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建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話③-

(本ノートは、本文は無料で読むことができます。下部に「投げ銭チケット」がありますので、お気に召した折にはご購入頂ければ幸いです。なお、ご購入頂いた方には、少々の追記をご覧いただけます。なお、本ノートは『建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話①』及び『建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話②』の続編となっていますので、未読の方は先にこれらをお読みいただければ幸いです。)

建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話③

祈  り

 天に在ます父よ!あなたからはただ善き、完全な賜物だけが来たるのです。あなたが人々に対して教師に任命する者、思い煩う者に対して助言者に任命する者、その者の助言と教えに従うことはまた有益であるに違いありません。それ故、思い煩う者が、神から任命された教師たちから、つまり野の百合と空の鳥から、真実に学ぶことができますように執り成し給え!アーメン。(セーレン・キェルケゴール『種々の精神での建徳的談話』第二部)

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Ⅲ:空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、[…]汝らは之よりも遙に優るる者ならずや?汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。[…]ああ信薄き者よ。さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな。[…]明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。-死せる鳥が教えたことと話師の助言-

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 悲しみと不平は適度に、神の言葉をして汝を慰めしめまた統べしめよ、心をして悲しみの内に罪を犯せしむな、死によって我々は生を始める!(デンマーク『讃美歌集』636番)

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 筆者は先のノートで、自らを動かし、そして常に、自ら不動にして全てのものを動かす神が、自分自身を動かすとき、彼を動かすものは愛を措いて他にはないと述べておいた。その神の愛が、空の鳥をラッカに差し向けたとも述べておいた。神は空の鳥をもってラッカを野外に導く。神はそのようにしてラッカを、何も心労や思い煩いを思い出させない環境へと導く。もちろんそれは神の思い遣りである。それは思い遣りがいわば存在するがそれでいて存在しないということができる思い遣りである。つまり、もし思い遣りがいわば存在するなら思い遣りの感動的な親近さを持っており、そしてもし思い遣りがやはり思い遣りでないなら、同時に思い遣りの和らげる疎遠さを持つ環境である。そのようにして、神が機縁として働くことの担い手となる空の鳥が、教師として、また救助者として、彼女を西の森へと導くのである。思い煩いが彼女のもとに定着したのだから、次のことが必要である。つまり、眼と魂を、思い煩いから引き離すために何かが成されねばならないということだ。空の鳥に眼を向けさせること、それは彼女の眼と魂を、その思い煩いから反らさせるのである。そして実際に彼女は空の鳥が自分を呼んでいると思い、その注意を空の鳥に向けた。そのように彼女は、その時に空の鳥を見上げて、思い煩いに眼を向けないでいる。この描写が表しているのは、即ち、思い煩いが或る人間の魂に定着したということが、眼が凝視する時のようなものだということである。思い煩うラッカに対して機縁として働く救助者としての神は、眼を動かせというのだ。「身の燈火は眼なり。この故に汝の眼ただしくば、全身あかるからん。されど汝の眼あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや」(『マタイによる福音書』6章22-23節)。神は、「鴉を思ひ見よ!」(『ルカによる福音書』12章24節)そして悪しき魂を散じ、思い煩いを凝視することを止めよ、とラッカに対して働きかけるのだ。思い煩いから涙をこぼして泣いているラッカに対するその働きかけは、まるで神が鳥を通じてその涙を拭きとるかのようではないか?「鳥を求め見る眼から風が涙を乾かすなら、それは涙を拭ったのが鳥であるかの如くではないであろうか!」(セーレン・キェルケゴール『種々の精神での建徳的談話』第二部)。思い煩う者が泣き続けたのであっては、それは涙を拭うということにはならない。だが救助者としての神は、鳥を通じてかくのごとくラッカを泣き止めさせ、まるで彼女の涙を拭っているようではないか!

 思い出してみていただきたい。空の鳥は、かつても同じくラッカの思い煩いを、即ち、カナとの会話の中で現れていた「何をして働けばいいかわからない」ということ、またカナが「頑張らないと手伝うつもりが、面倒なチビが一人増える結果になったりして」とからかったことで気落ちして得てしまったその思い煩いを、時計屋の高いところにいることでの怖さもろとも、運び去ってはいかなかっただろうか?「あ、鳥だ…」「うん…」「鳥が壁を越えていく…」(『灰羽連盟』第四話「ゴミの日・時計塔・壁を超える鳥」)

 鳥は恐らく壁のずっと向こうから、幸福な地域からやってくる。その場合にその地域はもちろん依然として存するのだ。そして鳥は飛び去る。ずっと向こうにある幸福の地域へと飛び去って行く。カナは「鳥には忘れ物を運んでくるという言い伝えがある」と述べているが、鳥にはもう一つ、もしも人間や灰羽が、ただ飛び去って行く鳥の後を見続けるなら、鳥が彼らの気づかぬままに、彼らの思い煩いを運んでいくという側面があるのだ。「ラッカ?平気になった?」「あ、平気だ…!」「んじゃ、もう怖いもんなしだな!」(『灰羽連盟』第四話「ゴミの日・時計塔・壁を超える鳥」)。そうだ、そうやって空の鳥が思い煩いを持って行ってくれるのだ!ラッカは、第四話の時と同じように、第八話-第九話でも戒められるのではない。そうではなくて、神は、彼女に空の鳥に注目させ、鳥の導くままに西の森に入っていかせ、思い煩いのへばりついている魂を気散じさせるように促すのだ。さあ見てみようではないか、一体「空の鳥の謎に満ちた「道」」ほどいかに困難で理解しがたいことがあるかを。そしてまたその謎以上に「灰羽の謎に満ちた「道」」ほどいかに困難で理解しがたいことであるかを!そこで我々は、いよいよ、空の鳥に導かれるままに西の森に入っていったラッカが、その憂愁の霧を晴らす、いわば敬虔な気晴らしとでも言うべきものの助けによって、思い煩いとは別のことを考え得るに至る事情について考察することにしたいと思う。

