリー」である。キリコ及びグノーシス文書において描かれている神話的隠喩も含めたこの「被投性」の本質的な特徴をまとめると次の通りである。
・受動性
・非自発性
・過去性の契機[=前もって決定済みのもの、客体としての「他所ものなるいのち」にとっては既に起きてしまっているもの]
・罪[=他所ものにとって異質である「この世」における生誕そのもの、及び「この世」という異境に慣れて住まうことそのもの。さらにそれらが罪責のある所与によるものでもあるということ]→「他所ものとしてのキリコ」参照
・頽落(Verfallen)[=「わたし(Ich)」が欲せざる形で所与の「わたしではないわたし(Nicht-Ich)」の中に置かれてしまっていて、それが今や「わたし」の世界となっていること(「非本来的自己」=「世人(das Man:地上的なもの・この世的なものに心を奪われて、この世に堕して生きている人間)の在り方」に没入していること)]
・委ねられているという事実性(Faktizität:実存のうちに取り入れられた現存在の一つの存在性格)
・「他所ものいのち」にとって他所ものである「この世」の中に「放り投げ込まれている」という恐ろしく力動的なイメージによって表現される現存在の既在性(Gewesenheit:既在しつつある未来が、現在を自分の内から退去させるというかたちで未来から発現し、過去となっていくこと)

 現存在の「被投的な既在性」について付言しておくと、現存在はこれを、「この世」の中で彼の居場所が自分に降り落ちてきていること、その身体が予め準備されていたこと、そして端的な「この世」の法則のもとに服することを前もって決定されていることとともに引き受けるという、とてつもなく重い「宿命」とともに背負わされているということを理解しておいていただきたい。これら全てがグノーシス文書の数々が語るところの「偽りの神」及びその麾下にある闇の勢力によって「他所ものなるいのち」が「この世」に「投げ込まれる」ということに含意されている。それがワイズマンによって「異能生存体」として生み出され、また戦争という戦争の中で、地獄という地獄の中で、「異能生存体」として育まれ、更にワイズマンのもとにたどり着くことをワイズマン本人によって計画されたキリコにおいても抽出される。以上に挙げた「被投性」の持つ本質的な特徴のすべてを、キリコはワイズマンによって問答無用に「宿命」として背負わされている。これが『炎のさだめ』の「さだめ」に含まれている意味である!なんという、なんという暴力的な「さだめ」であろう!キリコはこのようなとてつもなく暴力的な「さだめ」をワイズマンによって問答無用に背負わされているのである!この有様を、先に上げた『トマスによる福音書』§67「全て(この世)を識っていても、自己(本来的自己)に欠けている者は、全てのところに欠けている」と同じ意味を持つ別の表現の言葉で表すならば、「あなたがたは天地(この世)の模様を調べる。そしてあなたがたは、あなたがたの面前にあるものを識らなかった。そしてあなたがたは、この「カイロス(καιρός:瞬間や人間の主観的な時間)」を識らない」(§91)ということになるだろう。「時間」を表すギリシャ語は二つあり、それが「カイロス」と「クロノス(χρόνος:過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間)」である。未だ「本来的自己」について識らないということは、「被投性」の本質的な特徴が示していることについても識らないということである。それはまさに自らに迫り来る面前にあるもの(現存在の周囲世界において生じる現象)の本質を識らないということであり、そのままではフランシスコ・デ・ゴヤの『我が子を食うサトゥルヌス』のイメージを想起させるかのようにクロノス時間に食いつぶされるのみ(クロノス=サトゥルヌスないしその象徴表現である「ウロボロスの蛇」は、グノーシス文書においては造物主のイメージと同一視されることがある)であり、「カイロス時間」を生きることを知らないということを表している。というのは、実存にとって「本来的」な現在は、全く未来及び過去との関係によって構成されている「状況」と言う現在だからであり、この「現在」の時間の様態はまさにクロノス時間が意味するような「持続」ではなくて(それはむしろ実存においては非本来的な在り方である)、カイロス時間が意味するような「瞬間」であって、この「瞬間」は、未来の投企が、所与の過去(被投性)へと舞い戻って、その出会いの中で、つまり、過去と未来という相互的な休みのない力動性の相関によって、現存在が自ら決意することによってしか生み出すことができないからである。ここに本来的自己を識らないということ、カイロスを識らないということが、まさに「過去を盗まれ」、「夢(未来)を砕かれている」という歌詞の意味するところに直結する。「過去を盗まれ」「未来を砕かれている」ということは、この二つの時間の相互的な運動の連関から切り離されているということだ。このことはボトムズ本編のストーリーにおいては二十九話「二人」において生々しく描かれている。この二十九話においては、キリコとフィアナが脈絡なくワープした(これは『虎よ、虎よ!』でいうところの「ジョウント」に当たるだろうか?)無人の戦艦内全体において突如、キリコがかつて所属していたレッドショルダー部隊が、無力な非戦闘員を虐殺している残酷な映像と音楽が流される。これは最後の最後でワイズマンの仕業によるものと判明するが、それは先述した『虎よ、虎よ!』の「悪夢劇場」のやり方を髣髴とさせるかのようなやり方だった。

