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『凪のお暇』と空気を読まない方法

どうして空気を読むの?

 この話をしたいがために、『凪のお暇』(私は漫画を2巻までしか読んでいないKindle Unlimited民)を題材にして申し訳ない気もするが、前に読書日記で少し感想に触れたのでその流れで。

 現代日本において「空気を読む」は持っていて当然の日本人スキルであり、持っていないと「非常識な人」とさえ言われる日常に関係の深い能力である。──とされている。
 『凪のお暇』の1巻から2巻においては、「空気読んでいこう」という主人公凪の心内語が繰り返される。この言葉で凪を取り巻く状況がわかって来るたいへん優れた一言だ。彼女はおそらく、彼女の居場所である場の空気があまり自分にとって好ましいものではない。しかしそこに合わせて振る舞ってやっていこうという方向に努力をしている人だ。そして、その事は、読者である多くの日本人には、その痛みを想像し我が事と思える内容なのである。
 「空気を読む」が大事なのは、それが対象への配慮として発揮される時だろう。例えば、送別会で感謝の声を届ける場になっているときに、その人への批判を持ち出すのは場が違う。そういうときに「空気を読む」大事になる。
 しかし凪の「空気読んでいこう」は、凪が「私が我慢して受け入れる」の言い換えになっている。凪にとって「(凪の)空気を読んでいない」のは周りの人々なのだ。しかし自分だけが周囲の空気に逆らう存在になっていると感じる凪は、自分自身に「空気読んでいこう」と言い聞かせて自分の存在を消し去ってしまう。
 「空気読んでいこう」という言葉に私以外の読み手もおそらく苦痛を感じてるはずで、それは「(自分自身が)押し潰される」という苦しさが想像出来るからだ。凪が窒息して倒れるのはまさに、空気を読むことで自分自身を絞め殺すような苦しみを感じていた事の証だろう。現代の日本人にとって「空気を読む」は自分自身をいかに殺せるかの耐久力レースである。
 そこで私には疑問が生じる。「何のために空気を読んでいるの?」。凪自身は、「そこで生きていくため」に空気を読んでいたと思われる。凪のすごいところは、自分が生きていくための行為で他人に幸せを提供できるところだと思うのだが(そしてそれが2巻以降で少しずつ周囲の人の凪の評価がどんなものだったかで明らかになっていく)、日本人の多くが「何故そんなに空気を読むのか」といえば、「相手への配慮」以外の場ではほぼ「自分のため」に空気を読んでいる。嫌われないため、付き合いにくい人だと思われないため、受け入れられずに困らないため、保身のため、自己防衛のため──。
 私はここに「空気を読む」を必修スキルと考える社会の脆弱性を感じる。それは利己的な行為なのだ。
 そしてそれだけに、やめられない。
 何故か。
 空気以外のモラルが、この日本ではほぼ力を持たないから。

正義の問題だと思う

 空気を読んで身体が窒息に陥る──つまり、生存にかかわる行為を阻害される。そこまで追い込まれるのは、空気以外、他に縋るものが何もないからではないか。
 空気を読みながら、皆が凪の苦しみを黙殺していた。気付かなかったのか、気付いて無視していたのかもわからない。気付いていたところで無視するのが日本人の空気を読む力だ。自分には関係ないのだ。そこでは知っていても知らない振りをするのが「空気を読む」つまり、自己防衛の手段なのだから。そして「気付かなかったなら、仕方ないね」で話は終わるだろう。もしも凪が世を儚んで自殺したとしても、「誰も気付かなかったんだ。じゃあ仕方ないね。ヨシ!」「あの人(凪)がいつも自分から私がやる、自分はこれでいい、って言っていたし」と凪以外の誰にも責任がない事にして終わり。内心心が傷んだり恐怖を感じる人もいるだろうが、出来るだけ忘れようとする。凪自体存在しなかったと思いたがるし、凪が自殺するから悪い、凪が自殺したために私がここまで苦しまなくてはならなかった、とまで凪を責める声が聞こえてきても何ら不思議ではない。
 「空気を読む」とは、不正や不正義を皆で一緒に認める行為としての側面が強いのだ。
 現在の日本の新型コロナ対策でもたびたび「同調圧力」という言葉を聞く。「皆が自粛しているから自粛する」「皆が自粛していないから自粛しない」。それは自粛が正しいか正しくないか以前なのだ。ただただ同調する。同調しない事は生きる術を失う事だから。
 時に「空気に抗う」とは、「不正と戦う」事そのものになる。
 「空気を読まない」は、正義の問題だ。特に親密な関係以外の人々が雑多に集まった場合、大方の空気は不正義の容認のために作られる。
 凪が「空気読んでいこう」と言うのをやめ、自分の思った事や自分への不当な攻撃を避けるようになるのは、それは正義の回復のためなのだ。

