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シュタイナー『バガヴァッド・ギーターの隠れたる基盤』第6講の読解試案

シュタイナーの『バガヴァッド・ギーターの隠れたる基盤』原文と『ギーター』本文(私はサンスクリット語を読めないので、東方出版から出ている藤田晃氏の原典訳を参照しました)を照らし合わせていたところ、シュタイナーの第六講について注釈が必要に思われたので書いておきたいと思います。

まずは9-4・9-5にてクリシュナがアルジュナに向かって話しかけているところを取り上げます。

9-4:形態が非顕現である私は、全世界に遍満している。万物は私の中に存在するが、私は万物の中には存在しない。
9-5:されど、万物は私の中に存在しない。主宰神たる私のヨーガを見よ。私は万物を支えているが、万物の中には存在しない。私の本性は万物を存在させることである。(藤田晃『バガヴァッド・ギーター詳解』)

ここから導き出せる命題を作ると次の4つになります(もちろん、順番を逆にすれば8つになりますが省略します)。
⑴万物は私の中に存在するが、私は万物の中に存在しない。
⑵私は万物の中に存在するが、万物は私の中に存在しない。
⑶万物は私の中に存在しないし、私は万物の中に存在しない。
⑷私は万物の中に存在し、万物は私の中に存在する。

さて、どういうことでしょうか。ここでの「私」は「非顕現の私(根源的実在)」と「顕現の私(現象形態)」とが語られています。

まず、⑴「万物は私の中に存在するが、私は万物の中に存在しない」は、そのままの字面の通りですが、実質は、

⑴’「万物は〈非顕現の私〉の中に存在するが、〈非顕現の私〉は万物の中に存在しない」

です。⑵は、「されど、万物は私の中には存在しない」と書かれているところを受けていますが、これは「万物は〈顕現の私〉の中に存在しない」ということであり、そこから「〈顕現の私〉は万物の中に存在する」が導き出せます。ですから、

⑵’「〈顕現の私〉は万物の中に存在するが、万物は〈顕現の私〉の中に存在しない」

と言うことができます。そこから「万物は〈顕現の私〉の中に存在しないし、〈非顕現の私〉は万物の中に存在しない」として⑶の命題を作ることができ、「〈顕現の私〉は万物の中に存在し、万物は〈非顕現の私〉の中に存在する」として⑷の命題をも作ることができるというわけです。一見、この命題に書かれている「私」の指示対象の説明を無視して見ると矛盾している命題に見えてしまうわけですが、実はそれぞれの指示対象がはっきりすると、この文章から作れる4つの命題のどれもが正しいということになります。つまり、以下のように言うことができます。

⑴の命題が真であるのは、この命題に登場する一番目と二番目の「私」が〈非顕現の私〉を指す時のみである。
⑵の命題が真であるのは、この命題に登場する一番目と二番目の「私」が〈顕現の私〉を指す時にのみである。
⑶と⑷の命題は、一番目の「私」が〈顕現の私〉、第二の「私」が〈非顕現の私〉を指す時にのみ真である。

さて、本ノートで注目しておきたい重要な点は、⑴と⑵の関連です。シュタイナーの『バガヴァッド・ギーターのオカルト的な基盤』第六講には次のような記述があります。高橋訳『バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤』ではp.148です。ここは、高橋先生が『秘教講義4』の「人智学」で、ご自身の人智学として、最も重要な箇所だと言っているところのひとつでもあります。

Ist vielleicht in der Bhagavad Gita auch ein Mittelpunkt vorhanden, ein Mittelpunkt der Steigerung? Die Bhagavad Gita hat achtzehn Gesänge, der neunte könnte also ein Mittelpunkt der Steigerung sein. Nun lesen wir im neunten Gesänge, gerade also in der Mitte, die merkwürdigen Worte, die prägnant zum Ausdruck kommen: Und nun sage ich, nachdem ich dir alles mitgeteilt habe, nun sage ich hier das Geheimste für die menschliche Seele. - Fürwahr, in diesem Moment ein wunderbares Wort, das scheinbar abstrakt klingt, aber tief bedeutsam ist. Und dann das Geheimste: Verstehe! Ich bin in allen Wesen, sie aber sind nicht in mir. - Ja, so wie die Menschen einmal sind, so fragen die Menschen sehr häufig: Was sagt eine wahre Mystik, ein wahrer Okkultismus? - Die Menschen wollen absolute Wahrheiten haben, die gibt es aber nicht. Es gibt nur Wahrheiten, die aus irgendeiner Situation richtig sind, die unter irgendwelchen Umständen und Bedingungen wahr sind. Das müssen sie dann aber auch sein. Es kann nicht ein absolut richtiger Satz sein: Ich bin in allen Wesen, aber sie sind nicht in mir. - Aber es ist der Satz, der als die tiefste Krishna-Weisheit in dieser Situation, in der Krishna dem Arjuna damals gegenüberstand, gesagt wird, und er gilt - nicht abstrakt, sondern real gesprochen - von jenem Krishna, welcher der Schöpfer ist des menschlichen Innern, des menschlichen Selbstbewusstseins.

