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ウクライナ滞在日記(2015年夏)

こんにちはKikiです。このnoteを見つけてくださりありがとうございます♡
タイトルにもある通り、今回は2015年夏のウクライナでの日記です。


長めの前置き

自己紹介の記事に書きましたが、私は大学の夏休みにウクライナでインターンシップに参加していました。その際にインターン日記を執筆していたのですがデータをずっと手元に取っており、どこかに残しておきたいなと前々から思っていました。ですので思い切ってこちらのnoteで投稿しようと思います。考え方や文章の書き方も今より更に稚拙で読み苦しいところもありますが、自分で読んでいても当時の記憶がありありと蘇ってくるので、少しでも当時の様子が伝わると嬉しいです。

(長い前置き、もう少々お付き合いください)
2022年の2月、ロシアが本格的にウクライナ本土へ侵攻を開始。連絡が取れたほとんどの子は、ウクライナ国外に出ている女の子の友達。現地に住んでいる沢山の友人や当時出会ったウクライナの人々のことを思うと、とても胸が痛く、メディアで流れてくる映像やニュースを見すぎて精神的に参っていました。あと数か月で侵攻開始から2年が経とうとしていますが、東側やクリミア半島近くを中心に未だ戦火が絶えません。

私が2015年にウクライナに行った背景を少し書くと、滞在の1年前である2014年にマイダン革命やロシアのクリミア併合があり、マイダン革命ではキエフの独立広場で大勢の死傷者が出ました。ウクライナ東部の情勢も既に緊張状態にあったと記憶しています。
そんな中、インターン候補先を選んでいた時に現地の学生が作った資料や彼らから聞いたウクライナの現状と、インターネットで"ウクライナ"と検索した時に出てくるイメージの違いにかなり驚いたのを覚えています。
ネットで検索するとマイダン革命で火の海となった広場の写真ばかり、正に"ウクライナ=危険・争い"のイメージ。しかし実際スカイプで現地のウクライナ人に話を聞いてみると、「1年前に大きなデモがあったけど首都や西側を初めほとんどの地域では治安も安定していて学校に行ったり仕事に行ったりみんな"普通"に生活をしている。公園も家族連れが沢山いる。ウクライナのそういうマイナスのイメージを変えたい。美しい自然や街があることも知ってほしい」と話していました。
実際にウクライナに1か月半程滞在し危ない目にあったことは一度もありません。たまたま運が良かったからというのが大きいかもしれませんが、もしウクライナに行っていなかったら、ウクライナ=怖い・争いが常に起こっている危険な場所というイメージのままだったと思います。

ウクライナは東西の文化が交差し豊かな歴史や文化が息づく美しい国です。私は首都のキエフに滞在しつつポーランドとの国境の街リヴィヴ、そして南のオデッサも訪れました。そんな私の原体験でもあるウクライナでの日記をnoteに残しておきたい!
もし、少しでもウクライナに興味がある方がいらっしゃいましたら2015年の当時のこと、写真と共に読んで楽しんでいただけると嬉しいです。

ウクライナの花と言えばヒマワリ🌻
キエフのカラフルな家が並ぶ通り

ウクライナ滞在日記①世界遺産の修道院

皆さんこんにちは、私はこの夏ウクライナの首都キエフでインターンシップをしています。私が参加しているプロジェクトは、ウクライナを観光地としてPRするための活動を多国籍のインターン生と行っています。観光地をメインに様々な場所に赴き、ウクライナの文化を肌で感じています。今回は、最近訪れた場所の中で最も印象深かった場所について書こうと思います。

キエフの街並みや、パステルカラーの建物を見ると、自分がヨーロッパにいることを実感しますが、同時に西洋のそれとはどこか違う雰囲気も感じます。その違いを生んでいる理由の一つに宗教があるのではないかと思います。
キエフにある教会のほとんどは東方教会のものです。ちなみにカトリックやプロテスタントは西方教会にあたります。東方教会にあたるのはギリシャ正教、ロシア正教などです。同じキリスト教なのにここまで違うのかというほど、教会の外観、建物の色使いには驚きました。

私たちがこの日訪れたのは Kiev Pechersk Lavra という11世紀に建てられたウクライナの総本山と言われる世界遺産の修道院。この修道院の必見は何といっても地下洞窟。
この日は宗教上の祝日でたくさんの信者で溢れていました。地下洞窟の中はとても神聖な場所なので、女性は露出を控えスカーフで頭を覆い、入場する際にはろうそくを買うことが義務付けられています。