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 ラッカの繭の中の夢、白骨化した鳥の発見、話師との対話、そしてラッカが罪憑きでなくなるという過程において、テーマとなっているのは全て一貫して、九話のタイトルにもある「再生」である。そしてこの「再生」はまた、七話のタイトルにある「病」との関係で見て取る必要がある。ラッカが善に対する不安=悪魔的なものの量的増大から憂愁に閉ざされたこと、絶望して自己自身であろうと欲さないという弱さの絶望-懐疑における、永遠についての(om)、或いは自己自身に関する(over)絶望-懐疑に陥っていたこと、それらが七話のタイトルにある「病」の正体であり、また「罪」の正体でもあった。「この病は死に至らない」(『ヨハネによる福音書』11章4節)のではない。むしろこの病はまさにキリスト教的尺度において「死に至る病」と呼ばれるところのものである。死に至る病とは、文字通りその終わり、その結果が死であるという病である。しかしこの概念は独特な意味で介されなければならない。死に至る病は、存命中に罹る病であるが、キリスト教的尺度における厳密な意味ではそれ自体が死だからである。それ故に、死に至る病に罹るということが厳密な意味においてそれ自体死であり、その結果が死であるということは、実のところ、その死を死に切ることができないという病に罹っていると言わねばならない。キリスト教的尺度での厳密な意味では死に至る病それ自体が死であるので、死に至る病に罹るということは、「汝之(善惡を知の樹の果)を食ふ日には必ず死べければなり」(『創世記』2章17節)と言われるところと同じ意味で、必ず死ぬ(丁:døe Døden)ということである。そして、その最後のものが死であるということは、死に至る病つまり死のままで終わるという病である。キリスト教的尺度においては、存命中に死に至る病に罹り、更にそこからその死を死に切るということができない者は、たとえ肉体的な意味で死んだとしても、永遠の祝福に与ることは出来ず、それからは遠く離れた永遠の不幸に服することになる。それとは対蹠的に、存命中に死に至る病に罹り、更にそこからその死を死に切ることができた者、つまり堕罪から、信じることの情熱の内に自らを持することへと質的飛躍を遂げ、全力挙げてサタン以下の悪魔の誘惑と戦うことに努める者、つまり「禍転じて福となす」=「必然性から建徳する」者は、肉体的な死の後、永遠の祝福に与ることになる。キリスト教が「分裂を提示する、即ち、永遠の祝福かさもなくば永遠の不幸かと、そして時間の内の決定を示す」(ヨハネス・クリマクス(キェルケゴール)『哲学的断屑への結びの学問外れな後書』)のである。この過程のうちで、死に至る病を死に切るということこそが、死から生への質的飛躍を意味する。これこそが九話のタイトルの内に含まれるラッカの「再生」なのだと理解することができる。そしてこのラッカが再生することの助力者となるのが、機縁としての働きを成す神であり、その神の機縁としての働きを担う空の鳥であり、そして話師の助言である。これらの助力があって、ラッカはこれまで自分自問していたことに対する回答を見出して再生するに至るのだ。ではその過程を見てみることにしよう。

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「灰羽って、何なんだろう。壁もこの街も、灰羽のためにあるんだってみんな言う。でも、灰羽は突然生まれて、突然、消えてしまう。私、自分がどうして灰羽になったのかわからない。なにも思い出せないままここにきて、何もできないまま、いつか消えてしまうんだとしたら、私に、何の意味があるの?」(『灰羽連盟』第八話「鳥」)

 前ノートでも取り上げたが、ラッカの上記の発言こそは、かつてクウとの離別において、眼の一瞥(丁:Øiets Blik)の如き瞬間(丁:Øieblik)の体験によって永遠なもの、つまり神のことをはっきりと自覚したからこそ、そしてしかしながらその自覚がありながらも永遠なものについての(om)、或いは自己自身に関する(over)絶望-懐疑に陥ってしまったからこそ発せられる、絶望者の言葉である。万物の生成はその滅亡(丁:Forkrænkelighed)になる。つまり万物は滅亡するために生成したとも言えるだろう。万物の生成と滅亡は、万物の初め(アルファ)であり終わり(オメガ)である。そしてその初めであり終わりであるもの、それこそは歴史の唯一の支配者たる神である。「今在し、昔在し、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルファなり、オメガなり』」(『ヨハネの黙示録』1章8節)。灰羽もまたその誕生はその滅亡になる。つまり灰羽は滅亡するために生成したということにもなる。人間や灰羽の立場では、生成と滅亡がそのように一つであるということに自覚的になると絶望してしまうのだ。ラッカはその一人であったわけだ。万物の生成がその滅亡になるのは、神の経綸がそうだからである。「造られたるものの虚無(丁:Forfængelighed→「滅亡:Forkrænkelighed」にはForfængelighedの意がある)に服せしは、己が願によるにあらず、服せしめ給ひし者によるなり」(『ロマ書』8章20節)。嗚呼、そうなのだ、全ての被造物は、自らの意志に反して滅亡の下に服せしめられている!「星、如何にそれが天に固く留まっていても、然り、最も固く留まっている星、しかしそれも墜落して場所を変える、そして、決して位置を変えなかったものも、やはり何時か、深淵に落ち込むことによって、位置を変えるだろう。そして、世の中にある全てのものを込めてのこの全世界、それは、衣服が脱がれる時に人が衣服を更えるように更えられるであろう、果無さ(丁:Forkrænkelighed→Forfængelighed)の餌食!」(セーレン・キェルケゴール『野の百合と空の鳥』)。嗚呼、果無さ、果無さ、果無さよ!全てが果無さであり、そして何時か全てのものが本来そうであること、即ち果無さの餌食になるのだ!
 ところが、鳥にはこのような思い煩いが全くない。「鳥は播かず、刈らず、倉に収めず」、これが意味するのは、鳥は日々の暮らしに対して思い煩いがなく、無条件に喜んでいるということである。沈黙と服従に次いで教師としての鳥の中にあるもの、それは喜びである。だが、喜びとは何であろうか?或いは喜んでいるということはどういうことであろうか?それは、自分自身に真実に現在しているということである。それは、自分が今日あるということが一層真実である同じ度合いにおいて自分自身に一層よく現在的である同じ度合いにおいて、その同じ度合いで不幸の日である明日が人間や灰羽に対して存しないということである。喜びとは、現在する時間に強調の全てを置いた現在する時間である。神聖なる神は、今日あるということにおいて永遠にそして無限に自分自身に現在している。そしてそれだからこそ鳥は喜びである。なぜなら、鳥は、沈黙と無条件の服従によって、今日あるということにおいて全く自分自身に現在しているからである。福音書が「空の鳥を見よ」、「何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな」、「明日を思い煩うな」と述べ伝うところで、これを成し、そして空の鳥から学ぶべきとしているのは、まさにこの喜びなのである。この意味において「常に喜べ!」(『テサロニケ前書』5章16節)というのだ。喜びの教師たる空の鳥は、自ら喜んでいる或いは喜びであるということより以外のことには本来何も関わらないのである。
 だが、この喜びほど教授することの難しいものはない。嗚呼、人間が、灰羽が、ラッカが、ただ自らに常に真実に喜ぶことができていさえすればよいのだが!しかし、嗚呼、以上の意味で常に喜ぶということはやはりそんなに容易なことではない。また、もし以上の意味でもし自ら常に喜んでいるのであるなら、喜びについて教授することは容易なことであろうし、何事といえどもこれほど確かなことはないはずであろうが、目下の現状は全くそうではない。喜びについて、死に至る病に罹った罪憑きのラッカにこれを教授することは非常に困難な状態である。上記の「灰羽って何なんだろう?」から始まるラッカが述懐した言葉は、その死に至る病に罹ったラッカが不幸な者の意識状態にあるということを意味する。ラッカは自分の未来である果無さという難事ないし謎に直面し没頭しているのと同時に、自分の過去である生成ないし誕生についての難事ないし謎に直面し没頭している。このような仕方で自分の生存の内容、自分の意識の充実、自分の本来の本質を自分の外側に持っている者は不幸な者である。死に至る病に罹ったラッカが不幸であるのは、その意識が上記のように自分自身から常に退去していて、決して自分自身に現在していないからである。彼女の不幸な者の意識は、彼女自身を罪人のように震わせ、彼女を過去時(過去完了)か未来時(未来完了)かへと、現在あることから明確に退去させてしまうのである。ラッカの思い煩いの原因はこれらなのだが、ここで過去時も未来時のどちらも現前的ではなく、また自力で現前化することなどはかなわないものだということが強調されねばならない。そうであるにも関わらずこの現前化の叶わぬこれらに彼女は固執してしまうわけであるが、そのことによって彼女は、自分自身について現在的でなく、また現前的でなくなってしまっているのである。

