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港区坂めぐり 後編

5月2〜4日にめぐった東京都港区の坂道87箇所。
主に、活動割合としては、2日:3日:4日=0.5:3.5:6。
4日にヘロヘロになって帰宅した私を見て、
「ちゃんと歩いたなら20キロは超えているよね?」と夫はいう。
流石にそこまで…と思いながら、活動計を見てびっくり!
3日は15.29km。
4日は21.31km。
計36.6km!!!!腰が痛いのも納得だわ(笑)。

3日の活動計データ
4日の活動計データ

というわけで、後編スタート!


薬園坂

薬園坂①(南麻布3丁目10番、3丁目13番の間)
薬園坂②

江戸時代前期、坂の下から中腹の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。

港区ホームページ「薬園坂」

奴坂

奴坂(南麻布3丁目4番、3丁目9番の間)*標識なし

竹ヶ谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。

港区ホームページ「奴坂」

絶江坂

絶江坂①(南麻布2丁目、3丁目の間)
絶江坂②

承応2年(1654)、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚・絶江が名僧で付近の地名の由来となり坂名に変った。

港区ホームページ「絶江坂」

新坂

新坂①(南麻布3丁目19番、4丁目11番の間)
新坂②

新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは、明治20年代と推定される。

港区ホームページ「新坂」

青木坂

青木坂①(南麻布4丁目10番、4丁目11番の間)
青木坂②

江戸時代中期以後、北側に旗本・青木家の屋敷があったために呼ばれた。

港区ホームページ「青木坂」

新富士見坂

新富士見坂①(南麻布4丁目5番、4丁目10番の間)
新富士見坂②

江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に、明治時代末期から大正時代のはじめごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。

港区ホームページ「新富士見坂

安鎮坂

安鎮坂①(元赤坂2丁目1番、2丁目2番の間)
安鎮坂②

付近に安鎮(珍)大権現の社があったので坂の名になった。安珍坂とも書いた。また、武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。

港区ホームページ「安鎮坂」

鮫ケ橋坂

鮫ケ橋坂(元赤坂2丁目1番、千代田区の間)

江戸時代、坂の下に鮫河橋という橋があったことからこの名がついたという。鮫河橋坂とも。

港区ホームページ「鮫ケ橋坂」

紀伊国坂

紀伊国坂(元赤坂2丁目1番、千代田区の境)

坂の西側に江戸時代を通じて、紀伊国(現在の和歌山県)の大名・紀州藩徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。

港区ホームページ「紀伊国坂」

九郎九坂

九郎九坂(元赤坂1丁目3番、1丁目4番の間)

江戸時代の赤坂一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。

港区ホームページ「九郎九坂」

丹後坂

丹後坂(赤坂4丁目2番、4丁目5番の間)

元禄年間(1688~1704)に開かれたと推定される坂。その当時、坂の東北側に米倉丹後守の屋敷があった。また、西尾丹後守の屋敷とする説もある。

港区ホームページ「丹後坂」

円通寺坂

円通寺坂(赤坂4丁目13番、5丁目2番の間)

元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。

港区ホームページ「円通寺坂」

新坂

新坂①(赤坂7丁目4番、8丁目6番の間)
新坂②

できた当時は、新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄12年(1699)である。しんさかとも呼ぶ。

港区ホームページ「新坂」

稲荷坂

稲荷坂(赤坂7丁目5番、7丁目6番の間)

かつて坂の下北側に円通院という寺院があり、その境内の稲荷社への門があったための坂名。坂の上に江戸城中清掃役の町があり掃除坂ともいう。

港区ホームページ「稲荷坂」

三分坂

三分坂①(赤坂5丁目5番、7丁目6番の間)
三分坂②

江戸時代、急坂のため通る車力賃を銀3分(さんぷん:百円余)増したためという。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。

港区ホームページ「三分坂」

転坂

転坂①(赤坂6丁目5番、6丁目9番の間)
転坂②

江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時、盛徳寺横の本氷川坂(元氷川坂)もころび坂といった。

港区ホームページ「転坂」

氷川坂

氷川坂(赤坂6丁目8番、6丁目10番の間)

八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社の東横を北に下る坂である。土地の人のいい伝えでは、明治時代のはじめには無名だったこの坂を、氷川坂と呼んでいたという。

港区ホームページ「氷川坂」

南部坂

南部坂(赤坂2丁目22番、六本木2丁目1番の間)

江戸時代前期に盛岡藩南部家の中屋敷があったためといい、「忠臣蔵」で有名である。のち険しいため難歩坂とも書いた。

港区ホームページ「南部坂」

本氷川坂

本氷川坂(赤坂6丁目10番、6丁目19番の間)

坂の途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治16年(1883)4月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。

港区ホームページ「本氷川坂」

乃木坂

乃木坂(赤坂8丁目11番、9丁目6番の間)

大正元(1912)乃木希典将軍の葬儀と同時に幽霊坂という名前から、乃木坂に改められた。また、行合坂、なだれ坂とも呼ばれた。

港区ホームページ「乃木坂」

檜坂

檜坂①(赤坂6丁目19番、9丁目7番の間)
檜坂②

江戸時代には、檜の木が多いため、檜屋敷と呼ばれた現在の山口県の大名・長州藩毛利家の屋敷(現在の檜町公園)に添う坂であった。

港区ホームページ「檜坂」

なだれ坂

なだれ坂(六本木3丁目2番、3丁目4番の間)

流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国寺坂、幸国坂、市兵衛坂の別名もあった。

港区ホームページ「なだれ坂」

道源寺坂

道源寺坂①(六本木1丁目3番、1丁目4番の間)
道源寺坂②

江戸時代のはじめから、坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂または道源坂と呼んでいた。

港区ホームページ「道源寺坂」

御組坂

御組坂(六本木1丁目5番、1丁目7番の間)

