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耳そうじと成長の話

汚いタイトルに思えたらごめんなさい。耳そうじをしていて、ふと思いついたことがあるので文章に起こしてみます。

小さいころ、耳そうじは母がやってくれるものだった。夕飯の後ひざに乗って甘えたりしていると、一か月に一回「耳そうじしようか!」って言われて、膝枕の上で耳垢をとってもらった。何で掃除してもらっていたのか。一番古い記憶は、ベビー綿棒だと思う。でも私が何度も綿棒でこすられるのを痛がったので、いつしかピンセットに変わった。金属のひんやりした先端が耳の中に入ってくるのが怖くて、母の膝の上でぎゅっと固まっていたのを覚えている。

小学校高学年になると、なんだか母にやってもらうのが恥ずかしくなった。子供っぽさに敏感だったからかな。小学生なんて今思えば全くの子供なのだけれど。それでも耳そうじをしないわけにはいかない。特に健康診断の前は、絶対にやらなきゃいけない。みんなの前で「耳垢です」なんて言われたらたまったものじゃないから。だから私は、内心複雑ながらも母に取ってもらっていた。母も、160センチ目前の娘を膝にのせるのはあまり気が進まなかったのではないだろうか。記事を書く中でぽろっと聞いてみたら、子供はいくつになってもかわいいから膝に乗せたくなるそう。親の心子知らずとはよく言ったものだ。

そんな私も、気づいたら自分で耳そうじをするようになっている。やりかたは綿棒。ピンセットでやろうとしたこともあるけれど、自分の耳の中は覗けないのでちゃんとつまめなかった。両親がやっているのを何度か盗み見て、綿棒での取り方を覚えた。

人にやってもらうのと自分でやるのの最大の違いは、痛さを調節できることだと思う。母は、取れそうな耳垢があると容赦なくピンセットを突っ込んできた。耳の中の産毛を挟まれるともう激痛である。でも暴れるとピンセットが刺さるから、痛さを叫びながら硬直するのが常であった。今は、カサカサした部分をやさしく綿棒で探り当て、こすり取ることができる。たまに奥に突っ込み過ぎてあうっと悲鳴を上げるけど、恐れるほどのものではない。むしろ狙ったところの耳垢が取れると、多少痛かったとしても達成感のようなものがわいてくる。なんだか気持ち悪い文面のような気がするけど、事実だからしょうがない。

耳そうじに限らず、二十歳を過ぎた最近は、昔両親にしてもらっていたことをいつしか自分でやっていることに気づくようになった。あと数年のうちに全部自分でやるようになり、十年後には自分が親としてやってあげる番になっているかもしれない。人間の成長って面白いな、とか、親ってすごいんだな、とか、いろいろ考える。両親への感謝を態度で示すよう意識したい。なお、母からは「最近お手伝いしてくれることが増えたよね。ありがとう、助かってるよ」といわれた。気持ちが伝わっているようでうれしい。

※みんなのフォトギャラリーより、aym5starさんから画像をお借りしました。耳といえばうさぎとおもい、またタグに「成長」が入っていたことから使わせていただきました。すごくかわいいです

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