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 空の鳥に導かれたラッカが辿り着いた先、それは涸れ井戸であった。彼女は井戸の中に入るも足を踏み外して落ちてしまい、気を失ってしまう。気を失っている間にラッカが見たのは、かつて見た繭の中の夢と同じ、逆さまになって落下していく自分を鳥が心配しているかのように振る舞うという夢であった。繭の夢もであるが、このラッカの夢は、精神ないし自己の現実性がそれの可能性を誘い出す姿として現れたものであるとみることができる。この可能性の実態は、彼女の精神ないし自己について仄めかされた無である。救済の霊的な絶対存在である永遠なる神が、ラッカの死に至る病に罹った精神ないし自己の治癒と救済と自由の実現のために、ラッカに夢として見させた、ラッカ自身についての仄めかしとしての無なのだ。この可能性の無は、救済理念の霊的な絶対存在としての神の様相的な姿である。目覚めたラッカは、彼女の眼の前に白骨化した鳥の骸があるのを目撃して一瞬不安を覚えたかのように見える。彼女の夢見た精神ないし自己は、それ自身の現実性を、この鳥の骸に投影する。繰り返すが、その現実性はラッカの精神ないし自己について誘い出されたそれの可能性であり、彼女の精神ないし自己について仄めかされた無である。彼女はその可能性の無を、自己の外にある鳥に投影して見たのだ。そのようにして精神ないし自己は、可能性の不安において、或いは可能性の無において、或いは不安の無において、自分を自分自身の前に示す。「これは、自由が、可能性の不安において、或いは可能性の無において、或いは不安の無において、自由を自由自身の前に示す(丁:hvilken er Frihedens Visen-sig-for-sig-selv i Mulighedens Angest, eller i Mulighedens Intet, eller i Angestens Intet.)」(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)『不安の概念』)ということでもある。ラッカは緊張しながら目の前のこの鳥の骸に集中する。彼女の精神ないし自己は、それ自身に対して不安として関係しながらも集中しているのだ。これは、彼女の意識が過去時ないし未来時に退去していた状態から現在することに集中する状態となっていると言える。しかもその不安は徐々に収まっていく。「どうしてだろう、怖いはずなのに…」(『灰羽連盟』第八話「鳥」)。おお、これこそ、神の機縁としての働きを担う鳥の偉大なる技術と言わずしてなんであろう!これほどまでに何も学ばないで済むということなどありえない教授の仕方があるだろうか!「不安は可能性の前の可能性として自由の現実性である(丁:Angest er Frihedens Virkelighed som Mulighed for Muligheden.)」(ヴィギリウス・ハウフニエンシス(キェルケゴール)『不安の概念』)。ところがその不安であるにも関わらず、鳥の骸を見つけたラッカの不安は収まっていき、むしろ彼女はその鳥の骸に精神集中している。精神ないし自己ないし自由が自分自身の現実性である可能性の無を投影して自分の外に見ながら、不安を覚えつつもその不安から抜けでているのだ。骸の鳥が偉大なのは、自らの骸を見せてまでこの精神集中をラッカから引き出したことにある。前ノートで取り上げておいたことを思い出していただきたい。ラッカはこれまで悪魔的なもの=善に対する不安の量的増大から憂愁に閉ざされており、絶望して自己自身であろうと欲しないという弱さの絶望-懐疑、永遠なものについての、或いは自己自身に関する絶望-懐疑に陥っていた。この時の彼女においては、罪に対する不安の量的増大が次々と罪を産み出すという恐るべきことが起こっていた。その不安の量的増大は、責めある者となることからのものではなく、責めある者とみなされることからのものであった。そしてその不安の量的増大からの思い廻しがむしろ彼女を責めある者としてしまっていた。そのように外目を気にしすぎて却って悲惨な状況にある彼女に対して、骸の鳥は自らがその骸であることそのものをもって、言葉なしにこう突きつけるのだ、「何故、虚無=滅亡に属する心身(魂と肉体)のことを思い煩うのか?」と。「なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや」(『マタイによる福音書』6章28節)。この鳥は外目にあらわな顔つきや身振りを伴ってラッカを待っていたのではない。もはやその肉体すら滅びている。この鳥が骸になってラッカを待っていた様は、聖書が「汝らは髮を辮み、金をかけ、衣服を裝ふごとき表面のものを飾とせず、心のうちの隱れたる人、すなはち柔和、恬靜なる靈の朽ちぬ物を飾とすべし、是こそは神の前にて價貴きものなれ」(『ペテロ前書』3章3-4節)というところの教えを、言葉によらずして沈黙の内にラッカに教授し、またそのように実践できるようにしている。