 世界中の子どもは、空想の世界がz文たちにとっては独自なものだと考えている。精神病理学者は、個人の空想のなかのよろこびや恐怖は、全人類が等しく受け継いで持っているものであることを識っている。恐怖、罪悪感、羞恥などの感情は、一人の人間から他の人間へと相互に移り得るものであって、誰もその差異に気がつかない。総合大学の治療家には数千の感情テープが記録してあった。そしてこれらの様々な感情は全て、悪夢劇場において、患者に体験させることができた。
 フォイルは、激しい呼吸をして汗を流しながら眼を覚ました。自分が眼覚めていることには全く気がついていないのだった。彼は、蛇の髪をして血走った眼をした復讐の神(ユーメニデス)の手中にあった。追いかけられ、捕らえられ、高みから突き落とされ、焼かれ、皮を剥がれ、絞殺され、虫にたかられ、貪り食われたのだった。悲鳴をあげた。走った。悪夢劇場のレーダー歩行阻止帯が彼の歩行を抑えた。恐ろしい悪夢の中で、彼は鈍い動きでしか走れなくなった。彼が歯軋り、悲鳴、苦悩、追跡の音を同時に耳にして苦しんでいると、執拗に同じ言葉が繰り返された。(ベスター『虎よ、虎よ!』p.96)

 ワイズマンの「悪夢劇場」は、キリコ自身は思い出したくなくて逃避しようとしていた「過去」を、フィアナの眼にも晒し立てるようなものだった。それはキリコにとっては、正体不明の何者かが自分が忘れようとしていた過去を思い出させようとするものであった。この二十九話「二人」において目につくのは、キリコがワイズマンによる「悪夢劇場」を経験したあとに、まずいと言っていたはずの慣れもしない酒を「自棄っぱち」気味に飲む描写である。

キリコ(そんなに見つめて何が言いたい?そうだ、俺は無慈悲な人殺しだ。吸血鬼だ。そうさ、俺こそ、人を愛する資格なんてありはしない…)
フィアナ(可哀想なあなた…、ひょっとしてPSとしての私よりも、ずっとあなたの過去は、あなたの心を苦しめているんだわ…)
キリコ(そうさ、愛なんて、俺の心のなかには入り込みようがないものなんだ!)
(『装甲騎兵ボトムズ』第二十九話「二人」より)