それでも空気を読むのがやめられない

 『凪のお暇』の感想は、前の段までで一旦終わる。空気を読まなくていい、それは正義(モラル)の問題だから。というところで、結論に出来るとも思う。
 ただ、ここに自分自身の経験を加えたい。「空気を読む」には、「配慮」の側面があると話した。「空気を読む」の善の側面である。先程は自己防衛のための「空気を読む」だったが、善の面での「空気を読む」はないのだろうか。
 簡単に「空気を読む」がやめがたいのは、そこに善の側面があるからでもある。では善の側面に注目するとどうなるか。
 「相手のためなら我慢する」となる。こちらは正義ではなく、愛の問題である。
 私が問題意識を持ってなかなか振り切れなかったのは、愛の問題の方だ。愛というと慎二に対する凪の執着のように思えるので言葉を変えた方がいいかも知れない。では愛ではなく「他人への尊重、思いやり」とする。
 嫌な仕事を次々と寄越して来る同僚。でもそれが彼らの手にあまるなら、代わりにやってあげるのは「思いやり」ではないか。家に来るなり腹が減ったと食事を要求し、手料理を食わせれば、次は自分に対する一方的な性の奉仕を要求する男。その男は疲れているのかも知れない。その男をわがまま勝手にさせてやるのも、時にはその疲労回復のために必要かもしれない。それも「思いやり」。
 そう思って「空気を読む」──相手の言いなりになることをやめられない事はないだろうか。
 特に、相手が「かわいそう」だったらどうだろう。仕事が本当に出来なくて、いつも残業して困っている人に仕事を頼まれたら? 人から嫌われ続け、虐げられ続けた男が自分を頼りに甘えて来ていたら?
 その人達を見捨てることは「悪い事」ではないだろうか?
 私自身が長いこと悩んできたのはこの種の罪悪感だった。
 ただ、もうこれは気付く人も多いだろう。「かわいそう」を理由にこの人達が自分でなんとかするべき事を代わって負っていたらどうなるか。この人達は「かわいそう」から抜け出せない。この人達が自分の力で生きていけるようになるのを邪魔する事になる。ずっと自分に依存させる事になる。
 ここには正義やモラルのような、ある程度の指標のある正しさはないかも知れない。しかし、自分に背負いきれないものは背負わなくていい。恋愛感情を抱けない相手と恋人同士で居続ける必要はないし、負い切れない仕事を自分が負うこともない。
 正しいのか正しくないのかはわからない。でも私にはそれが出来ない。だからしない。
 そのように断って良いのではないか。そして、「私には出来ません」と断る事は、相手の甘えや依存心を断ち切ることにも繋がる。自己主張することは、時に相手のためにもなるのだ。それは、相手を見捨てると限らない事もある。
 でもね、根本的にモラルや正義のない状態で「私には出来ません」と言い出すと、ただ無責任に他人を見捨てる事にも繋がるのが難しいところだと思う。自分で負えないだけで、自分以外の誰かには、相手の自立を促しながら手助けする事ができたりするから。「出来ないのは自分の力不足かもしれない」という気持ちもせめて忘れずにいられたらいいと思う。

『凪のお暇』コナリミサト 秋田書店
秋田書店*特設サイト
https://www.akitashoten.co.jp/works/nagi/

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