そしてその実践は、その骸を眼にしたラッカの心を捉えて精神集中させるという形で既に成されているのだ。この精神集中こそは全ての思い煩いを、自由の可能性に、即ち救済理念の霊的な絶対存在としての神の様相的な姿に、絶対的に投げ委ねる(丁:kaste)ということに他ならない。「もろもろの心勞を神に投げ委ねよ(丁:kaster→kasteの命令形)、神汝らの爲に慮ぱかり給へばなり」(『ペテロ前書』5章7節)。絶対的な沈黙と絶対的な服従によって、鳥はその全ての思い煩いを自分から投げ委ねる。そこには常に喜びがあるのだ。そしてこの鳥の骸は、鳥自身が無条件にこの言葉の文字通りに生きた結果でありその証である。「一日へ空が白み、そして鳥が一日の喜びに朝早く目覚める時、なんという喜びであろうか。夜が迫り、そして鳥が喜んでその巣へと家路を急ぐ時、別の調子に合わせてとはいえ、なんという喜びであろうか。そして夏の長い日は何という喜びであろうか!鳥が――鳥は喜ばしい労働者のようにその労働で歌うのみならず、またその本質的な労働が歌うということである――喜ばしくその歌を始める時、なんという喜びであろうか。次にまた隣の者が始め、そして次に向かい隣の者が始め、そしてそのようにして合唱が唱和する時、なんという新たな喜びであろうか、なんという喜びであろうか。そしてかくして最後に、森と谷、天と地を反響させる音の海の如くである時、音の海、その中で、音を発出させた者は今や喜びからして蜻蛉返りをする、なんという喜びであろうか、なんという喜びであろうか!そして鳥の全生涯を通じてこのようである。鳥は至る所でそして常に何かを、或いはむしろ、喜ぶべき充分なものを、見出す。鳥は唯の一瞬も浪費しない」(セーレン・キェルケゴール『野の百合と空の鳥』)。実際、我々が先に見た果無さ=滅亡の餌食となるということの恐るべき明日のことを、悲しみの明日のことを、鳥は囀り込めて次のように歌っていたのではないか?「そう、そう、明日(丁:ja, ja, imorjen=イァ、イァ、イモーン)」と(セーレン・キェルケゴール『汝ら自ら審け!』)。おお、鳥の教授は、彼らが自分で学ぶのと同様に――これが人間や灰羽にとって非常に役立つわけだが!――常に飾り気がなく、常に同一であり、あてにできるものであり、決して気分のうちでころころ変わるものではなく、同じものであり、同じものをめぐり、そして常に同じものである(プラトン『ゴルギアス』490E参照)。この骸の鳥の成す喜びの教授、これは彼らの生存を表現しているが、それはごく簡単に言えば次のことである、即ち、「今日がある、それがある、然りこのあるに無限の強調が置かれる、今日がある――そして、明日に対して、或いは次の朝に対して、何の、全く何の思い煩いもない」(セーレン・キェルケゴール『野の百合と空の鳥』)。これが沈黙と服従の喜びである。沈黙と服従の喜びにおいては明日の日は存しない。明日の日が沈黙と服従の喜びのために存しない時に、その時に沈黙と服従の喜びのうちに今日の日があるのだ。そして鳥は、この絶対的な沈黙と服従の中で、その全ての心労を自分から神に投げ委ねている。「実際、最強の投擲機が何かを自分から投げる如く、そして人が最も憎悪するものを投げ去るときのような情熱を以って、彼らは神に投げ委ねる――最も確かな射撃兵器が撃つ時のような確実さを以って、そして、最も熟練した狙撃兵が当てるときのような信念と確信を以って、である。同じ刹那に――そしてこの同じ刹那は最初の瞬間からのものであり、今日であり、彼らが存する最初の瞬間と同時的である――同じ刹那に彼らは無条件に喜んでいるのである。素晴らしい機敏さ!そのように彼らの全ての心労を捕らえ、しかも一挙にしてである。そして次いでそれをかくも機敏に自分から投げ、そしてかくも確実に的に当てることができるとは!」(セーレン・キェルケゴール『野の百合と空の鳥』)。鳥はまさにこれを成すのである。それ故鳥は同じ刹那に絶対的に喜んでいるのだ。そしてこれは全く辻褄が合っている。なぜなら、神は、自ら自分自身のことを「アルファでありオメガである」と言い給うところの「今在し、昔在し、後きたり給ふ主なる全能の神」だからであり、また世の全てと世の全ての心労を、無限に容易に支えることができる「忍耐と慰安の神」(『ロマ書』15章5節)だからである。おお、なんという筆舌に尽くしがたい喜びであることか!このように、この骸はそのように沈黙と服従と喜びの内に生きた結果であり証なのである。自分自身がこのように生きたことを、この骸の鳥はラッカに示そうとしたのだ。そしてこれこそは、人間や灰羽が精神として、自己として、そして自由として生きるべきとするところの教授なのだ。この骸の鳥はその使命=規定(丁:Bestemmelse 独:Bestimmung)を果たした。自らの骸を持って、彼女が自分の身をもって精神集中できるように、彼女を練成することができた。これこそが話師が言うところのこの鳥の誇りと言わずしてなんであろうか!「その骸は、お前が識るべきことを識ったことの証。使命を果たしたことを誇りに思って、お前に骸を見せたのだ。悲しむことはない」(『灰羽連盟』第九話「井戸・再生・謎掛け」)。