幕府御先手組(戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。

港区ホームページ「御組坂」

霊南坂

霊南坂(赤坂1丁目10番、虎ノ門2丁目10番の間)

江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山・嶺南和尚の名をとったが、いつか嶺が霊になった。

港区ホームページ「霊南坂」

榎坂

榎坂(赤坂1丁目9番、1丁目10番の間)*標識なし

江戸時代、赤坂にあった溜池の水をせき止めたしるしとして、坂の上に植えられた榎の木にちなんだ坂名という。

港区ホームページ「榎坂」

桜坂

桜坂(赤坂1丁目11番、1丁目12番の間)

明治時代になって新しく作られた道筋で、坂の下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名がついた。

港区ホームページ「桜坂」

江戸見坂

江戸見坂①(虎ノ門2丁目10番、3丁目1~6番と4丁目1番の間)
江戸見坂②

江戸の中心部に市街がひらけて以来、その大半を眺望することができたために名づけられた坂である。

港区ホームページ「江戸見坂」

汐見坂

汐見坂(虎ノ門2丁目2番、2丁目10番の間)

江戸時代中期以前には、海が展望できた坂である。南側に川越藩松平大和守の屋敷があって、大和坂ともいった。

港区ホームページ「汐見坂」

雁木坂

雁木坂(麻布台1丁目7番、1丁目9番の間)

階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたことから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く。

港区ホームページ「雁木坂」

永井坂

永井坂(芝公園3丁目6番、4丁目1番の間)

江戸時代から明治時代のはじめにかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。

港区ホームページ「永井坂」

土器坂

土器坂(東麻布1丁目3番、1丁目4番の間)*標識なし

この辺りに土器職人が住んでいたので坂名となったという説、また、渡辺綱が、ここで買い求めた馬がかわら毛で名馬だったからという説もある。

港区ホームページ「土器坂」

榎坂

榎坂(麻布台1丁目9番、2丁目3番の間)*標識なし

江戸時代より前の古街道を示す榎があったと推定される。坂下から東京タワー方向へ上る永井坂を榎坂と記す資料もある。

港区ホームページ「榎坂」

狸穴坂

狸穴坂(麻布台2丁目、麻布狸穴町の間)

まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴が坂の下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。

港区ホームページ「狸穴坂」

鼠坂

鼠坂(麻布狸穴町、麻布永坂町の間)

細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶ慣習があったといわれる。また、鼬坂とも呼ばれ、上は植木坂につながる。

港区ホームページ「鼠坂」

植木坂

植木坂(麻布台3丁目4番、麻布永坂町の間)

この付近には植木屋が多くあり、菊人形の製作で有名だったという。外苑東通りからおりる所という説もある。

港区ホームページ「植木坂」

永坂

永坂(六本木5丁目、麻布永坂町の間)

麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。長坂とも書いた。

港区ホームページ「永坂」

於多福坂

於多福坂(六本木5丁目13番、5丁目14番の間)

坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下がったので、顔の真ん中の低いお多福面のようだと名づけられた。

港区ホームページ「於多福坂」

鳥居坂

鳥居坂(六本木5丁目11番、5丁目12番の間)

江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名・鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1704)ごろ開かれた道である。

港区ホームページ「鳥居坂」

饂飩坂

饂飩坂(六本木5丁目1番、5丁目2番の間)

天明年間末(1788)頃まで松屋伊兵衛という、うどん屋があったために、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。

港区ホームページ「饂飩坂」

芋洗坂

芋洗坂(六本木5丁目、6丁目の間)

正しくは現在の六本木6丁目1~2番と6~7番との間を西の方へ上る道をいったが、六本木交差点への道が大正以降にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。

港区ホームページ「芋洗坂」

市三坂

市三坂(六本木3丁目、4丁目の間)

明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直の屋敷があった三河台町との間で両頭文字をとった。

港区ホームページ「市三坂」

丹波谷坂

丹波谷坂(六本木3丁目5番、3丁目6番の間)

元和年間(1615~1624)に旗本・岡部丹波守の屋敷ができ、坂の下を丹波谷といった。明治時代のはじめにこの坂を開き、谷の名から坂の名称とした。

港区ホームページ「丹波谷坂」

寄席坂

寄席坂(六本木3丁目4番、3丁目5番の間)

坂の途中の北側に、明治時代から大正3年(1914)にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになった。

港区ホームページ「寄席坂」

完走しての感想

前編の南部坂から霞坂までの6箇所以外は、一人で回った。
イヤフォンで音楽を聴きながら、予定ルートをひたすら歩いた。
歩きながら、あれこれと考える。
最終日の4日には、筋肉痛ではないものの、足腰がやや重い。
この動き、何かに似ている。
そうだ、登山かもしれない。
道中はひたすら体は堪えるものの、目にするものには興味を惹かれる。
私は近場で登山をしているんだな、そう考えながら、87箇所の坂道を回った。

ルートを印刷した用紙に、行った坂道の番号を消していく。
その様子は、あたかもスタンプラリー。
子どもが小学校に上がる前、一緒に回ったポケモンスタンプラリーとなんら変わりがない。

ちなみに、私が一番好きな坂道の形状は一番最初に向かった「薬研坂」。
くだって、のぼって、人生のよう。
先に見えるのは、赤坂御所。いいじゃない。
一番好きな景観は、「案鎮坂」。
赤坂御所の脇にあるからなのか、とにかく良い気が流れていて気持ちいい。

要した時間は12時間。
歩いた距離は36キロ。
同じ手法ではおすすめできないが、港区坂道めぐりはおすすめしたい!笑

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