 また、その後も休戦状態にあるバララントの領域を、操作不能の自動運転状態とはいえ侵犯してしまったことからこの無人戦艦を拿捕しようとしたバララント軍に一人で無闇矢鱈と突っ込み戦闘する描写もその「自棄っぱちさ」が目につくだろう。これらはキリコにとって思い出したくもなく忘れようとしていたはずの彼の過去を思い出させようとするワイズマンの「悪夢劇場」から逃避しようとしての所作であると思われる。これらが意味しているのは、先に見た過去と未来という二つの脱時的時間の内的運動の連関、即ち本来的な「過去-未来関係」の怠慢な放棄である。そこでのキリコはまさに「「災害生存者」という実態を忘れようとして七転八倒の有様」(シオラン『生誕の災厄』p.7)を示していると言わざるをえない。つまりキリコのこれらの行動は、真正な実存の持つ「緊張」(カイロス時間)をではなくて、欠陥のある実存の様態としての「弛緩」(クロノス時間)を、単なる現在としての「頽落した在り方」を、ニーチェの『ツァラトゥストラ』における「深淵的な思想」=「同一物の永劫回帰」を開陳したツァラトゥストラに対する「侏儒」的な在り方を、なおも被投的在り方であることを、求めた所作であったのだ。

 「待て、侏儒よ![…]わたしか!それともおまえかだ!だが我々両人のうちでは、わたしのほうが、より強い者である――。おまえは私の深淵的な思想を識らないのだ!この思想に――おまえは耐えられないだろう![…]この通用門を見よ!侏儒よ![…]この通用門はニつの顔をもっているのだ。二本の道がここで出会っている。まだ誰も、これらの道の果てまで行った者はないのだ。この逆戻りの長い小路、この小路(過去)はどこまでも続いて、一つの永遠を形成しているのだ。そして、あの外へ通じる長い小路(未来)――それはもう一つの永遠である。これらの道は、互いに矛盾する。それらは、真正面から頭と頭をぶつけ合う。――そして、ここなるこの通用門こそが、それらの出会うところなのだ。通用門の名は上に記されてある、〈瞬間〉と。しかし、人あって、これらの道の一つを、先へ――いよいよ先へ――いよいよ先へ、いよいよ遠くへ進んだとせよ。その場合、侏儒よ、おまえは[わたしと違って]これらの道(過去と未来)が[真正面から頭と頭をぶつけ合うことはなく]永遠にわたって互いに矛盾する(過去と未来とが永遠に離れ去って相合することがない)と信じるのか?」(フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』第三部第二章「幻影と謎について」 §2※[ ]( )内はハイデガーの解釈に基づいて補填したもの)

