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習い事日記

 社交ダンスに興味津々である。
 先日、ついに体験レッスンに行ってワルツを少し習った。そこで一番簡単なステップを習ったのだけど、「足を前、左、右」と動きの順番が出て来ると途端に苦手意識が背筋をせり上がって来た。私は日舞でこの手足の動きを覚えるのが非常に下手だった。

 しかしながら、ワルツは日舞と異なり、ひとつのステップを一曲ひたすらに繰り返すという振りが出来ないわけではない。さすがの覚えの悪い私でも、しつこくしつこく繰り返し練習して頂いたら、なんと出来るようになった。この時の喜びたるや。出来上がっていた「私は足の動きを覚えられない」という劣等感が、「練習すれば出来る」に切り替わった。

 恥ずかしながら私は、子供の頃からあまり苦手を克服した経験がない。勉強も部活も習い事も、それぞれやっているようで上達を感じた事がほとんどない人生だった。
 だらだらと長時間を費やせば、いつの間にか出来るようになっていることもあるけど、それは心理的なブレイクスルーの実感にはならないらしい。やっぱり設定したちょっと無理めの目標を達成するのが心理的効果絶大のようだ。そして、それを克服した難易度によって、根性も強化されて行くように思う。また、ちょっとやって出来なくても「もう少し繰り返せば楽に出来るようになる」と信じて努力を続けられる。

 そしてもうひとつ実感した。頭で覚える事だけに頼る事はない、と。
 これも当たり前にしている人は多いかもしれない。私はピアノの練習も日舞の練習も、頭で考えながら楽譜を読みながら行っていた。覚えるまでそうするしかないが、覚えると指の動き体の動きに頭の回転が追い付かない。頭の回転、というか、「(どのオクターブの)ド・ミ・ソ」と言語を組み立てているより早く指も体も動く。物の本には、「ピアノの楽譜は音符と鍵盤を一致させること」とあった。間に音階を頭で考えて挟んでいるようでは遅いのではないだろうか。

 日舞も……。私にとって習得出来ていない悔恨の日舞も、頭で考えるより体が動くくらい練習したらよかった。ただ、体だけ動いても正しいかどうか判定する装置が自分の中にない。ピアノは音がおかしい、リズムがおかしいと、多少セルフチェックが出来るのだけど、日舞は一人で踊っているとおかしいところにほとんど気付けなかった。
 日舞はピアノと違って記憶力を頼りに習って行く仕組みだった。楽譜は与えられず、それは自分で譜として書き上げて行く。時間管理の下手な私にはなかなか厳しい練習状況だった。もっと真剣に取り組むつもりで始めなくてはならない習い事だったのだろう。

 しかし社交ダンスのレッスンでもうひとつ思った事がある。
 「楽しい体験を同時に積む」。私は習い事でこれをやった事がほとんどなかった。ピアノの発表会は大嫌いだったし、人前で弾きたいとも思わなかった。日舞の発表会に類するものは徹底的に避けて一回しか出なかった。「私は人前で踊りたくて習っているのではない」と考えていたからだ。カルチャーセンターで習い始めたので、発表会用の予算も用意していなかった。では私は何のために日舞を習っていたのか。そこが永遠の謎になってしまうのでもあった。私は着物を着て美しく動きたかった。でもその到達点は謎のままだった。
 さて、社交ダンスの体験をした。そこの教室では、一回目から楽しく踊らせてくれた。社交ダンスは楽しいものだと感じた。そして、楽しく踊る機会も用意されているものだとも知った。私はダンスパーティで踊ってみたくなった。

 そうか。
 というのが私の今回の小さなブレイクスルーでもあった。

 目標があるから、日ごろの厳しいレッスンに耐えられるのか。
 というか、厳しいレッスンさえ求めるようになるのか。踊れるようになりたいから。
 弾けるようになりたい理由があるから、先生の厳しい指導も「付いていかなくては」と思える。
 私にはなんと、ずっと目標がなかった。目標もないまま、「出来るようになった方がいいから」というあいまいな理由で怒られる指導に耐えていた。動機が曖昧だと先生の熱のこもったご指導も結局あまり響かない。

 私は、もしかしたら割と多くの人が、新しい事を始めるのに抵抗を持つ年齢だと思う。でも、いくつになっても新しい事を学ぶのは新しい自分自身の発見だ。日々、世界は新しくなる。その体験が私は好きだ。

 

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