洞窟に入ると中は真っ暗で、先頭のガイドさんが持つロウソクの光だけが頼りです。白く塗られた壁の道は狭く、長く、時々二手に分かれたり、小さな部屋のような場所に辿り着いたり、まるで迷路のようです。道の途中途中に棺があり、その近くの壁に棺の中の人だと思われる肖像画が飾られています。ロウソクで照らしてよく見てみるとその棺の豪華さに驚きました。グリーンやブルーの布には金や宝石のようなものがちりばめられているのですがその棺の穴から出ているのはなんとミイラの手。ガイドさんによると自然とミイラ化されたものらしく、皮膚が真っ黒になっています。少し不気味な感じもしますが、よくこんなにきれいな状態で保存されているなとまじまじと見てしまいました。
小さい子供たちから年配の人たちまで皆ロウソクを持ち、一つ一つの棺に祈りをささげ、キスをしたり、イコンを眺めたり優しくなでたりしていました。

人々が巡礼している姿は神秘的で美しく、狭い洞窟で聞こえるのは、ガイドさんの声と人々の祈りの言葉や息遣い。言葉で表すのはとても難しいのですが、独特な宗教観を持つ日本人だからこそ、自分の宗教観に対する視野が広がるのと同時に、宗教の「Power」を感じた忘れられない一日となりました。
「人は何のために祈るのだろう」「宗教っていったい何なのだろう」「その祈りの対象が無いといけないくらい人間は儚いのだろうか」。答えが出ない問いを長い間考えていました。誰が何を信じていようと、それを真っ直ぐに信じる心は美しいと思った私は間違っているでしょうか。

キエフ・ペチェールシク大修道院


水色の外観が美しい黄金ドーム修道院@キエフ

ウクライナ滞在日記②独立記念日

突然ですが8月24日は何の日だか分かりますか?実はウクライナにとってとても大事な日なんです。この日はウクライナの独立記念日。1991年8月24日ウクライナは、旧ソ連からの独立を果たしました。

ウクライナは「ロシアの母」と呼ばれることがあります。それは、スラブ文化の発祥がウクライナであるからです。こちらに来るまではロシアのものだと思っていたものも実はウクライナ発祥のものだったということが多くありました。例えばボルシチ。日本人にもなじみのある赤い色のスープ、実はこれウクライナが発祥だそうです。
この2つの国の歴史や文化を知るうちに色々なことが見えてきて、それらを紐解くことで現在続いている東部の戦争や複雑なウクライナ情勢も少し分かりやすくなります。2つの国の違い。
例えば、ウクライナで話されている言葉。ウクライナの首都キエフでは、ウクライナ語とロシア語が話されています。ウクライナの友人いわく、ウクライナ人はウクライナ語とロシア語を理解できるそうなのですが、ロシア人のほとんどはウクライナ語を理解することができないそう。スラブ語系なので文字はキリル文字、しかし、話し言葉はかなり違う。面白いですよね。
ウクライナの真ん中を流れる大きな川、この川を隔てて西ウクライナ・東ウクライナと区別することがよくあります。ウクライナの東側と西側では、文化や言葉、宗教などが違うとか…東部はやはりロシアと近いのでロシア語を話す人が多く文化や習慣もロシアよりだそうです。東部出身のウクライナの友人は小学校に入るときにウクライナ語の学校かロシア語で授業をする学校か選ぶ必要があったそうです。

ウクライナでの独立記念日。公式に定められている独立記念日というものは、日本には無いため"独立"という感覚がとても新鮮でした。独立し自分たちの国を持つ。自分たちの文化・言葉・宗教・慣習。その国の国民であるというアイデンティティ。ウクライナで生活しているとこの国の人々の愛国心の強さがよくわかります。町中至るところにある青と黄色の2色のウクライナ国旗。この鮮やかな色を見るたびに自分がウクライナにいることを実感します。
この日はいつも以上に青と黄色を目にした日でした。メイダン(独立広場)に集まる人々は、ウクライナの民族衣装やウクライナの国旗、自由を意味するシンボルマークの入った洋服を着ています。独立広場の前には大きなスクリーンとステージが設置され、夜にはオーケストラのコンサート、有名歌手のライブや子供たちの合唱、ダンスの催しがあります。独立広場までの広い道も歩行者天国になり、大勢の人で溢れかえっていました。母親と手をつないで踊る小さな男の子、手を握る軍服を来た男性と女性のカップル、歌っている大学生くらいの若者たち、母親に抱かれて音楽に合わせ手を叩いている赤ちゃん、お父さんに肩車されて笑っている女の子。

みなさんの記憶にも新しいと思いますが、この独立広場で去年の11月から始まったデモが悪化し、2月には大規模な衝突の末、少なくとも82人以上の死傷者、負傷者は1100人に上りました。いつか写真で見た、当時の真っ黒に焦げた独立広場の面影は今はありませんが、その代わり毎日のように多くの花やロウソクで未だに手向けられています。若い青年の写真を見つめながら泣いているお婆さんがいました。きっと、あの時のマイダン革命で命を落とされた方なのだと思います。旧ソ連からの独立から24年が経ちました。クリミア問題、東部の情勢。内省的な問題、長い歴史と国際政治の言説や駆け引きなど、原因はそれぞれですが、形を変え、未だに多くの問題が解決されていません。この日、独立広場で人々が口にしていた言葉が印象的で、頭から離れません。

Слава Україні! (ウクライナに栄光あれ!)