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凡て信によらぬ事は罪なり。(『ロマ書』14章23節)

 ラッカは、神の機縁としての働きによる繭の夢と骸の鳥の共時的な示唆から一時的に落ち着きを取り戻した。その示唆は、神の恩寵と呼ぶべきものであろう。「凡ての善き賜物と凡ての全き賜物とは、上より、諸々の光の父より降るなり」(『ヤコブ書』1章17節)。しかし彼女はそれでもまだ罪憑きであることから抜け切れていない。トーガによって井戸の中から助け出されてもなお、彼女の罪に憑かれている状態は継続している。即ち善に対する不安の量的増大からの憂愁ないし絶望-懐疑という死に至る病は未だ完全には治癒されていない。その様子は、未だ「自分自身が現在している」ということをほったらかしにして巣立ったクウのことについて思い煩っていること、及び話師との会話の中に見出せる。話師は「鳥が赦しを与えたがためにラッカは罪憑きではなくなった」と、自分と彼女の会話を省いているのだが、ラッカが罪憑きでなくなる上では、彼女に対する話師の助言が必要不可欠であったであろうと思われる。
 彼女の罪は、その継続の中でむしろその度が強まっていると見なければならない。神の機縁としての働きによる繭の夢と骸の鳥の共時的な示唆は、神が彼女の罪を赦そうと自ら申し出られていると言うことに他ならない。それなのにラッカはまだ自ら罪人であろうと欲している。「私が罪人で、本当はここにいちゃいけないのなら、どこか、私の居るべき場所に連れて行ってください。ここは、この街は私には幸せすぎます、皆優しくて、誰からも大事にされて、いたたまれないんです…」(『灰羽連盟』九話「井戸・再生・謎掛け」)。神が繭の夢と骸の鳥の共時的な示唆によって自ら罪の赦しを願い出られる以前と以後とで、ラッカにおいては罪が継続しているわけであるが、この前後においては彼女の罪はある転回(丁:Omvendelse)を迎え、その度が強化される方向となっている。ここで「罪の継続」と言うことが問題にされねばならない。「罪の継続」においては、「罪の内にある状態」が問題である。「罪の内にある状態」こそはそれ自身の内で罪の度を強化するものであり、罪の状態にあるという意識を持ちつつ罪の状態の留まるというところまで展開するものである。「罪から出た所業は、ただ罪によってのみ力と強さを得るのだ」(シェークスピア『マクベス』第三幕第二場)。この罪の転回と強化は、この神の共時的な示唆のある以前においては「単に自己自身であること」が問題とされねばならなかった。しかし今や、この示唆のあった以後においては、「罪人であるという規定において、即ち自己の不完全性の規定において自己自身であること」が問題とされなければならない。たびたび繰り返して述べているように、ラッカにおいて前者が問題とされねばならなかったとき、その絶望-懐疑の形態は「絶望して、自己自身であろうと欲しない」という「弱さの絶望」であり、「永遠についての(丁:om)、或いは自己自身に関する(丁:over)絶望-懐疑」であった。今や、後者が問題とされなければならなくなった時、彼女の罪は同じ「弱さの絶望」に根差しているのだが、ここではそれは「絶望して、自己自身であろうと欲する」という逆の形態を呈している。またこれに加えて「罪の赦しについての(丁:om)、或いは自己の罪に関する(丁:over)絶望-懐疑」という罪が問題とされねばならない。前ノートにおいて述べておいたようにここでもomが内面的な側面に、そしてoverが外面的な側面に対応している。
 まず、罪の継続における罪の度の強化の外面的な側面から見てみよう。「自己自身に関する絶望-懐疑」という罪に比べて「自己の罪に関する絶望-懐疑」という罪は、罪の強度が強まっている。この罪の度の強まりは、言うなれば、かつて作った囲いの中に更に囲いを作って自ら閉じ籠もり、自己の罪に関する絶望を盾にして、自らの周囲から自分に触れてきて自分を善きもののように扱うこと――この場合、皆に優しく扱われ、誰からも大事にされるということ、或いは縁起物のように扱われること――を自分に対する襲撃や追跡と見なし、それから身を守ろうとするかのようなのである(彼女は後にこれを自分で「私が木の実のように殻に閉じ籠っていたから」と言い表している)。彼女は、自分はこの場に相応しくない、自分がこの場に相応しい善きものであることは不可能だと意識してしまっているのだ。「自己自身に関する絶望-懐疑」それ自体で既に善からの離脱であるが、「自己の罪に関する絶望-懐疑」は第二の離脱なのだ。繭の夢と骸の鳥の共時的な示唆と言うかたちで、ラッカには明らかに神の恩寵があった。ところが、悪鬼はしぶとくラッカを「神か、或いは…」の「これか-あれか」の第二項に引き摺り込もうとし、悪あがきでもあるかのように、悪魔的なものの全力を振り絞って、彼女を、神をも畏れぬ強情さに駆り立てさせてしまう。そして、彼女にもたらされたはずの恩寵や悔い改めの機会に対してすら、彼女のその罪人としての立場を守らせようとさえさせるのだ。「自己自身に関する絶望-懐疑」という罪が善と絶交せんとする罪であるとすれば、「自己の罪に関する絶望-懐疑」という罪は、悔い改めと絶交せんとする罪である。「今からはもう(自己の罪に関する絶望という罪の内にある今)、人生に何の真剣なこともなく、全てが戯言、誉れも恩寵も死んでしまった」(シェークスピア『マクベス』第二幕第二場)。「自己の罪に関する絶望-懐疑」という罪の内にあるラッカは、自分で自分を決して赦そうとしない。話師が後にラッカに告げるように「自分のことを自分で赦すことはできない」。しかし、それは神が骸の鳥と繭の夢の共時的示唆=恩寵により自らラッカの罪を赦そうとする以前の話である。神が自らラッカの罪を赦そうとしたにもかかわらず、ラッカは「自分は自分を大切に思ってくれていた誰かを傷つけてしまった」ということを盾にして、自分で自分を赦そうとしない。「単に自己自身であること」が問題である時に「自分で自分のことを赦すことができない」のならまだしも、神が彼女を赦そうとしているのなら、自分自身を赦す優しさがあっていいはずなのだ。ところが彼女はそうしようとしない。これが、「自己自身に関する絶望-懐疑」という罪からその罪の度が強まった「自己の罪に関する絶望-懐疑」という罪である。