 キリコは「なんのために寝た子を起こすような真似をするのだ?誰があの映像をセットしたんだ?俺にどうしろと言うんだ!?」と不機嫌に、まるで眠りを妨げられた寝起きの悪い子どものように、そのまま眠り続けていたかったかのような心境を吐露している。このカイロス時間の「怠慢な放棄」としての非本来的自己への逃避と没入について、グノーシス文書では「本来的自己」の隠匿・忘却(λήθη:レーテー)と言う意味での「無感覚(意識を失っている状態)」「無知」「眠り」「酩酊」「死」という象徴語において目にすることができる。現存在が身に帯びるこれら全ての特徴は、かつてギリシア神話において、屍者たちの魂が冥界(ハーデス)において置かれた状態について回っていたものだった。グノーシス文書ではむしろ、「この世そのもの」が冥界に取って代わっており、この世自体が「屍者たちの帝国」だということになる。このことを踏まえたうえで「被投性」を文字通りに受け取れば、現存在が交配した世界の中へ、物質的素材と身体の重力の中へ落下したことが原因となって「無感覚」「無知」「眠り」「酩酊」「死」が生じ、それ以後それらが重い混濁となって現存在にずっと付いて回るということになる。これに関与しているのが、この世を支配している「偽りの神」及びその麾下の闇の勢力(悪霊群・アルコンテス・番天使等)である(時間も空間も、諸々の闇の勢力下にある一つの権力体系なのだから!)。「闇の子らによって呑み込まれた時、五柱の光の神々は意識を奪い取られた。そして彼らは闇の子らの毒のせいで、狂犬か毒蛇に噛まれた人間のようになってしまった」(テオドール・バル・コーナイ『評注蒐集』第Ⅺ巻が伝えるマニ教の宇宙創成論)。つまり、「無感覚」「無知」「眠り」「酩酊」「死」という象徴語において表されているのは、闇の毒がもたらす定型的な伝染病である。これら象徴語群全体に言えることであるが、これらは単なる作り話の飾り文句ではなく、世界の内側での現存在の根源的な自体に関わっている。グノーシス文書における、本来的自己の忘却・隠匿と言う意味での「無感覚」「無知」「眠り」「酩酊」「死」という中毒症状を表す象徴語群は、「実存カテゴリー」として抽出されうる類の概念群である。これらの象徴語群が表しているのは、現存在一般が世界の中へ「頽落」している状態以外のなにものでもない。頽落、それは逸脱した欠陥のある実存の様態としての「現在」を示している実存カテゴリーそのものであり、本来的自己ないし本来的な「過去-未来関係」に基づく現在(カイロス時間)を生きることの「怠慢な放棄」ないし隠匿・忘却である。そしてグノーシス文書においては、これはただたんにそうであるというだけではない。むしろ、「不安」という情態性を排除して打ち消したいがためにそうであることを欲し、愛してしまうといった側面があるのである。キリコがわざと慣れもしない酒をかっくらい、無闇矢鱈と戦闘を仕掛けるその有様は、まさに不安な状態を排除するために「自棄っぱち」になってしまっているのだ。このキリコの様子を見てはどうしても次のような言葉を彼に向かって投げかけたくなってしまう。キリコよ、「なぜお前は眠りを愛するのか。そして躓く者たちと一緒に躓くことを愛するのか」(G181)。キリコよ、「酔いと眠りと神に対する無知に自己を明け渡している者どもよ、目覚めるのだ。ロゴス無き眠りに魅せられた、酩酊のさまをやめるのだ」(『ヘルメス選集Ⅰ』)。キリコよ、「無知という生の言葉を飲み干し、酔いしれて何処へいくのか。その言葉に耐えられず、もう吐き出そうとしている。酔いから醒めて、しっかりと立て。心(魂・叡智)の眼で仰ぎ見よ。[…]というのも、無知という悪が全地に溢れ、身体に閉じ込められた魂を腐らせ救済の港に着かせないようにしているからだ。[…]おまえは纏っている衣を引き裂かなければならない。即ち、無知の織物を、悪の支えを、腐敗の軛を、闇の囲いを、生身の死を、感覚のある屍骸を、引きずっている墓を、住み着いた盗人を、愛するものによって憎み、憎むものによって妬む者を。お前が衣のように身に着けていた敵は以上のようなものであり、お前を自分の方へ下に向かって締め付けているのだ。それはお前が仰ぎ見て、真理の美とそれに内在する善とを観照し、自分に仕掛けられた罠に気づいて、この者の悪を憎むことのないようにするためであり、他方、見せかけに過ぎず、[少しも似たところのない、これこれと見定めることの出来ない]感覚を多量の物質で塞ぎ、憎むべき快楽で飽かせ、これを無感覚にすることによって、お前が聞くべきことを聞かず、見るべきことを見ないようにするためなのだ」(『ヘルメス選集Ⅶ』)。
 もちろん、当初キリコにこのような「頽落した在り方」をもたらしたのは、最終話において「私はおまえをまず当たり前の人間にしてやったのだ」と言っていたワイズマンにほかならない。だが、そのようにキリコを「この世」に「投げ込み」、その権能をもって「頽落した在り方」をもたらした張本人であるにもかかわらず、キリコの過去を剥き出しにして彼を狼狽えさせ、彼の不安を煽り、「寝ている子どもを起こす」かのような真似をしたのも、同じワイズマンであった。この辺りの入り組んだ事態にもまた固有の意味があるのであって、そこにもグノーシス的な「擬態」が存在する。これについてはワイズマンとキリコが対峙するに至るまでの経緯とその対決その物の場面の考察とともに明らかにすることにしよう。


※1)その他の一例については、『「ヨハネのアポクリュフォン」のアイオーネス-超越的世界プレーローマの諸至高霊-』に記載した『ヨハネのアポクリュフォン』における至高神についての引用をご参照願いたい。また他の例を参照されたい方は大貫隆の『グノーシスの神話』が文庫化されているので推奨する。

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