独立の日のメイダン広場
夜のメイダン広場、多くの人で賑わっていた
メイダン広場にある献花、「ウクライナに栄光あれ!」の文字。

ウクライナ滞在記③オデッサとリヴィヴ

ウクライナの首都キエフで生活をスタートして3週間以上が経ち、研修も終盤に近づいてきました。今週の私たちのミッションは【Explore Ukraine!!! 】ということで、キエフを飛び出し、西のリヴィウ、南のオデッサに小旅行をしに来ています。キエフからの移動手段は夜行列車。キエフ・オデッサ・リヴィウ間の移動時間はそれぞれ10時間以上!寝台列車に乗るのは初めてだったので、とてもワクワクしていました。

旅の始まりから驚きの連続。駅の広さと人の多さにびっくり、列車の大きさにびっくり、中に入ったら暑さにびっくり。なんと、真夏なのに窓が開いてない…車両の一番前の窓だけ、少しだけ空いているのですが、他の席は窓が開かないらしく、しかも列車が動いていないと、風も通らないので、熱帯雨林にいるような異常な暑さでした。列車は旧ソ連の時代から使われていたものらしく、まるで時代物の映画の中にいるような感じでした。
通路をはさんでそれぞれ4人ずつベッドがあり、部屋のように区切られてはおらず、ドアはありません。ヨーロッパから来ていたインターン生たちは、列車の古さと狭さにブツブツと文句を言っていましたが、何もかもが初めてな私にとっては新鮮で、暑さなど忘れ、列車の旅を楽しみました。

国土面積が広いウクライナ。このような寝台列車で国内を移動するのはポピュラーなようで、初対面のウクライナ人と隣のベッドになることもありました。ウクライナ人、特に大人はほとんど英語が話せません。仲良くなった大学生の女の子が通訳をしてくれて、ウクライナ語と英語を交えながら会話をしました。いつも自然と飾らずに話しかけてくれるウクライナ人。いつの間にかこの国の人に親しみを感じるようになっていました。

最初に着いたのはオデッサ。黒海に面した湾岸都市であり、重要な貿易港があります。石畳の街並みと並木道の大通りは、キエフとはまた違った印象で、リゾート地らしい静かな時間が流れていました。
オデッサではオペラを観に行きました。なんとチケットが一人1,000円~5,000円。これでも安いと思いますが、実は首都キエフのオペラ劇場は200円からチケットを買うことができます。それに、ウクライナの学生であれば最上部の席であれば無料で見ることができます。観客の人々は正装で女性は鮮やかなドレスを着ていました。オデッサの豪華なオペラ劇場で観るオペラは格別でした。みなさんも(いつか)ウクライナに来たらぜひ、オペラを観に行ってみてください。

そして次の旅行先はリヴィウ。私は今リヴィウでこの記事を書いています。オデッサから10時間以上夜行列車に乗り、今朝ここリヴィウに到着しました。同じ国でこんなにも違うのかというくらいこの街も独特の雰囲気を持っています。リヴィウはポーランドの国境沿いにある都市で、歴史地区は「ヨーロッパの真珠」と称され世界遺産になっています。西ヨーロッパに強く影響を受けたことから、バロック様式の教会や端正な石畳の歩道、街中には路面電車が走っています。中世の映画の世界に飛び込んだようなとても美しい街です。日曜日の早朝、どこかから歌が聞こえてきます。日曜礼拝の讃美歌です。教会からの歌声が町中に響き渡り、新しい一日の始まりを知らせます。今日はあいにくの雨でしたが、雨が降っていてもこの街の美しさは健在です。リヴィウにはカフェやレストランが多くあるのですが、どの店もとても美味しく、お店の作りが芸術的で見ているだけで面白いです。歩いているだけでこんなに楽しい街は初めてでした。今日の夜はリヴィウで有名なウクライナ料理のレストランに他のインターン生たちと出かけます。この街の魅力を味わい尽くしたいです。