 次にこの罪の継続における罪の度の強化の内面的な側面を見てみよう。神による繭の夢と骸の鳥の共時的な示唆=恩寵というかたちで、ラッカの自己は、救いに面し、またその罪の赦しに面した。ラッカがクウとの離別の際に体験した永遠なものの眼の一瞥(Øiet Blik)=瞬間(Øieblik)から陥った「永遠なものについての絶望-懐疑」という罪は、「罪の赦しについての絶望-懐疑」という罪へと、罪の度が強まっている。彼女の神に面する自己はいまや神による罪の赦しに面する自己となっている。「罪とは、神の前で、或いは、神の観念を抱きつつ、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、ないしは絶望して自己自身であろうと欲すること」(アンチ-クリマクス(キェルケゴール)『死に至る病』)というのが定式である。「永遠なものについての絶望-懐疑」という罪同様に、「罪の赦しについての絶望-懐疑」という罪もまた、このどちらかの定式に帰せられるのだが、かつての弱さの絶望が前者においては「絶望-懐疑して自己自身であろうと欲しない」という罪の定式に帰せられていたのに対し、後者の度の強化された罪においては、先に述べておいたように、逆に「絶望-懐疑して自己自身であろうと欲する」という罪となっている。絶望-懐疑して自己自身、即ち罪人であろうと欲し、何らの赦しもありはしないと考えるのは、実に弱さの絶望なのだ。ラッカが自らを罪人として規定し、神の側から鳥を通じて罪の赦しを、恩寵を、与えようとしているにも関わらず絶望して話師に罪人にふさわしい場所に連れて行ってくれと頼むのは、神の前にあっては、神に面と向かって次のように直談判に押しかけているようなものである。「私は罪人なんだ、こんな私に罪の赦しなどないんだ、そんなことはありえないんだ!」と。それは彼女が常に神の前にあることを鑑みれば、まるで神に面と向かって議論するかのようなものだ。聖書は言う、「汝は神と議論するべきではない(丁:Du skal ikke gaae i Rette med Gud)」(ヴィクトーァ・エレミタ編集(キェルケゴール)『これか-あれか』第二部『最後の言葉』)。「無智の言詞をもて神の経綸を暗からしむる此者は誰ぞや」(『ヨブ記』38章2節)「全能者と議論するは賢明なるか?神を罰する者、これに答ふべし」(『ヨブ記』40章2節)。これは、人間や灰羽が、「神に面と向かっては(丁:ligeoverfor Gud≒mod Gud→「神に抗しては」「神に対しては」の意味を含む)常に正しくないということを指示している(「gaa i Rette med …」で「…と議論する」という熟語であるが、直訳すれば「…と正しさの中に入る」であり、「汝は神と正しさの中に入るべきではない」となる)。「神に面と向かっては自分は常に正しくない」というのは、先に引用した『ヨハネの黙示録』1章8節の記述に即して考えてほしいが、「過去のことに関しても現在のことに関しても未来のことに関しても、それらに面と向かっては(抗しては)正しくない」と言うことを含んでいる。そしてこれをラッカに教えたのが話師の謎掛けである。「罪を知る者に罪はない、では汝に問う、汝は罪人なりや?」「私は、繭の夢がもし本当なら、やはり罪人だと思います」「では、お前は罪を知る者か?」「だとしたら、私の罪は消えるのですか?」「ならばもう一度問う、罪を知る者に罪はない、では、汝は罪人なりや?」「罪がないと思ったら、今度は罪人になってしまう…」「恐らくそれが、罪に憑かれるということなのであろう。罪のありかを求めて同じ輪の中を廻り続け、いつか出口を見失う」(『灰羽連盟』第九話『井戸・再生・謎掛け』)。話師のこの「罪のありかを求めて同じ輪の中を廻り続け、いつか出口を見失う」という指摘自体がラッカの罪を説明するものであり、また罪の度の強化がいかにしてなされるか、その「罪の内にある状態」の具体的な説明となっている。自分は罪人であると思う、だから罪人であろうと欲する、それは「罪の赦しについて絶望-懐疑して自己自身であろうと欲する」という罪である。だが、逆に、「罪を知る者に罪はない」という命題を盾に、罪があると知りながら自分は罪人ではない、そのように罪人であろうと欲しないのであれば、それもまた罪である。自らが罪人であるという規定において、単に罪人であろうと欲しないというのは、罪の赦しなしで済まそうとすることであり、それは罪のもう一つの定式、即ち、「罪の赦しについて絶望-懐疑して自己自身であろうと欲しない」という罪に陥るだけだからである。
 罪憑きの罪の輪に囚われること、それは即ち憂愁ないし絶望-懐疑の無限性、つまり罪の無限性に堕ちるということである。そうした者の思い廻しは次のようになっている。「自分自身の内部で迷う者には動き回るそれ程大きな縄張りがあるわけではない、彼にはそれが出口の無い堂々巡りであることが間もなくわかる。[…]彼は導きの意図を見失い、まさに自分の感覚の鋭さを挙げて、自分自身に向ける、良心が目覚める、そしてこの袋小路を抜け出さねばならないというのに。彼の狐穴(丁:Rævehule)には出口が沢山あるのに、彼の不安な魂が日光が差し込むのを見たと思う瞬間、それは新たな入口であることがわかる、そんな風に彼はおびえた獣のように、絶望に駆られて、絶え間なく出口を探し、そして見つけるのは入り口ばかり、そこから自分自身に逆戻りするのである」(ヴィクトーア・エレミタ編集(キェルケゴール)『これか-あれか・第一部』『誘惑者の日記』)。憂愁は精神のヒステリーであるが、前ノートで述べておいたように、精神-才知(丁:Aand 独:Geist)豊かな本性に限って襲うものである。絶望-懐疑も同様である。狐穴は憂愁の無限性を言い表した比喩である。狐は才知ある獣の代表的なものであり、敵に襲われたりしていざというときに敵をまいて逃げるために、自分の巣穴にたくさんの通路ないし出入り口を作っている。このことから転じて、特別な才知を絞って骨折りによって拵えたものを狐穴と言う。嗚呼、罪憑きの罪の輪とは、まさしくこの狐穴の如くではないだろうか!しかしだ、それでも狐にはそれが巣穴であるが、人間や灰羽においてはそれは上記のように真に安息あるところと呼ぶには程遠い。だから罪憑きの罪の輪に囚われた者は、やはり「イエス言ひたまふ『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』」(『ルカによる福音書』9章58節)と言われる時の鳥との比較と同様に、狐との比較においても悲惨な状況にあると言わねばなるまい!