ひょっとすると、『バガヴァッド・ギーター』にも中心が、漸層法の中心が存在するのでしょうか?『ギーター』には18の章がありますから、第9章が漸層法の中心でありえます。さて、第9章のなかに、つまりちょうど中心に、次のように含蓄のある簡潔に表現された奇妙な言葉があります。「そして今、私が汝に全てを伝えた後で、ここで私は人間の魂の謎について語ろう」。本当に、この瞬間に、抽象的な響きを持ちつつも、深い意味を持っている素晴らしい言葉です。そしてそれから最も謎に満ちた言葉が現れます。「はっきり聴き取りたまえ!私は万物の中に存在するが、万物は私の中に存在しないのだ」。かつての人々と同じように、[こんにちの]人々も非常に頻繁に問います。「真の神秘主義、真のオカルティズムは何を言うだろうか?」と。人々は絶対的な真理を持とうとします。しかしそういうものは存在しません。存在するのは、何らかの状況から見て正しい真理、何らかの諸事態や諸条件の下で真である真理だけです。そうであらざるをえないのです。「私は万物の中に存在するが、万物は私の中に存在しない」という命題は、絶対的に正しい命題ではありえないのです。しかしこれは、クリシュナがそのときにアルジュナに向き合っていたその状況での、クリシュナの最も深い叡智として語られた命題なのです。そして抽象的にではなく具体的に語られたこの命題は、人間の内なるものの創造者、人間の自己意識の創造者である、あのクリシュナに当てはまるものなのです。(『バガヴァッド・ギーターの隠れたる基盤』第六講の私訳)

シュタイナーが用いていたであろうドイツ語訳のバイアスがかかっていることはあるでしょう。残念ながら私はそれを知らないのですが、しかし『バガヴァッド・ギーター』の本文を読んだことがある人なら、「現象世界の万物は根源的実在の中に存在するが、根源的実在は現象世界の万物の中には存在しない」=⑴「万物は私の中に存在するが、私は万物の中に存在しない」=⑴’「万物は〈非顕現の私〉の中に存在するが、〈非顕現の私〉は万物の中に存在しない」という真理の教示が、九章以前にも幾度も繰り返し登場したことは存じあげているのではないでしょうか。サンスクリット語からの原典訳を読んでもシュタイナーが言及している「私は万物の中に存在するが、万物は私の中に存在しない」という命題は直接は出てきていません。しかし、「万物は私の中に存在しない」という突如反転した命題は登場しています。シュタイナーが参照していたと思しきドイツ語訳では、ひょっとしたらこの「万物は私の中に存在しない」と言う命題から導き出せる命題⑵’「〈顕現の私〉は万物の中に存在するが、万物は〈顕現の私〉の中に存在しない」と書かれていたのかもしれないということは十分に想像できるのではないでしょうか。何より、Ich bin in allen Wesen, aber sie sind nicht in mir.(私は万物の中に存在するが、万物は私の中に存在しない)は、文の最初故に一番目のIchが大文字ですが、これはクリシュナがUnd nun sage ich, nachdem ich dir alles mitgeteilt habe, nun sage ich hier das Geheimste für die menschliche Seele.(そして今、私が汝に全てを伝えた後で、私は人間の魂の謎について語ろう)(※註1)と語った時の小文字のichに相当し、かつ文の最後のmirとの対応を見て取ることができますから、実質小文字のichであることが見て取れます。それはつまり、本来大文字のIchで表されるような非顕現の根源的実在ではないことを表していると思われます。つまりこの小文字のichは、〈顕現の私〉=〈現象形態のクリシュナ〉であり、まさにシュタイナーの言う通り、「アルジュナに向き合っていたその状況での現象形態のクリシュナ」を表していると言えます。このIch bin in allen Wesen, aber sie sind nicht in mir.は厄介ですが、前半部分に以上のような推測を入れずに、高橋訳のように、原典に書かれている方は、「すべての存在は〈わたし〉の中にあり、〈わたし〉がそれらの中にあるのではない」=⑴’「万物は〈非顕現の私〉の中に存在するが、〈非顕現の私〉は万物の中に存在しない」(※註2)とみなして、ここを九章以前でも語られていたことに変えてしまうと、九章で「最も謎に満ちた言葉が現れる」と言われている文脈は言わずもがな、「クリシュナがアルジュナに向き合っていたその状況」そのものを表すかたちで、とある状況で真である命題とはどういうことかを説明しようとしたシュタイナーの意図が壊れてしまいます。つまり、⑴’に書き換えてしまうと、小文字のichの指示対象を間違えたまま、状況的に偽の命題を真であるかのように説明してしまうということになると思われます。