世界遺産リヴィヴの旧市街。路面電車が通っている。
オデッサのオペラ劇場前
黒海を望むオデッサの海岸にて

ウクライナ滞在日記④日本に帰国後思うこと

最後の連載となるこの記事を私は日本で書いています。
2014年1,200人以上の死傷者を出したキエフでの騒乱、複雑な問題は絡み合い、現在にまで続く東部での紛争、クリミア問題など。不安定な情勢の中、本当にウクライナに行くべきなのか、今行くべきなのか、とても悩み、迷いました。両親や友達、先輩方は私の安全面を心配してくださり、多くの人はウクライナに行くという選択に快くYesとは言ってくれませんでした。しかし、反対されるほど「自分の目でウクライナを見てみたい、そして日本人のこの国に対するイメージを変えたい」と強く思うようになりました。それでもやはり、出国する直前まで自分の選択が正しかったのか不安で仕方がなかったというのが本音です。
時間をかけて決めたウクライナに行くという選択。現地で何か大きな事を達成しなければならないというプレッシャーや、定量的なゴールばかりに気を取られ、理想と現実のギャップの差を前に身動きが取れない時期もありました。しかし、自分が「今」「ここ」で出来ることを少しずつ積み重ねていこうと気持ちを切り替え、このインターンシップを完遂することが出来ました。6週間で出来ることは限られています。しかしそこで得られるものは目に見えたり、数値化出来るものだけではない。むしろ目に見えない形にならないものの方が多いし、その方が大切であると気づきました。

日本に帰国する日。キエフの空港でスーツを着ている日本人の女性に会い、思わず声をかけました。仕事でオデッサに1日行かれていたらしく、観光をする時間はなかったといいます。夏休み中ウクライナでインターンをしていたことを話すと彼女は、「そんなに長い期間いらっしゃったのですか?私は、治安面で怖くて…大丈夫でしたか?」と言われました。”ウクライナはこんなに美しい国なのに知らないなんてもったいない、ウクライナで少しの間ではあるけれど生活した私が、この国の魅力を語っていかなければいけない、もっとこの国のことを知ってほしい”と勝手な使命感のようなものを抱きました。

情報が溢れる現在の社会。ネットやテレビで見ることのできる写真や動画は確かに鮮やかで、まるで現地に行ったような気分になります。しかし、実際その地に赴き、人々と触れ合い、同じ空間で生活して初めて分かること、感じることがあるのだと、身を持って実感しました。

多様なバックグランを持った世界中から集まったプロジェクトメンバー。小さな部屋で6週間毎日を過ごした女の子たち、私のことをメンバーとして選んでくれた現地大学のメンバー。情勢が不安定な中、ウクライナに行くことを承諾してくれた両親。私の選択を応援してくれた仲間・友達。この夏にウクライナに行くという決断をしなければ出会えなかった多くの人たち。本当に感謝することでいっぱいです。
もともと国際関係の分野に興味があり、海外のことには敏感な方ではありましたが、私の関心の中に「ウクライナ」というワードが増えました。ウクライナだけではありません。ブラジル・エジプト・ポルトガル・ドイツ・チュニジア・ルーマニア・モロッコ・イラン・トルコ・ポーランド・クウェート・イスラエル。世界中に大切な仲間がいます。ただの外国が「あの子が住んでいるあの国」になり、世界中にいる仲間に思いを馳せ、遠くにいる彼らをとても近くに感じます。
出国前はあんなに悩んでいましたが、今となってはウクライナに行くという選択肢を選んだ自分をとても誇りに思います。そして「どこに行くのかではなく”今”行くべきなのかを考えなさい」と助言をくださった先輩にとても感謝しています。この経験が私の原体験となったことは言うまでもありません。
私たちは過去の思い出・経験、未来へのビジョン・希望を胸に抱き、”今”を生きています。今できること、今しかできないこと、今やらなければいけないこと…。常にこの一瞬一瞬を生きていきたいです。

何度も通ったキエフの大通り

2015年夏
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長い日記を最後まで読んで頂きありがとうございました。大学2年生の夏休みにウクライナで過ごした経験は間違いなく私の世界を大きく広げてくれました。私の原体験の1つです。
ウクライナから帰国後も日本の方にウクライナの魅力を伝えるべく、様々な発信をしていました。「私の話を聞いてウクライナへのイメージが変わった!行ってみたい」という声を聞いた時が一番嬉しかったのを覚えています。未だウクライナへの侵攻は続いていますが、一刻も早く状況が落ち着いて平和な日常が戻ってほしいと願うばかりです。


現在私はフランスに住んでおります。
Youtubeも始めたのでもしフランス生活に興味があればYoutubeも是非見ていただけると嬉しいです♡

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