「…どう答えればいいんですか?」
考えなさい。答えは自分で見つけなければならない」
(『灰羽連盟』第九話「井戸・再生・謎掛け」)

 考えなさい!さて、果たしてこの謎掛けは慰めの無い語りかけなのであろうか。話師は彼女を破滅させるためにこんなことを突きつけるだけなのだろうか?否、決してそうではない!実は、この話師の謎掛けは、ネムがラッカに問題を出した時と同じように、ヒントが既に答えになっているところがある。ラッカが突き付けられた罪の輪の謎掛けの内容は、神の下にあって、自らが罪人であると規定したうえで、それであろうとすることも、それであろうとしないことも、直談判するようなことは正しくないというものだ。神の前で、或いは、神の観念を抱きつつ、絶望して自己自身であろうと欲しないことも、絶望して自己自身であろうと欲することも、罪憑きとして罪の輪に囚われるだけであるからと。ましてや神は自分から罪の赦しを、恩寵をもたらしているのだからと。ラッカは自らが罪人であると規定して、それであろうとすることも、それであろうとしないことも、それを正しいとして神と議論する[=神と正しさの中に入る]べきではない。実は、これは裏を返せばラッカに対して、「神に面と向かっては自分は常に正しくない」ということをラッカが学ぶようにしてのみ、彼女は神と議論する[=神と正しさの中に入る]ことができるということを助言するものである。さて、そう捉えた上で鳥についてもう一度振り返ってみていただきたい。鳥は正しさを持っている。「然るに汝らの父の許しなくば、その一羽も落つること無からん」(『マタイによる福音書』10章29節)。鳥の骸は、鳥が神の下にあって、沈黙と服従と喜びの内に生きたというその生存証明のようなものであった。その他の被造物も同様である。だが人間や灰羽だけは、「神に面と向かっては自分は常に正しくない」ということが留保されている。ラッカには既にもたらされていなかっただろうか、「神か、或いは…」の「これか-あれか」が。ここでラッカがはっきりと突き付けられるのも、同じ「これか-あれか」なのだ。即ち、鳥を初めとして他の被造物がそうであるような意味で常に正しいことの方をとるべきなのか?それとも、憂愁と絶望-懐疑が支配すべきであり、絶えず新たな諸困難を発見すべきであり、そして思い煩いが並んで進むべきであり、不安にされた魂に対して積んだ経験を繰り返し教え込むべきであるのか?という「これか-あれか」である。そして、「神に面と向かっては自分は常に正しくない」ということを自分で考えて自分で答えを見つけなさいと告げる話師の言葉は、実のところその熟考こそが憂愁と絶望-懐疑を鎮めることに努めるということにつながるのだ、とラッカを自然に導く、心の底から労わる助言なのだ。というのは、先に述べたように、「神に面と向かっては自分は常に正しくない」ということを熟考することにこそ、「神と議論する[=神と正しさの中に入る]ことができる」という建徳的なものが存するからである。「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。全て求むる者は得、尋ぬる者は見いだし、門を叩く者は開かるるなり」(『マタイによる福音書』7章7-8節『ルカによる福音書』11章9-10節)。
 「神に面と向かっては自分は常に正しくない」ということ、「過去のことに関しても現在のことに関しても未来のことに関してもそれらに面と向かっては正しくない」ということを熟考せよと話師によって教えられる――その容認に伴う苦痛よりも苦い苦痛が考えられるであろうか。ラッカは壁に触ってしまったことから、レキが調合した苦い薬を飲まねばならなかったが、以上のことを容認することに伴う苦痛は、それと並行して飲まねばならなかった病を癒す苦い薬剤のようなものだと言わねばならない。実際ラッカは、オールドホームに帰ってきて寝込んだ際、壁に触ってしまったことで得た肉体的な変調と、罪憑きとして抱え込んだ死に至る病の双方と闘わなければならなかった。この時彼女は二重に苦い薬剤を投与され、尋常でない闘病していると言わなければなるまい。話師は彼女の最善のためになることを知っている。その苦痛に耐えることができれば、いつかはもっと強い抵抗をすることができるだろうということを見越してそうしたのだと思われる。そのための苦い薬剤を、ラッカは飲んだ。彼女は自分の過去について思い煩っていた。繭の中で見た精神の夢、ないし井戸に堕ちた時に見た精神の夢において現れた、自由の可能性にして救済理念としての絶対存在である神の様相的な姿である仄めかしの無たる鳥の暗示から、自分を愛し、大切に思ってくれていたであろう両親をはじめとする人々のことを知らされ、謝らねばならないと思い悩むラッカ。しかし、灰羽になった今となってはもはや謝りに帰ることはできない。また彼女は自分の未来についても思い煩っていた。いずれは自分も行くことになるであろう壁の向こうのこと、そして自分にとって大切な友だちであったクウが先にそこへ旅立っていったことから彼女の安否を気にかけ思い煩うも、それらのことについて知ることは許されない。そうしたできないこと、許されないことに面と向かっても(抗しても)正しくないのだ。となればどうすれば正しいのか。導き出される答えは一つしかない。それは「神に面と向かわない(抗しない)ことが常に正しい」、即ち「過去のことに関しても現在のことに関しても未来のことに関しても面と向かわない(抗しない)ことが正しい」という答えしかありえないのだ。「嗚呼われは賤しき者なり、何と汝に答へまつらんや、唯手をわが口に當んのみ。われ已に一度言たり、復いはじ、已に再度せり、重ねて述じ」(『ヨブ記』40章4-5節)、「我知る、汝は一切の事をなすを得たまふ、また如何なる意志にても成あたはざる無し。『無知をもて神の経綸を蔽ふ者は誰ぞや』、斯われは自ら了解らざる事を言ひ、自ら知ざる測り難き事を述たり。『請ふ聽たまへ、我言ふところあらん、我なんぢに問まつらん、我に答へたまへ』。われ汝の事を耳にて聞ゐたりしが今は目をもて汝を見たてまつる。是をもて我みづから恨み、塵灰の中にて悔ゆ」(『ヨブ記』42章2-6節)。このように神には面と向かわず(抗さず)に「ヨブの言たることのごとく正しく」(『ヨブ記』42章7節)なければならないのである。これが、これまでのノート全てにおいて語ってきた畏れ戦きに始まる沈黙と絶対的な服従の下で「常に喜べ!」と言われることに相当するのだ。彼女自身、レキを初めとする灰羽たちの看病の下、必死に二重の病と闘っていた。その過程で漏れ出た言葉は、「消えたくない」「ここにいたい」「ここにいていいよね?」と、これまでのラッカが絶望-懐疑して善及び悔改めと絶交せんとしていた向きとは全く質的に反転したものとなっていた。それは彼女が自分の罪を認識しながら、他者に自分の身を全面的に投げ委ね、心の底からその罪の赦しを冀うものであった。この時の彼女の態度を一言で表すならが相応しいであろう。信こそは罪の反対である(丁:Fortvivlelseに含まれるTvivl=懐疑は不信の意でもある)。このように彼女はこの闘病の過程でまさに「禍転じて福となす」=「必然性から建徳する」という、非自由から自由へ質的飛躍を遂げたのである。即ち罪を通じて祝福を見出すということを!「その反対を通して初めてひとはその誰もが望むものを手に入れるということ、それは全く全ての人間的なものの不完全さである。私は[…]ただ罪を通じて初めて祝福を見出すことについて思い起こすのだ」(ヴィクトーァ・エレミタ編集(キェルケゴール)『これか-あれか・第一部』『ディアプサルマタ』)。
 神に面と向かわず(抗さず)、自分自身を抑えつけて罪の赦しを得るということは最も難しいことである。ラッカは罪責の負債を帳消しにするための道を示されたわけではない。彼女はただ罪の赦しが存在するのだということを信じなければならない。罪の赦しにおいて免ぜられるのは責めだけであって、その先のことに、罪の赦しは関わらない。罪の赦しとは、たとえ責めがもたらす帰結は変わらないままであるとしても、責めが免ぜられたのだという慰めの意識によって、新たな人間に再生することである。しかしその再生とは、罪人があれこれと迷い試してみた挙句にそこへたまたま辿り着いてそのもとで全く別人に生まれ変われるというような、そのようなものではない。責めとはその様々な帰結――不幸や苦しみ――などよりもずっと怖ろしいものだと知る者だけが悔改めることができ、その再生に与ることができるのだ。「狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし」(『マタイによる福音書』7章13-14節)。「われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のためには、悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歡喜あるべし」(『ルカによる福音書』15章7節)。
 彼女に罪の赦しがあったのは、まず神の愛の故であり、その機縁としての働きの担い手となった鳥の信――話師によれば鳥は「ラッカを信じ、寄り添う者」でもある――の故である。ラッカはこの鳥によって、自分にとって大切な誰かからの自分への愛を知り、嘆き悲しんだ。自分を失って嘆き悲しんだであろう誰かがいる、その誰かの嘆き悲しみは、実はラッカ自身クウを喪ったことで嘆き悲しんだこととも絡んでいる。彼女がクウを喪って嘆き悲しんだことは、その誰かに与えた苦しみと同じ苦しみを自分が生きねばならないという必然的なものだった。そして彼女はいまやそれらを知るに至る。先に『ロマ書』8章20節を引いておいたことを思い出していただきたい。「造られたるものの虚無に服せしは、己が願によるにあらず、服せしめ給ひし者によるなり」。その続きには次のようにある。「然れどなほ造られたる者にも滅亡の僕たる状より解かれて、神の子たちの光榮の自由に入る希望は存れり。我らは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、共に苦しむことを」(『ロマ書』8章21-22節)。建徳的なものはまさにそこに存していた。「愛は徳を建つ」(『コリント書』8章1節)のであり、「愛は多くの罪を掩ふ」(『ペテロ前書』4章8節)のであるから。

