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ルドルフ・シュタイナーGA3『真理と学問』6章の読み方③

それでは汝には、「一切の知が汝そのものについての知以外の何ものでもないということ」、「汝の意識が決して汝そのものを超え出ていくものではないということ」、そして「汝が対象(客観)の意識だと思っているものが、汝が汝の思考の内的法則に従って感覚と同時に必然的に成就する「対象(客観)の定立」の意識以外の何ものでもないということ」が分かっているわけだね?(フィヒテ『人間の使命(拡張)』私訳)

読解ポイント3:最初に置かれたフィヒテの『知の理論の概要』の引用の内容について

「それ故、『知の理論』は、それが体系的な学問である限り、他の一切の可能な体系的な学問とちょうど同じように、自由が規定されることによって成立する。自由は、ここでは特に、「人間精神の行為性一般が意識に立ち昇ること」と規定される。[…]さて、この人間精神の自由な行為によって、既にそれ自体で形式であるもの、即ち人間精神の必然的な行為が、内容として新たな形式へ、知の形式ないし意識の形式へ取り入れられる[…]」(フィヒテ『知の理論の概要』より)。ここで、おぼろげに感じられていることを、明瞭な概念で述べるとすれば、「〈人間精神〉の行為性全般」という言い方で何を理解すればよいのだろうか?「意識の中で生じる認識の理念の現実化」、これ以外の何ものでもない。フィヒテが完全にはっきりとそれを意識していたならば、彼は前記の文章を単純に次のように定式化したはずであろう。即ち、「『知の理論』が教えるのは、まだ〈自我〉の無意識的な能動性である限りでの、意識に立ち昇る認識である」と。『知の理論』は、〈自我〉の中で必然的な行為としての認識の理念の客観化(対象化)が行われることを示さなければならない。(シュタイナー『真理と学問』(強調は筆者))

先のノートではこの文の構造がどうなっているかのみを述べました。しかし、どうしてフィヒテからの引用がシュタイナー自身の説明するようなかたちへと結実するのか、シュタイナー自身の説明の明瞭さと対極の「おぼろげさ」が際立っているだけに、何をどのようにしたらこんな風に「事行の事行」が遂行できるのかが、はっきり言って非常にわかりにくいでしょう。それはここだけでなく引用の全編がそういうふうになっているのではないかと感じている人も多いはずです。しかし、以上の引用の意味が分かれば、6章のあとのシュタイナーによるフィヒテの引用とフィヒテに関する説明はほぼ氷解すると言っても過言ではありません。今回はどうしてこれらが同じ説明になるのかについて説明する試みです。

ひとまず次のように理解してください。上記の引用は自我の事行についての説明だと私は申し上げました。事行の原語はTathandlung、つまりHandlungとTatの合成語です。HandlungがUrsache(原因)であるのに対して、TatはBewirkte(結果)或いはEffekt(効果)としてのTatsache(事-物)です。上記の引用で言われる知の形式、意識の形式はTathandlungのTatに当たると言えます。ではその知ないし意識の形式はどのようなものなのかというと、これは皆さんが後々「カントの〈超越論的統覚〉の綜合に結び付けて、フィヒテは、自我(絶対我)の能動性一切が、判断の形式に従って、経験という織物を織ることの中にあると考えた」と言っている以降の段落で見ることになる「a = a」(a ist a.)、「a ⇒ a」(Wenn a ist, so ist a.)、つまり論理学でいうところの「同一律」の命題です。上記の引用の「人間精神(絶対我)の自由な行為=人間精神(絶対我)の必然的な行為」ないし「人間精神の自由な行為⇒人間精神の必然的な行為」の結果(Tat)が、この同一律で表されているということになります。つまり、「もしaがある(可能)ならその時(必然的に)aがある」ということがこのように表されているわけです。「主語aには何でも自由に代入可能(端的に無制約的に定立可能)であるが、そこに代入された何かによって述語に入るものは必然的に定まる」と、そういうことを言い表しています。フィヒテは、この同一律の主語が同時に主観を表し、そして述語が同時に客観(対象)を表すと共に、主観を構成するものが諸カテゴリー、客観を構成するものが諸存在物(Ens)であるとして、この同一律を「主観・諸カテゴリーの定立から客観・諸存在物の定立へと推論する判断形式」だとしています。つまり「主語=述語」「主語⇒述語」ということでもって、「主観=客観」「主観⇒客観」、及び「諸カテゴリー=諸存在物」「諸カテゴリー⇒諸存在物」ということを同時に説明しているのです。これがシュタイナーが「理念の現実化」「理念の客観化(対象化)」と明瞭な概念で言い換えることができたわけなのです。そしてここで皆さんに気づいていただきたいのは、これをまた別の言葉で言い換えると、人間の内的宇宙(ミクロコスモス)の「メタ化」(マクロコスモス化)だということができるということです。つまり前期シュタイナーの哲学に詳しくなくとも、後期シュタイナーのオカルトに詳しいなら皆さんがよくご存じの、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応関係と同一のことが、フィヒテにおいてはこの同一律から導き出されており、更にシュタイナーによってそれが明瞭化されているということが分かると思われます。そしてこの同一律「a = a」「a ⇒ a」からフィヒテが導き出している意識ないし知の形式を成り立たせているのがまさに、カントの〈超越論的統覚〉の綜合(すべての具体的経験に先だって、それらの経験を可能にし、構成する根本原理。意識の超越論的統一)と結びつけられた、「意識の根底」にある〈人間精神〉〈自我(絶対我)〉のXであり、「事行」だということになります(『真理と学問』の書き方ではあまりに自明なことのように書かれているので、それが自明でない人にはわかりにくい側面がありますが、Xについての記述は、そのままフィヒテがほぼ『知の理論全体の基礎』でカントの超越論的統覚を意識して書いたことそのままです)。

ここまでシュタイナーが「理念の客観化」「理念の現実化」と明瞭化したことまでの論理的道筋を、フィヒテやシュタイナーが行った方法そのもののごとく更に明瞭化しよう素描してきましたが、いかがでしたでしょうか。ミクロコスモスとマクロコスモスの照応関係を明瞭化すればするほど、その中身の「区別のついていない様」の記述の明瞭化という意味で、イマギナツィオン的認識のおぼろげさ・曖昧さがより際立つことになっていることにお気づきいただけたでしょうか。なお、以上のことを成り立たせているとされる原理に当たるXは、次の引用で、「表象の演繹」に関連付けられて、『知の理論』が「限定作用であると同時に限定態」から出発するという言い方で言及されているにとどまっていますが、『知の理論』の究極的立場とされるEinbildungskraft(構想力)=vis Imaginationisと関連しているという、イマギナツィオン的認識の字面にも関連付けられるようなことになっています(カントやフィヒテをご存じの方なら自然とその関連が結び付いていることがわかることでしょう)。そのことが明瞭にわかる引用をもってひとまずこのノートをとじたいと思います。

カテゴリーは客観とともに同時に成立し、しかも客観を初めて可能ならしめるために構想力そのものの基盤の上で成立する。(フィヒテ『知の理論の特性綱要』より)

以下には何もありません。筆者は現在『大天使ミカエル』の翻訳を作成中です。この解説をお気に召していただけた方で、ご支援いただけるという方は投げ銭でのご支援をいただければ幸いです。

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