註1)これも推測しかできませんが、恐らくシュタイナーが参照していたドイツ語訳ではなかろうかと思われます。藤田訳によれば、『ギーター』の7・2に「真知を識別知と共に余すことなく話そう」とあり、9・1に「懐疑心のない君に、この無上の神秘を話そう。識別知を伴った真知を」とあるので、このあたりの意訳であったのかもしれません。

註2)高橋訳では付点つきで「わたし」と書かれています。

追記:

もう少し詳しく書いておくことにします。⑴’の命題は、そもそも大文字のIch=「非顕現の根源的実在」に関わる命題です。これに対して⑵’の命題は、小文字のich=顕現の私或いは現象世界に関わる命題です。つまり、⑴’の真理と⑵’の真理は、質的に異なっていると見なければなりません。『ギーター』は、根源的実在についての理論的な知識である真知と、真知に基づいて根源的実在と現象世界とを識別し、根源的実在に回帰するための実践的な知識である識別知を、得るべき絶対的知識としています。命題⑵’が突然シュタイナーがいうような「最も謎に満ちた言葉」として現れたのは、これまで根源的実在についての命題⑴’が繰り返し述べられてきて、そこで初めて根源的実在とは識別されるべき現象世界のことが取り上げられたからなのです。シュタイナーの説明では、「「(顕現の)私は万物の中に存在するが、万物は(顕現の)私の中に存在しない」という命題⑵’は、絶対的に正しい命題ではありえないのです。しかしこれは、クリシュナがそのときにアルジュナに向き合っていたその状況での、クリシュナの最も深い叡智として語られた命題なのです。そして抽象的にではなく具体的に語られたこの命題⑵’は、人間の内なるものの創造者、人間の自己意識の創造者である、あのクリシュナに当てはまるものなのです」となっています。ここまでまとまったかたちで、「人々は絶対的な真理を持とうとします。しかしそういうものは存在しません。存在するのは、何らかの状況から見て正しい真理、何らかの諸事態や諸条件の下で真である真理だけです」ということを言い換えているのです。このことはあくまでも、小文字のichないし現象世界に関する命題⑵’の説明に限定されたことなのです。まさしく、シュタイナー本人の説明は、『ギーター』の「根源的実在とは区別される現象世界」のことを適切に説明した論述となっています。そして「人間の内なるものの創造者、人間の自己意識の創造者である、あのクリシュナ」という、この遠回しな言い方によって、この命題⑵’は命題⑴’が拠り所となって成り立っているということがわかります。『ギーター』にある通り、「(非顕現の)私は万物を支えているが、万物の中には存在しない。(非顕現の)私の本性は万物を存在させることである」わけですから。

ところが、高橋訳では、「絶対的に正しい命題などありえません。「すべての存在は〈わたし〉の中にあり、〈わたし〉がそれらの中にあるのではない」という命題も、絶対に正しいのではありません」と原文にはない執拗さで「絶対的に正しい命題などあり得ない」ということを殊更に強調し、しかもこれを命題⑴’に適用してしまい、かつ、その後の文を段落で分割してよくわからない文章に書き換えてしまいました。このコンテクストの書き換えは、『ギーター』そのものの読みとしても、ギーターが絶対的知識とし、その中で述べられている永遠不滅の〈非顕現の私〉であるブラフマンについて述べている命題を「絶対的に正しいのではない」と言ってしまうという意味で大問題ですし、『ギーター』の日本語の読者に、「これを扱ったシュタイナーは「幻影により真知を奪い去られた阿修羅」のようなもので、わかっていなかったんだな」ととられても不思議ではないようなことになってしまっています。しかし、これはシュタイナーがそうだったわけではありません。ドイツ語訳のバイアスがあったとしても、上記のことを現象世界のこととして限定して説明しているところからは抜け出ていないわけですから。それにしても、この訳の書き換えでは人智学の講義としても、肝心なところで全てが反転してアーリマン化しているとしか言いようがありません…。なぜ調べれば調べるほど、高橋訳は、いつも肝心なところが反転してアーリマン化ばかり引き起こしているのか、不思議でなりません…。

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