* * *

「絡果…」
「その名の由来が解るか?」
「私が木の実のように殻に閉じ籠っていたから…」
「そしてこの地で芽吹き、他者との繋がりを得たからだ。故にそれがお前の真の名となる」
(『灰羽連盟』12話「鈴の実・過ぎ越しの祭・融和」)

 良き地に落ちし種あり、生え出でて百倍の實を結べり。[…]譬の意は是なり。種は神の言なり。[…]良き地なるは、御言を聽き、正しく善き心にて之を守り、忍びて實を結ぶ所の人なり。(『ルカによる福音書』8章8-15節)

「お前はなぜ赦されたと思う?」
「私は、自分を赦したわけじゃ…」
「そうだな、誰も、自分で自分を赦すことはできない。だが、お前には鳥がいた。お前を信じ、寄り添う者が」
「罪を知る者に罪はない。一人では同じ場所を廻り続けてしまうけど、でも、もし隣に誰かがいるなら…」

 我汝に告ぐ、この女の多くの罪は赦されたり。その愛すること大いなればなり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。[…]汝の罪は赦されたり。[…]汝の信汝を救へり、安らかに往け。(『ルカによる福音書』7章47節)

* * *

 『灰羽連盟』において建徳的物語は続く。死に至る病から癒えたラッカは自分の最も近くにいた人物に目を向ける。即ち自分と同じ死に至る病に生まれつき、しかも七年もの間ずっと罹っていた罪憑きであったレキに。

* * *

あとがき

 ここまでお読みいただいた方、誠にありがとうございました。いかがでございましたでしょうか。この『建徳的物語としての灰羽連盟』の「鳥についての建徳的談話篇」はこれで終わりとなります。この後は残るラッカとレキの物語についての解釈を書く予定であります。その解釈は、「鳥についての建徳的談話篇」の延長線上にあるものとなる予定です。ラッカとレキの間で交わされる会話に含まれている彼女たちの心の機微を、罪憑きという死に至る病を死に切り、試練を乗り越えたラッカから見たレキという視点、及び未だその病を死に切れないままであるレキから見たラッカという視点とを考慮しながら、見ていきたいと思っております。(以下は何もありません。投げ銭チケット扱いです)

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